川村清雄の長男
すでに記した通り、洋画家・川村清雄の生涯にはさまざまなラブ・アフェアがあったようですが(☞ 川村清雄ノオト 07)、4度目の結婚で初めて子供――清衛さん――を授かりました。大正元年(1912年)12月、川村清雄60歳のときです。
このときの妻ふくは病のため、大正8年(1919年)3月21日に37歳で亡くなっています。清雄が68歳、長男清衛が8歳のときです。
母親を亡くした清衛さんは、はやくから父・清雄の身の回りの世話や画の手伝いをされていたようで、その献身は木村駿吉の『稿本』にも、はたまた『読売新聞』紙上にも取り上げられています。とくに川村清雄の大作《振天府》(昭和6年、聖徳記念絵画館)の制作に当たっては、清衛さんは高齢の清雄の眼となり手となり、その手助けをしたようです。
清衛さんに関する新聞記事がいくつかありましたので、クリップしておきます。
長男誕生
長男清衛が生まれたのは、大正元年(1912年)12月。川村清雄60歳のときです。『読売新聞』には、かなり長い記事が出ています。
それにしても画家のお目出度が新聞に載るなんて……。
●川村(かはむら)畵伯のお目出度(めでた)
△本卦返りに男の児
▲畵壇の奇才 川村淸雄氏は今年六十一だ。普通ならば孫の三五人も有つて嬉々として餘生を楽しんで居るのが日本人並みだ。所が畵伯は中々の元氣で子供に返った積りで懸命に畵筆に親しんで居る 細君も未だ女盛りの三十で、倫落の間に内助の功はすばらしい、今年の春兩親[ふたおや]を一度に喪われてから間も無く、細君が妊娠したらしい様子で、親戚でも川村家の相續人がやつと出來た、大方故の
▲壹岐守の生れ替り だらうと、まだ生まれもしない中から、宗家中大喜びであつた、月滿ちてやつと今月が臨月といふ先、一昨日の午前二時頃から産氣づいたが、何分にも三十で初産といふので非常な難産で、掛り付の醫師宮田、天野の両醫學士産婆の天野一子が二日二夜詰切ての手當、清雄畵伯も初ての子といふに、難産の産婦が苦悶の狀[さま]を見ては
▲氣もわくわく 畵筆も手に執れず母を喪ふか、子を喪ふか、二つに一つ荒療治を施さねば六かしいとの醫師の宣告を聞いて、覺悟を定め、産婦にも觀念させ、さて愈機械の力で産ませてみた、すると案ずるより産むが安く、昨日の午前十一時、玉の様な男の子が生まれた且、母子共に至極健全で
▲何等の異狀 もないので、淸雄畵伯も大喜び、喜びの余り
かなしさをもそふとのみ思ひしに
ヒヨコとはえたる冬の竹の子 と口吟んだ 世間は年の暮れで火の車が廻つて居る 此に淸雄畵伯の家ばかりは御祝ひの人の車で大混雜、目出度い本卦返りに男の子 目出たう年を送り年を迎へて、ますます畵筆にいそしまれる瑞兆と人の口車に乘つてかくの如し
川村清雄の両親は同じ年、明治45年の初めに相次いで亡くなっています。また、川村家に清雄以外に男子はおらず、跡取りの誕生が喜ばれたことは想像できます。
新聞には、
かなしさをもそふとのみ思ひしに ヒヨコとはえたる冬の竹の子
という歌が載っていますが、清衛さんによれば次の歌も残されているようです。
新宿御苑に隣接する千駄ヶ谷の家で、清衛の誕生を喜び
たづのなく御園にとなる我宿に 初声あげし松のみどり子
親一人子一人のさびしい生活
川村清雄の妻ふくは、病のため大正8年(1919年)3月21日に37歳で亡くなっています。清雄が68歳、長男清衛が8歳のときです。
その後清雄は大正11年の暮れにもう一度結婚をしたようなのですが、わずか10日間で別れたことは既に書きました。
妻のない不自由な生活は、いろいろな人々に助けてもらったばかりではなく、息子の清衛さんも小さいころから随分としっかりとしたお子さんで、清雄の手助けをしていたようです。
※次の記事では清衛が「巴」となっています。
日曜クラブ 子供のページ
上手なのは繪とお臺所
=川村淸雄畵伯の坊ちゃん
親一人子一人のさびしい生活
いまの洋畵家中で年齢が一番多く明治の中頃から奇人として評判の高い川村淸雄翁は、市外千駄ヶ谷のお住居に
奥様を亡く して以來一粒種の巴さんと親一人子一人の生活を續けてゐますので知り合いの奥様という奥様お嬢様というお嬢様が入り代わり立ち代わりお二人のお世話を數年間し續けてゐたのでしたが昨年の秋緣あつて迎えられた若い後妻とも間もなく離婚した後は女中のおとりさんと三人暮しで
浮き世の風を 他所に繪筆三昧の生活をしてお居でです。巴さんは淸雄翁の六十一歳の時のお子さんで今年十一、曉星小學校の三年生ですが矢張りお父様の血をうけて繪がうまく五歳の時以來描き初めた自由畵が頗る性質がいいといふので
描いた作品 を今に保存してお父さんの淸雄翁がその成長を楽しみにし 先年亡くなつた和田垣謙三博士などもひどく可愛がつて居られたとのことです、お母様はなくてもおとなしくてお行儀のばかにいゝ巴さんのお頭をお父様が撫でながら『お前お客様にホラあのはもの味噌吸い物でも
拵えて進ぜ なさい』と言われてはづかしさうにしてゐる巴さんが『それよか千駄ケ谷名物のあれがいいぢやありませんか』と急いで近所のお蕎麥屋へ飛び出して行きました『あの小僧は妙な奴で八歳の時からご飯を炊きまして一度もやり
損なつた事 がないばかりか實にうまいのです、お豆腐の料理から、おからいり、その他どんなお料理でも手際よくやつてのけるといふ料理の天才です、こんどお見江の時には巴の手料理一切で麥飯を御馳走しませう』と仰しやるくらゐ、小学校の而も男生徒で
甘へ盛り の坊ちゃんにしては珍しいお子さんです、巴さんが學校へ行く必要さへなければ奥さんも女中さんもいらないのにとはお父様のお話です
「八歳の時からご飯を炊きまして一度もやり損なつた事がない」というのはすごいですね。電気炊飯器ではないのですから。しかし、「巴さんが学校へ行く必要さへなければ奥さんも女中さんもいらないのに」とはちょっと……。
なお、この記事が出た前日には『読売新聞』に「花むこ十日間=七十一歳の川村清雄画伯=」という記事が掲載されおり、おそらく同時に取材されたものではないかと思われます。
* * *
この当時、川村父子が住んでいたのは「千駄ヶ谷千番地(現在、千駄ヶ谷五丁目三十二番十四号)」*。千駄ヶ谷といっても、新宿駅と代々木駅の間です。地図で見ると、新宿駅新南口と代々木駅の間、日本製粉と明治通りを挟んだ向かい側で、現在その一帯はSKビルになっているようです。
この千駄ヶ谷の家について、木村駿吉『稿本』には次のようにあります。
元の代々木の家では令閨*の存命中、令閨でさえ画室えは入れなかつた。描きかけてゐる時に誰にでも見られると興味が薄らぐと言われる。
また、清衛さんの元服に際しては初着の式を行うことを考えていたようですが、実際に行われたのでしょうか。
この幼児も今は中學通ひの成童となり、画伯は祖父對馬守贈位の報告祭を兼ねて、祖父の鎧兜を取出して令息の元服に初着の式を行い、鎧親にはこの道に通じた五姓田芳柳画伯*を煩はし、芳柳画伯は自身甲冑に身を固めて着附けの役を演ずる筈である。と云うて川村画伯はその日の来るのを樂しみにしてゐられるが、どこまでも藝術的で時代を超越してゐるのが面白い。
清雄の手伝い
清衛さんは清雄の身の回りの世話ばかりでなく、頻繁に仕事の使いも行っていたようで、木村駿吉『稿本』にもそのエピソードが書かれています。
……大晦日の晩十時ごろ、画伯の令息が大きな画を車夫に持たせ、さも主人の不在を気遣う様に、お留守ですかと言ひながらやつて来られた。画は五尺に二尺の横物で、破れた竹籠の中の藁の上に、純白の雌雛が胸も首も肩も胴も羽もふつくらと膨らませて卵を温めてゐる処で、あたりに注意しながらおつとりとした母愛の眼付き、これは川村画伯得意の筆意。……大晦日の真夜中人通りはあろうとも、郊外の淋しい道を帰られる令息の身を気遣って、妻は令息の袴を脱がせ帯を解き、じゅばんの上から潤筆料を入れた風呂敷を胴に結い付けた。怜悧とは云へ幼時母親を失つた十三歳の令息、さぞや平生母親の愛に飢えて居ろう、母らしい温かい手で触られる懐かしみを感ぜずにはゐられまい。妻も暗涙を呑んでゐたらしかつた。室の中は暫くしいんとして、ユンケルストーブの内で時々コロコロと音がする計り。車夫が悪心を起こさない様にと玄関で妻は巧みに言いこしらえた。
和田垣博士に贈られた言葉
最初に挙げた『読売新聞』の記事には、「先年亡くなつた和田垣謙三博士などもひどく可愛がつて居られた」とありました。
和田垣博士の没後に刊行された『和田垣博士傑作集』。ここに寄せられた清雄の一文には、清衛さんの誕生日に和田垣博士が文章を書いてくれたと記されています。
又博士は友誼に厚く、所謂血あり涙ある氣質がありまして、私の宅に喜びがあるとか、不幸がある時は、如何に多忙の用事を差繰つても、必ず御出でになつて呉れましたので、私も博士の深切に對しては深く感謝を表して居る次第であります。又私の一子淸衛が誕生日に博士は態々[わざわざ]御出でになつて、英文にて將來のために國家有用の人となるべしといふやうな意味を含んだ訓戒的の文章を御書き下さつたのが、今も宅に殘つて居りますが、博士を追懐する無二の記念物となつて居るのであります。
どのような文だったのでしょうか。
ちなみに、和田垣謙三『吐雲録』には、次の言葉が収録されています。
To Kiyoye
On His Birthday.
Thy father is an artist of the first order. May Heaven guide and help thee -- one of his masterpieces thyself -- to excel in whatever line thou choosest of devote thyself to, as does thy father in his!
乃父[だいふ]は第一流の美術家なり。願くは皇天、汝――汝は實にその傑作の一なるよ――を誘ひ助け、汝が汝の一生を委ぬべく撰定する徑路に於て卓然超越すること、猶乃父が渠のそれに於けるが如くならんことを。
はたしてこれが清雄の云う「英文にて將來のために國家有用の人となるべしといふやうな意味を含んだ訓戒的の文章」と同じものなのかどうか。
振天府
明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館には、川村清雄による大作《振天府》が納められています。清雄がこの画を完成させたのは昭和6年、80歳のとき。徳川家達公からの制作依頼を受けてから10年後のことです。
なにぶん老齢のこと、長男清衛さんは学校を止めて父親の大作完成に協力したそうです。
壁畵「振天府」を繞つて
川村畵伯親子が涙の精進
刻苦十年・遂に大作を完成
★…八十の老體に鞭打つて刻苦十年去る二十八日遂に一代の大作明治神宮繪畵館の壁畵「振天府」を完成して美術界を驚嘆させた川村淸雄畵伯父子にまつはる涙ぐましいエピソードがある
★…川村畵伯はすでに明治三年德川家から米佛に油畵研究の留學を命ぜられた程の先覺者で明治神宮繪畵館の創設と同時に德川家達公から奉納洋畵「振天府」を依嘱され爾來案を練ること實に九年、昨年末漸く下繪を完成し、一氣に仕上げにとりかゝり、
本年七、八月の眞夏には德川公邸に九月からは繪畵館内に籠り刻苦の精進をつゞけた
★…何分にも八十の老齢で視力も弱り史實、寫眞等も細部はすでに明撩をかく不自由さに妻を失つてからの翁には全くの一粒種の淸衛君(二〇)は日夜常に傍につき切り色の見分けを手傳ひ下繪の細部には淸衛君が筆をとつて更に翁が仕上げをするといふ涙ぐましい共力を續けた
★…この爲め淸衛君は一昨年から暁星中學も三年で中途學業を捨てて父の大作完成にともに精進するに至つた、この父子の文字通りの心血になる大作も十月に入つて遂に完成し廿八日奉納され親一人子一人の淋しい家庭にも喜びの春が訪れて來た
★…千駄ヶ谷の家に畵伯を訪ねると腰こそ旣に曲つてはゐるがつやのいゝ顔、長いまつげ、それに宗匠然たる十徳を着た畵伯はまるで南畵中の翁である
★…翁は傍の淸衛君と苦心の跡を交々語るのだ
「もう一年も手をかけたかつたのですが德川公等も大分急がれてゐられるので夜を日についで完成しました、仕上げにかゝつてからは一日も休まず毎日家から粥を運んでもらひ幾度も徹夜をして精進しました、淸衛が學校を止めて助けてくれましたが仕事も完成しましたから今度は本式に繪を習つてもらはうと思つてゐます」
清衛さんを画家にしたい、という清雄の希望は、木村駿吉の『稿本』にも記されています。
画伯が嘗めたい様に可愛がつてゐる令息を画家にすると言てゐられる。誰々に就て洋画を習わせ、誰々に就て日本画を習はせ、宅でも教えると言つて、令息の先生は人選済みになつてゐる。
朝日新聞にも同様の記事が出ています。
明治神宮繪畵館を飾る『振天府』成る
八十歳の川村淸雄老畵伯が
刻苦実に十年の力作
去る十月二十八日明治神宮繪畵館の壁畵『振天府』の大作を刻苦十年の後に完成した八十の老翁川村淸雄畵伯は美術界の驚異と賛歎の的となつて居るが、この大作完成の裏に潛む翁の辛苦には涙ぐましいさふ話がある
○
…(略)…
○
何分にも八十の事とて視力が次第に弱り宮内省御貸下げの小さな冩眞から細部の詳細を眞生する事も出來なくなつたが親一人子一人のさびしい暮らしとて手傳ふ人もない不自由さに令息淸衛君(二〇)は一昨年暁星中學三年限り休學して日夜翁の傍につき切りで冩眞その他の史料を大きく描き冩したり色の見分けを手伝つたり翁の力作感性に精進を続けたのだつた
まことに『振天府』は川村父子の文字通り心血を注いだ大作に外ならない、腰こそ多少曲つては居るがかくしやくたる翁はこの大作完成後の休養もとらず直に德川家達公からの依嘱を受けた九尺に二尺五寸の黒板に『コンノート殿下德川邸御成の圖』の大作に着手すべく準備を進めて居る
○
淸衛君は今後學校生活へ戻るかあるひはこれを轉機として畵の道へ進むか前途の方針を考究中であると【冩眞は川村畵伯】
《振天府》の制作について、清衛さん自身も書いています。ただし、ご自身の手伝いについては語っていません。
「振天府」[図版93] 明治神宮外苑の絵画館の壁画で、他の作家とは多分に異なった作品と感じられるだろう。描かれた内容については省略するが、この絵を完成させる頃は清雄も相当な年齢で、体力的に骨が折れたことと思う。例えば、画面下の螺鈿の模様あたりは、清雄の最後のお弟子さんに当る石野[いわの]静子さんが手伝った部分である。勿論、最後の仕上げは清雄がやったわけであるが。
* * *
清衛さんはその後カメラマンとなり、また川村清雄の仕事の研究と紹介に尽力され、2002年4月に亡くなられました。
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