2013年3月31日日曜日

川村清雄ノオト 10

川村清雄と加島虎吉

川村清雄は明治30年頃から、書籍雑誌の装幀や挿画を手掛けるようになりました。最初は春陽堂の書籍と雑誌の挿画、そして雑誌『新小説』の表紙です。


『もうひとつの川村清雄展図録』目黒区美術館、2012年、82頁。

そして、明治42年に至誠堂が初めて出版した書籍、和田垣謙三の『青年諸君』以来、川村清雄は雑誌『新婦人』ほか、至誠堂の多くの書籍の装幀を手掛けることになりました。


『もうひとつの川村清雄展図録』目黒区美術館、2012年、78頁。

昭和2年(1927年)に上野公園美術協会で開催された「川村清雄画伯作品推奨会(昭和2年5月25日~31日)」を紹介する記事には次のように書かれています。


至誠堂加島氏など肝入りで
洋畵界の元老川村畵伯の個展を開く


……加島氏が昨今この展覧會に店も忘れて肩を入れてゐるといふ因緣は氏が明治四十三年故和田垣謙三博士の著『靑年修養』*を出版した際之が装幀一切を引き受けたのが川村畵伯で爾來十有八年氏との交情は濃くなる一方であつた、加島氏の出版と云えばいつでも畵伯が装幀の相談に預かつて來た、だから畵伯は明治以來の装幀美術にも歴史的な人物だと云へる

*『青年諸君』(1909年/明治42年)の誤り。
『読売新聞』1927年(昭和2年)5月28日、朝刊4頁。


明治後期以降、画壇とは距離を置いていた清雄ですが、じつはこうした雑誌、書籍の装幀を通じて、その作品は同時代の多くの人びとの親しむところとなっていたのではないでしょうか。

さて、それでは至誠堂の経営者加島虎吉と和田垣謙三、川村清雄はどのようなきっかけで繋がりをもったのでしょうか。


加島虎吉(明治4年/1871年〜昭和11年/1936年)

じつは木村駿吉『稿本(川村清雄 作品と其の人物)』には、清雄と至誠堂との繋がりについて、まったく書かれていないのです。2005年に目黒区美術館で開催された展覧会「『川村清雄』を知っていますか?―初公開・加島コレクション」展の図録には次のように記されています。


[木村駿吉の]『川村清雄』には最後にひとつ、不思議な点がある。それは文中で数度「至誠堂」の名が書かれている部分はあるのだが、恐らく木村も面識があったと推定される加島のことに一言も触れていないのはなぜかという点である。

山田敦雄「展覧会について」『「川村清雄」を知っていますか?―初公開・加島コレクション展図録』目黒区美術館、2005年2月、5頁。

木村駿吉の『川村清雄 作品と其の人物』では、実際に本文で加島虎吉について述べられた箇所がないのだが、川村の主要な作品の区分けに「至誠堂時代」というくくりを見ることができる。

降旗千賀子「加島虎吉と『至誠堂』」『「川村清雄」を知っていますか?―初公開・加島コレクション展図録』目黒区美術館、2005年2月、7頁。


これは私の推測なのですが、川村清雄の交友関係について木村駿吉の関心は主に旧幕臣との関係にあり、それゆえそれ以外の人々については——和田垣謙三を含めて——ほとんど記述がないのではないか、と思われます。

それはさておき、「もうひとつの川村清雄展」図録では加島虎吉と和田垣謙三とが同郷であったことが指摘されています。


加島虎吉と清雄がいかに知り合ったかについては、加島と同じ兵庫県出身という同郷の関係にあり、至誠堂に大きく関わった和田垣謙三が、関与しているとみられている。『兎糞録』『吐雲録』に掲載された「川村画伯と烏川」「川村画伯令息に贈りたる祝文」などからもわかるように川村清雄と和田垣の交友関係は知られており、美術や文芸に高い関心を持っていた和田垣が、当時猛烈な勢いで出版業を采配し波に乗っていた至誠堂の経営者、加島虎吉を引き合わせたのであろうことは想像に難くない。

降旗千賀子「『加島コレクション』から見えてくるもの」『もうひとつの川村清雄展図録』目黒区美術館、2012年、112頁。


* * *

『川村清雄伝』(林えり子、慶應義塾大学出版会、2000年)には、次のようにあります。


昭和四年の三越で催された画会への出品作は、抱一、または円山応挙、尾形光琳を彷彿とさせた。清雄の独擅場である「油彩による日本画」が晩年にきて、ますます日本的となったことを示している。……
加島虎吉もまた、清雄の作品を相当数持っていた。清雄は彼の出版社である至誠堂の出す本や雑誌の装幀、さし絵を多く手がけており、そんな関係から手もと不如意になると加島に一幅描いて持ってゆき、加島は何も言わずに画料を渡す、という按配だった。
そういうことで加島の許に清雄作品が集まったのだが、至誠堂の経営は昭和になると低迷し、換金にせまられていた。出品された百点の制作年代は、大正十年頃から昭和四年にかけてということになり、期せずして七十代になった清雄の到達した絵画観が披瀝されていた。

林えり子『川村清雄伝』224頁。


例によってここには典拠が記されていませんので、「加島は何も言わずに画料を渡す、という按配」であったのかどうかはハッキリとは分かりません。ただし、加島が相当な数の清雄の作品を持っていたことは間違いないでしょう。

ここでの記述では三越の展覧会で加島虎吉の所蔵品が販売されたように読めますが、どうでしょう。後述する通り、三越の展覧会(9月3日〜7日)の直後に、東京美術倶楽部で売立会(9月27日〜29日)が開催されています。たしかに、展覧会と売立会は連動していたようにも思われます。

なお、書籍取次店としての至誠堂が100万円の負債を抱えて破綻したのは大正14年のことです。その原因は、関東大震災後に加島が相場に手を出したため、といわれています。

川村清雄画伯全作品展覧会(昭和2年5月)

林えり子『川村清雄伝』224頁では昭和4年に三越で開催された展覧会が言及されていますが、加島が所蔵品の売り立てを行ったのは、冒頭で紹介した昭和2年の展覧会が最初です。これはなかなか評判を呼んだ展覧会だったようです。


『読売新聞』1927年(昭和2年)5月26日、朝刊4頁。



昭和二年五月、上野の日本美術協会において「川村清雄画伯全作品展覧会」が開かれた。展覧会の目的の一つは、至誠堂の事業再建のために加島虎吉が自身のコレクションを売却することでもあった。わずか一週間の会期だったが、反響を呼び、最終日の五月三十一日には東伏見宮妃が観覧に訪れた。

『維新の洋画家 川村清雄展図録』江戸東京博物館、2012年、158頁。


再度、冒頭の読売新聞の記事を引用しましょう。



至誠堂加島氏など肝入で
洋畵界の元老川村畵伯の個展を開く


明廿九日午後二時、久邇宮殿下にも御臺臨ある上野公園美術協會の川村淸雄畵伯作品推奨會は男爵平山成信氏を會長とし
正木直彦、和田英作、岡田三郎助、藤島武二の諸名家が發起人となつてゐるが實際の肝入役は川村老畵伯(七六)の門弟東條鉦太郎畵伯と、老畵伯の恩人故勝海舟翁の令孫疋田彰爾氏と、それからもう一人は老舗至誠堂の主人加島虎吉氏の三人である
加島氏が昨今この展覧會に店も忘れて肩を入れてゐるといふ因緣は氏が明治四十三年故和田垣謙三博士の著『靑年修養』*を出版した際之が装幀一切を引き受けたのが川村畵伯で爾來十有八年氏との交情は濃くなる一方であつた、加島氏の出版と云えばいつでも畵伯が装幀の相談に預かつて來た、だから畵伯は明治以來の装幀美術にも歴史的な人物だと云へる
今回の老畵伯作品推奨會では西郷公爵家出品の靜物(横八尺竪九尺)が五十年前の作といふ明治洋畵史上の貴い参考品を始め勝伯爵家出品『龍』(横八尺竪七尺)小笠原伯爵出品『瀧』(高さ一丈)植村澄三郎氏出品『鳩』(横一丈三尺竪九尺)の大作を始め合計百九十餘点を陳列してゐるが何れも明治初年歐米に留學した斯界の大先輩たる氣魄雄渾の逸品ばかりである(會期卅一日まで)

*『青年諸君』(1909年/明治42年)の誤り。
『読売新聞』1927年(昭和2年)5月28日、朝刊4頁。


展覧会最終日には、東伏見宮妃殿下が観覧されています。



東伏見宮妃殿下川村画伯作品展台臨
目下上野日本美術協会に於て開催中の川村清雄画伯作品展覧会は多大の人気を呼びつつあるが今卅一日は午前十一時東伏見宮妃殿下台臨遊ばさるゝ筈

『読売新聞』1927年(昭和2年)5月31日、朝刊7頁。


朝日新聞には5月29日に展覧会の案内記事、そして終了後の6月9日には《画室》を中心とした展評が出ています。




沈默廿年の
洋畫壇の元老

東洋的な味のある
五十年前の洋畫『畫室』

……
氏は今年七十六歳である、明治四十年の東京博覧會に故黒田淸輝子と審査のことから衝突し、憤然會場を退いて以來、同年秋世間をうならせた第一回の文展にも出品せずその後雨後のたけのこをさながらに新興して來たあらゆる美術團體にも更に姿を見せず、全然世の中からひつこんでしまつた、そんなことからだらう、故黒田子をとりまく新興洋畫壇の勢力が内外ともに泰西へ泰西へと花やかにのびてゆくにひきかへて、川村氏は洋畫の手法、材料をもつてあくまで傳統的東洋精神を描かうとしこれが又個人的な立場に離れてゆきともすれば存在だに忘れられようとしたほどだつたかうして約二十年の月日が経つた

×  ×  ×

それがついこのほどの美術協會の個人展ですつかり名をとりもどした、今度の名作展には代表的な三点が出品され、どれも好評だが、明治十年の海外作つまり今から五十年前の作品『畫室』が仲でも大変な評判である、同作は明治三十一年の明治美術會展覧會に出品されたもので静物の極幼稚な時代にギタやスリツパやぼろ布、花かご、さらに見もなれぬ品物が雜然とひろげられたのを、いかにもおほざつぱに描き入れた、それが當時の世間と洋畫壇をドウツと騒がせた様子は想像に難くない
……

『朝日新聞』1927年(昭和2年)6月9日、朝刊2頁。


昭和4年、三越での展覧会と東京美術倶楽部での売立会

加島虎吉のコレクションの売り立ては、昭和4年、三越での展覧会の直後にも行われています。


[昭和4年喜寿の祝いの展覧会の]すぐ後にあった美術倶楽部の売立目録を今改めて見ると、相当の点数である。この時の展覧会は、川村の作品を見てもらうという目的の他に、清雄の絵の後援者であったある本屋さんが、事情があって所蔵の絵を換金したいということで、開かれたものである。

川村清衛「父川村清雄の作品について」『川村清雄研究』116頁。


江戸博展図録(2012年)の年表に依りますと、三越の展覧会は昭和4年/1929年9月3日から7日まで、東京美術倶楽部での売立会は、同年9月27日から29日まで開催されました。

三越での展覧会に関しては、以下の通り。




喜壽の悦びに
憶ひ出の個展

洋畵界の長老川村淸雄畵伯
二日から三越で開く

不覇の老天才、我が洋畵壇随一の長老として知られてゐる川村淸雄畵伯(七八)が今度珍しくも個人展覧会を開くことになつた
畵伯は今春、畢生の大作『建國』をルクサンブウル美術館に寄贈して以來暫く繪筆を絶つてゐたが其喜壽の悦びを記念するため渡邊、小笠原兩子爵横山大観、川合玉堂、岡田三郎助、和田英作、幸田露伴博士、木村駿吉氏が發起となつて此企てが成立したもので
二日から七日まで三越で展観する
出品は洋畵とは云ふものの紙本に油繪具で試みるなど
日本 の豊かな幅物、横額、色紙弐百點、昨夜深更アトリエを訪ね回顧談を聞く
『私の洋行は明治三年で米國、仏蘭西に各一年半、伊太利に七年程ゐました、米國では森有禮公使の時で公使からすすめられて法律研究に赴いたのを畵の方へ方向轉換した、歸朝□舊幕時代の一ツ橋にあつた畵學校へ初めて洋畵をしたが此時分に故黒田淸輝さんが初めて洋行された、先頃物故した東條[=鉦太郎]さんなどが洋畵を習ひ始めたので現在の洋畵家で當時からの作家と云はれる方は一人もない』

『読売新聞』1929年(昭和4年)9月2日、夕刊2頁。



『読売新聞』1929年(昭和4年)9月2日、夕刊2頁。

その他

『和田垣博士傑作集』には、川村清雄、和田垣謙三、加島虎吉らのつきあいについて、少しばかり記述があります。


道別[=松本道別]獄[ごく]を出でし頃、博士[=和田垣謙三]は至誠堂より『兎糞錄』を出せり。川村畫伯はその表裝に挿繪に名筆を揮へり。余[=大町桂月]も多く著書若しくは編纂物を至誠堂より出しけるが、道別と田中貢太郎[たなかこうたらう]との二子は、余の編輯を補助せしを以て、博士、川村畫伯、道別子、貢太郎子、余の五人は相會するの機會多かりき。この五人に至誠堂主人[=加島虎吉]加わりて、高尾山に上りしことあり。……江ノ島思ひの外、近く見ゆ。江ノ島の手前の片瀬には、當時博士の夫人病氣にて転地療養し居りたり。余は心ひそかに博士の様子を見て、心ひそかに感服しぬ。げに、博士は物のあはれを知れる武士也。日將に暮れむとす。川村畫伯と至誠堂主人とは先ず下りぬ。酒ある中はとて、四人なほ止まる。……

高尾山の六人組は、南郊[なんかう]に梅を探りたることありき。二組にわかれ、一組は車にて直に池上本門寺の側らの梅多き酒樓に赴き、他の一組は蒲田驛に下り、附近の勝[しょう]を探りて酒樓に會することとなせり。道別、貢太郎二子と余とは後者也。この一行は一升樽を持ち行きて、ゆくゆく飮みぬ。本門寺の境内に入つて、日蓮納骨の堂を拜し、狩野探幽の墓を拜し、星亨の墓に至つて酒盡く。博士と相會して、その由を語れば、博士直ちに洒落て曰く、『飮みほして、とほつたか。』
例の六人組は、北郊に櫻を見物したることもありき。掛茶屋に上がりけるが、註文したる蠑螺[さざえ]の價[あたひ]餘りに高し。一同覺えず、『これは高い』と云へば、博士咄嗟に洒落て曰く、『さ〻いぢや無[ね]え』。
川村畫伯老いて益[ますます]健也[けんなり]。至誠堂主人もあり、道別子もあり、貢太郎子もあり。ひとり中心人物の博士、今や亡し。人間何ぞ寂寞なるや。

大町芳衞「和田垣博士傳」、大町桂月編『和田垣博士傑作集』至誠堂、1921年(大正10年)、566〜568頁。


和田垣博士が至誠堂から『兎糞録』を出したのは大正2年(1913年)ですから、大町桂月の記述はその頃のことになりましょう。桂月、和田垣、清雄等が麹町の富士見樓の大騒ぎにつきましては既に記しましたが(☞ 川村清雄ノオト 03)、これは大正3年(1914年)7月のことでした。

目黒区美術館での展覧会「もうひとつの川村清雄」展図録には、川村清雄が装幀に関わった至誠堂の書籍のリストが掲載されています(108~9頁)。これをみると、桂月、和田垣、清雄、加島等の交際がその後も、そして1919年(大正8年)の和田垣の没後も続いていたであろうことが想像されます。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

2013年3月30日土曜日

川村清雄ノオト 09

川村清雄と和田垣謙三

法学博士和田垣謙三は、万延元年(1860年)但馬国豊岡藩(現在の兵庫県豊岡市)の生まれ。川村清雄は嘉永5年(1852年)生まれですので、清雄より8歳年下になります。


和田垣謙三『意外録』南北社出版部、大正7年(1918年)、扉。


これまでのエントリでもたびたび触れましたように、川村清雄と和田垣謙三とは非常に親しい仲であったようです。木村駿吉『稿本』にも、清雄の恩人の名前として和田垣博士の名前が挙がっています。


徳川公爵を始めとして得能良介氏、勝海舟伯夫妻、和田垣謙三博士、小笠原長生子、高山長幸氏、松本常盤氏、小川正彌氏と天野亀太郎氏、これ等は私の大恩人です、この外にも恩人は沢山あります、どうぞそのことを忘れずに書いて下さいと、画伯の呉々の頼みであつた。

木村駿吉『稿本』108丁。


和田垣博士は清雄の作品を自ら購入したり、あるいは他の人に斡旋したりもしたようです。しかし、勝海舟や小笠原長生のように清雄のために画室を提供した訳ではありません。二人の関係はパトロンと画家というよりも、極めて親しい友人であったと考えられましょう。両者の交際に関する記述を見ていると、庇護する者される者の関係ではなく、其処には対等な人間関係の存在を窺うことができます。

二人の親交は、1919年(大正8年)に和田垣謙三が亡くなるまで続いたようですが、その出会いはどのようなものであったのでしょうか。これについては、文献によって記述に違いが見られます。ここではそれぞれの記述を検討してみましょう。

* * *

1921年に刊行された『和田垣博士傑作集』に、川村清雄は「畫酒の交際」というタイトルで故人を偲ぶ文章を寄せました。そこには両者の出会いが記されています。


私が和田垣博士と御知り合ひの間となりましたのは、確か今から二十七年前の明治二十七年であつたと思ひます。それは長田秋濤[をさだしうたう]君の宅で御目に懸かつたのが始めでありました。尤も其以前に和田垣博士は、或る古道具屋で、私の描いた詰らぬ畫[ゑ]を見られまして、大層面白い畫だが川村と署名がしてある、どんな人であらう、是非一度遇つて見たいものだと云ふ心が起つたさうでした。其後右に申します通り、故[もと]の長田秋濤君の宅で、偶然落ち合ひますと、和田垣博士は、「君が川村君であるのか。君には今日始めて御目に懸かつたが、君の畫は疾くに古道具屋で拜見しました。折りがあれば是非御目に掛かりたいと思つて居つた所ですが、善い所で今日面會致した。自分は畫が好きだから、是から是非御懇意に願つて、君の得意のものを描いて呉れ給へ」といふやうな話が出ました。是れが博士と私が御懇意になつた動機でありました。

川村淸雄「畫酒の交際」、大町桂月編『和田垣博士傑作集』至誠堂、1921年(大正10年)、663~665頁。


要約すると、

  • 川村清雄が和田垣謙三と知り合ったのは、明治27年(1894年)。
  • それ以前から和田垣は古道具屋で清雄の絵を見てその名を知っていた。
  • 両者が出会ったのは、仏文学者の長田秋濤(1871/明治4年~1915/大正4年)宅。


明治二十七年(1894年)というと、川村清雄が勝海舟邸を出た頃にあたります。清雄43歳のときです。

本人が書いているのだからそれでよい、という訳にもいきません。なにしろ、清雄の時間の観念はかなり曖昧なものであったからです。木村駿吉の言葉を引用しましょう。


川村画伯は画に関係した事柄では非凡の記臆力を持ち、用意周到で頗る精密であるが、時日や時間のことになるといつも實に漠然としてゐる。自分が米國に渡航した時日も、伊太利から歸朝した時日も、正確に覺えてゐないようである。巴里で學んだ時も伊太利に滞在した年月も判然しない。永い年月となると十年の二字で片付てしまう。十年間関係を續けたとか、十年目に約束が成立つたとか、十年間品物を預かつてゐるとか、十年になるが完成しないとか言われる。年月の單位が十年なのだ。であるからこの稿に記入した時日と年月とは画伯から聞いた儘では安心が出來ぬ。小笠原子爵や副島八十六君や天野亀太郎君に質して訂正したが、それでもまた判然としないのがある。

木村駿吉『稿本』62丁。


「27年前」とか、「明治27年」とか、妙にはっきりとした年号が出ていることも気になります。傍証がなければ、書かれたことをそのまま受けとる訳にはいかないのです。

* * *

木村駿吉『稿本』は、川村清雄と和田垣謙三の出会いを次のように記しています。


明治の中頃画伯が勝海舟伯の為に見出さるゝ前、和田垣謙三博士は逸早くその天才を認めて、その作品を同僚始め生活の餘裕のありそうな人に世話をした。その頃二十圓三十圓の金は中々の大金で、油繪にそれだけの金銭を投ずる人は少なかつた、洋行帰りの學者位であつたろう。これ等の人々は面と向て博士を罵り、君は道具屋の様な男だとまで言つて軽蔑したが、博士は我慢をして画伯の窮乏に同情した。画作[※画伯の誤りと思われる]の作品を買つた人々はまた、その價値を認めながらも足許を見てねぎり倒し、博士も餘りのことに一度は断念するが、大晦日に逼つて來ると気の毒な程な少金で渡してしまつた。世相は今日と異なつてゐなかつた。画の収入は幾分か両人の飲代になつたろうが、和田垣博士は画伯の為に心から親切であつた、画伯も大にそれを徳としてゐる。想えば画伯と和田垣博士とは蟻とあぶら蟲の様な関係の點もあつた。

木村駿吉『稿本』72~73丁。


「蟻とあぶら蟲の様な関係」とは、なんとも……。

さて、木村駿吉は、両者の出会いを「明治の中頃画伯が勝海舟伯の為に見出さるゝ前」としています。

川村清雄がヴェニスから帰国し、大蔵省印刷局に勤めたのは明治15年。明治16年には勝海舟邸に画室を設けています。和田垣と清雄が知り合ったのが「勝海舟伯の為に見出さるゝ前」とすると、明治15年ごろか、それ以前ということになります。

ところで、「洋行帰りの學者」たる和田垣がイギリス、ベルリンへの留学から帰国したのは、明治17年。東大の経済学教官となったのも同年です。このとき、和田垣は24歳。

ということで、木村駿吉の記述は、時系列に疑問が残ります。

* * *

林えり子『川村清雄伝』は、清雄と和田垣が親交を結んだきっかけを、外山正一(1848年/嘉永元年~1900年/明治33年)を介してのことと記しています。


和田垣謙三も清雄の人柄を愛した一人であった。但馬(現兵庫県)の出身で東京帝大に学び、イギリスへ渡ってケンブリッジ大学で理財学を修め、ベルリン大学を経て帰国し、法学博士となって母校の教壇に立った。法制の教科書や英和、和英辞書のほか、吐雲と号して随筆をものした。俳句、狂句、乗馬、弓術、謡曲と趣味の広さは人後に落ちず、その腕前は一級だった。
和田垣が清雄と親交を結ぶのは東大で同窓の外山正一を介してのことだと思う。……

林えり子『川村清雄伝』


残念ながらここには二人が知り合った時期が記されていませんし、典拠となる出来事も記されていません。
また、いくつか疑問点がありますので、記しておきます。

  • 外山正一と和田垣謙三は「東大で同窓」ではありません。外山は「明治10(1877)年東京大学創設第1陣の邦人教授」(☞ KOTOBANK)です。他方で、和田垣が東京大学に入学したのは明治10年9月です(『和田垣博士傑作集』805頁)。ただし、外山は東京大学教授になる以前に東京開成学校の教授でもありましたので、明治6年に開成学校に入学した和田垣とはすでに面識があったことは十分に考えられます。いずれにせよ「同窓」ではなく、「師弟」というほうがふさわしいのではないでしょうか。
  • 和田垣が法学博士の博士号を得たのは明治24年(『和田垣博士傑作集』805頁)。「法学博士となって母校の教壇に立った」という記述は、時系列が逆です。なお「理財学」はすなわち経済学のことです。当時は経済学の博士号は存在せず、経済学は広く「法学」に含まれていました。
  • 「東京帝国大学」という名称が用いられたのは明治30年以降のことであり、和田垣が学び、教職についた当時の名称は「東京大学」です。
  • 「法制の教科書」とあるのは、『法制経済新教科書』(文学社、1911年)を指していると思います。近代デジタルライブラリーで閲覧可能ですが、内容は師範学校生徒向けの、法学と経済学の教科書です。
  • 「謡曲」に関しては、一流とは言いがたかったようです。『和田垣博士傑作集』には、田中唯一郎が「珍無類なる和田垣博士の謠曲踊り」という一文を寄せています。

さて、川村清雄がアメリカ、フランス、ヴェニスに留学していた期間は、1871年(明治4年)から1881年(明治14年)まで。和田垣謙三がロンドン、ベルリンに留学していた期間は、1881年(明治14年)から1884年(明治17年)まで。となりますと、どちらかが海外にいた明治4年から明治17年までの間にふたりが知り合う機会があったとは考えづらい。
また、外山と清雄が出会ったのは清雄の米国留学中であったことを考えれば、清雄が留学する明治4年以前に両者が外山を介して知り合うこともありません。だいたい、明治4年に和田垣謙三は11歳です。このようなことを考え合わせますと、両者の出会いは明治17年以降のことになりましょう。

しかしながら、帰朝して東京大学に奉職したばかりの和田垣謙三が、果たして絵を購入し、また周囲の同僚に斡旋するということがあったのか、可能であったのかどうかは、良く分かりません。
ちなみに、明治17年、和田垣謙三の年俸は1200円(月100円)。清雄の印刷局での俸給が月60円(のち90円)で、「破格の待遇」(『川村清雄伝』113頁)だったそうです。

* * *

『和田垣博士傑作集』にはその他の人も和田垣博士と清雄との交際について記していますので、引用しておきましょう。


又川村淸雄氏といへば現代に於ける有名なる洋畫家で、博士とは三十年間も親密な交際を續けて居た。博士は此の川村氏の爲めに圖ること極めて忠實で、寝食を忘れて奔走し、作品の周旋には隨分努力した。

蘆川忠雄「和田垣博士の平生」、『和田垣博士傑作集』761頁。


「博士とは三十年間も親密な交際を續けて居た」という記述は、清雄自身の「今から二十七年前」とほぼ一致します。

さて、清雄と和田垣博士の出会いを巡る3つの記述のうち、どれが正しいのでしょうか。

私としては、正確な時期に関してはさておいて、長田秋濤宅で会ったという清雄自身の説明がもっともしっくりくるように思っておりますが、いかがでしょうか。

そしてそのように考えますと、川村清雄は和田垣謙三と知り合う以前に、長田秋濤と何らかの関係があったことになります。それでは、清雄はいつ、どのような経緯で長田秋濤と関わりを持ったのでしょうか。

wikipediaによると、長田秋濤は「静岡県静岡市西草深町に徳川家直参の子として生まれる」とあります。つまり、ふたりは静岡・徳川家繋がりで知り合った可能性が高いでしょう。しかし、それがいつ、どこでのことなのかは分かりません。

調べた範囲では、ふたりの名前を並んで目にすることができるのは、長田秋濤訳、川村清雄画『王冠』(春陽堂、明治32年/1899年)が最初です。


『読売新聞』1899年(明治32年)10月24日、朝刊6頁。

『王冠』において、清雄は表紙と口絵を描いています。


『もう一つの川村清雄展図録』目黒区美術館、2012年、88頁。

『王冠』の出版元は春陽堂。清雄は明治30年(1897年)から、春陽堂の雑誌『新小説』の挿画や口絵、表紙を描いています。

というわけで、川村清雄と長田秋濤の関係は、少なくとも明治32年までは遡ることができます。

* * *

他方で、和田垣謙三と長田秋濤は、いつ、どのように出会ったのでしょうか。

秋濤夫人長田仲子は次のように書いています。


亡夫[長田秋濤]が和田垣博士に御交際をお願ひしましたのは、たしか明治十七年頃からと記憶致して居ります。尤も博士とは私の父の時代からの交際でありまして、私を長田に媒酌して下すつてからは、一層博士との交際も頻繁になつたやうに記憶致して居ります。

長田仲子「和田垣博士と亡夫との交際」、『和田垣博士傑作集』612頁。


和田垣は秋濤の11歳年上。その関係を夫人は「一寸見ると友人間の交際のやうに思はれますが、實際のところは、師弟のやうな間柄で御座いました」(612〜613頁)と述べています。

明治17年といえば、和田垣謙三が留学から帰国した年です。秋濤はまだ15歳ですね。ずいぶんと古い時代からのつきあいだったことになります。

* * *

さてさて、ここまで見てきたように、川村清雄と和田垣謙三の出会いの時期については、明解な結論はありません。それでも、話を総合すると、川村清雄が和田垣謙三と知遇を得たのは、どんなに早くても明治17年以降。そのほかの状況からして、明治30年頃までには出会っていたと考えられましょう。また、「外山正一を介して」という記述に典拠がない以上、長田秋濤を介してであったという清雄の言葉を疑う根拠はありません。

画酒の交際

私の調べた範囲でですが、川村清雄と和田垣謙三の交際が史料に残るのは、明治40年からです。


○奇聞珍聞 ▲去る廿九日 河村淸雄畵伯が和田垣博士から電報を受取つた。開いてみると「ヒル、マツ」とある 例の先生の事だ御馳走でもあるのかと高をく〻って行て見ると「君もう遅いだろう、早く行かう」「何處へです」「文藝講演會へ河村淸雄が演説するからつて云つて置いた、直ぐ行つて演説してくれ、車だ車だ」と云ふ仕末、河村先生アツケに取られたが博士の事だから止むなく車を連ねて會場なる牛込の演藝館へ驅けつけてみると門前寂として人影もない、「妙だな」「妙ですね」と考へて見ると豈[あに]計らんや、博士が開會の日を一日間違て居たのであつた。(茂)

『読売新聞』1907年(明治40年)7月9日、朝刊6頁。


この明治40年夏には、神楽坂で「泰西名画展覧会」が開催され、そこに和田垣博士が清雄の油画を泰西名画と偽って出品したという「悪戯」については、すでに記しました(☞ 川村清雄ノオト 05)。これらのエピソードから、和田垣博士が明治40年までには清雄と親しくつきあい、その作品を高く評価していたことが分かります。

川村清雄の装幀による和田垣謙三の著書『青年諸君』が刊行されたのは、明治42年(1909年)。これは至誠堂が手がけた最初の本でもあります。


『朝日新聞』1909年(明治42年)7月16日、朝刊1頁。




靑年諸君(和田垣謙三著)  発行後僅か二年にして今や增訂第十一版成る。博士も亦一代の人氣者なる哉。本書は今更喋々の要もなけれど諧謔洒落を以て名を知られたる博士が 旣往廿年間に亘り大學講座以外に於て、或は口にし或は筆にしたるものの中、特に現代靑年に[不明]を披瀝せるもの、靑年諸君たる者宜しく一本を座右に備ふべき也。(洋装四六版四〇六頁價壹円日本橋區本石町至誠堂)

『読売新聞』1911年(明治44年)8月28日、朝刊1頁。


※この稿、随時加筆修正の予定あり。

2013年3月29日金曜日

サイヤミーズコネクション


| shinbashi | mar. 2013 |

siamese connection。
連結送水口のことだそうです。

siameseとはシャム人、またはシャム双生児。
ふたつの口があるから、そのように呼ばれているのだとか。

またひとつ、知識が増えました。
新橋にて。

2013年3月26日火曜日

静岡駅南口の木造アーケード

静岡駅南口近く。
繁華街の片隅に朽ち果てた建物が残る一角がありました。


| shizuoka | sep. 2012 |

昨年9月に静岡を訪れたときに通りがかって気になっていたのですが、そのときは内部の構造のすごさには気がつきませんでした。

* * *

場所は静岡駅南口。
新幹線の線路も見える駅至近の立地です。


google map:2013/3/25取得、加工

静岡駅の北口は再開発が進み最新のビルが建ち並んでいるのですが、南口には古い建物と、再開発準備のための空き地とが点在しています。


| shizuoka | mar. 2013 |

3月23日にここを再訪。
建物と建物の間の通路は垂木の柵で封鎖されていました。


| shizuoka | mar. 2013 |

表からのぞき見ると、こんな感じ。


| shizuoka | mar. 2013 |

見上げると増築に増築を重ねたすばらしい構造。


| shizuoka | mar. 2013 |

封鎖された入口とは別の場所に内側への通路がありました。
おそるおそる奥に入ります。
すると……中は素敵な木造アーケードでした。


| shizuoka | mar. 2013 |

意外にも床は掃除が行き届いており、綺麗。
建物も古いのはたしかですが、ボロボロではありません。


| shizuoka | mar. 2013 |

雨露が当たらないために、歳月の割に傷まないのでしょうか。
増築部分や雨樋、柱などが複雑に交差し、不思議な空間を作っています。


| shizuoka | mar. 2013 |

下の写真はおそらく共同便所。

奥まで入る勇気はなかったのですが、覗いてみたところ、仕切りの間には朝顔ではなくプラスチックの樽が置かれていました。匂いもありませんでしたので、トイレとしては機能していないのかも知れません。
※ トイレも現役! とのコメントを頂きました ^^


| shizuoka | mar. 2013 |

内側から道路を見るとこんな感じ。

「大衆酒場うき」の脇にはエアコンの室外機。
縄のれんもかかっており、現在も営業している様子。
室内には人の気配を感じました。


| shizuoka | mar. 2013 |

このアーケードについてググってみても、ヒットした情報はひとつのみ。ググりかたが悪いのか……。


道路に面したお店は居酒屋やスナックだったように見えます。
しかしアーケード内部の建物には看板もなく、商店のつくりにも見えず。
ここはいったい何だったのでしょうか。
なぜアーケードになっているのでしょうか。

ご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えください。

* * *

住所は静岡市駿河区南町。


google map:2013/3/25取得

google mapの航空写真でみると、建物とアーケードの関係がよく分かります。


google map:2013/3/25取得

周囲には再開発計画もあり、いずれこの一角も姿を消してしまうと思いますので、ストリート・ビューの画像もクリップしておきましょう。
撮影は2012年5月となっています。


google map:2013/3/25取得


google map:2013/3/25取得


google map:2013/3/25取得


google map:2013/3/25取得


google map:2013/3/25取得


google map:2013/3/25取得


google map:2013/3/25取得


川崎の木造アーケード。



小向マーケット



* * *

そうそう、
静岡駅南口を舞台にしたご当地ヒーロー番組があるらしいですよ(笑)。


「からくり侍 セッシャー1」

2013年3月24日日曜日

街の彫刻。

正確にいえば、建物内に置かれているのですが……


| sekiguchi | mar. 2013 |

セコムするよりも防犯効果がありそうです。


| sekiguchi | mar. 2013 |

文京区関口にて。


これも怖い。



街の彫刻。


2013年3月22日金曜日

桜 2013


| megro | 20 march 2013 |


| megro | 20 march 2013 |


| megro | 20 march 2013 |

* * *


| nishi-waseda | 22 march 2013 |


| nishi-waseda | 22 march 2013 |


| nishi-waseda | 22 march 2013 |


| nishi-waseda | 22 march 2013 |


| edogawa-bashi | 22 march 2013 |

2013年3月17日日曜日

記録写真:東横線代官山駅

東横線の渋谷ターミナルは廃止されるということで感傷的な気分に浸っていたわけですが、渋谷から一つ目の代官山駅も変わりました。

変わったといっても駅舎はそのまま。ホームの位置が少しばかり下がったわけです。ホームを歩いているぶんには、結構分からないものです。ここでは代官山駅のbeforeとafterとを記録しておきましょう。

まず、渋谷側のホーム端の風景。

【before】

| daikan-yama stn. | 14 mar. 2013 |

【after】

| daikan-yama stn. | 16 mar. 2013 |

今までは山手線の上を渡っていた東横線は、ここから一気に下って山手線の下をくぐり、明治通りへと抜けていきます。勾配のスタート地点は代官山トンネルの出口。そのために、代官山駅のホーム位置も下げられたわけです。

前後の写真を重ねて対比してみます。



ホームや線路の位置を描いてみると、beforeとafterのホーム位置の差は2メートルほどでしょうか。

【after】

| daikan-yama stn. | 16 mar. 2013 |

【after】

| daikan-yama stn. | 16 mar. 2013 |

* * *

その他、ホーム位置の差を対比できる写真をいくつか。

【ホーム中程】


よく見ると駅名標など下側に移設された掲示物と、ポスター掲示板のようにそのままになっているものとがあるのがわかりますでしょうか。

【ホーム中程から渋谷側を臨む】


【階段付近】


円い柱の下側、色が異なる部分のぶん、ホームが下がっています。

【橋上から】


夜の写真が beforeです。
上から見たのでは、ほとんど違いが分かりませんね。

【渋谷方面階段付近:before】

| daikan-yama stn. | 11 mar. 2013 |

【渋谷方面階段付近:after】

| daikan-yama stn. | 16 mar. 2013 |

【中目黒方面階段:after】

| daikan-yama stn. | 16 mar. 2013 |

段がふたつ、増えています。

* * *

代官山駅を出て少し行ったところに踏切がありましたが、ここも廃止されました。ガードレールの上に鈴なりになって代官山方面の写真を撮るひとたち。


| daikan-yama stn. | 16 mar. 2013 |

使われなくなった警報器には黒い覆いがかけられ、線路の隙間にはすでにアスファルトが詰められていました。


| daikan-yama stn. | 16 mar. 2013 |