2013年3月31日日曜日

川村清雄ノオト 10

川村清雄と加島虎吉

川村清雄は明治30年頃から、書籍雑誌の装幀や挿画を手掛けるようになりました。最初は春陽堂の書籍と雑誌の挿画、そして雑誌『新小説』の表紙です。


『もうひとつの川村清雄展図録』目黒区美術館、2012年、82頁。

そして、明治42年に至誠堂が初めて出版した書籍、和田垣謙三の『青年諸君』以来、川村清雄は雑誌『新婦人』ほか、至誠堂の多くの書籍の装幀を手掛けることになりました。


『もうひとつの川村清雄展図録』目黒区美術館、2012年、78頁。

昭和2年(1927年)に上野公園美術協会で開催された「川村清雄画伯作品推奨会(昭和2年5月25日~31日)」を紹介する記事には次のように書かれています。


至誠堂加島氏など肝入りで
洋畵界の元老川村畵伯の個展を開く


……加島氏が昨今この展覧會に店も忘れて肩を入れてゐるといふ因緣は氏が明治四十三年故和田垣謙三博士の著『靑年修養』*を出版した際之が装幀一切を引き受けたのが川村畵伯で爾來十有八年氏との交情は濃くなる一方であつた、加島氏の出版と云えばいつでも畵伯が装幀の相談に預かつて來た、だから畵伯は明治以來の装幀美術にも歴史的な人物だと云へる

*『青年諸君』(1909年/明治42年)の誤り。
『読売新聞』1927年(昭和2年)5月28日、朝刊4頁。


明治後期以降、画壇とは距離を置いていた清雄ですが、じつはこうした雑誌、書籍の装幀を通じて、その作品は同時代の多くの人びとの親しむところとなっていたのではないでしょうか。

さて、それでは至誠堂の経営者加島虎吉と和田垣謙三、川村清雄はどのようなきっかけで繋がりをもったのでしょうか。


加島虎吉(明治4年/1871年〜昭和11年/1936年)

じつは木村駿吉『稿本(川村清雄 作品と其の人物)』には、清雄と至誠堂との繋がりについて、まったく書かれていないのです。2005年に目黒区美術館で開催された展覧会「『川村清雄』を知っていますか?―初公開・加島コレクション」展の図録には次のように記されています。


[木村駿吉の]『川村清雄』には最後にひとつ、不思議な点がある。それは文中で数度「至誠堂」の名が書かれている部分はあるのだが、恐らく木村も面識があったと推定される加島のことに一言も触れていないのはなぜかという点である。

山田敦雄「展覧会について」『「川村清雄」を知っていますか?―初公開・加島コレクション展図録』目黒区美術館、2005年2月、5頁。

木村駿吉の『川村清雄 作品と其の人物』では、実際に本文で加島虎吉について述べられた箇所がないのだが、川村の主要な作品の区分けに「至誠堂時代」というくくりを見ることができる。

降旗千賀子「加島虎吉と『至誠堂』」『「川村清雄」を知っていますか?―初公開・加島コレクション展図録』目黒区美術館、2005年2月、7頁。


これは私の推測なのですが、川村清雄の交友関係について木村駿吉の関心は主に旧幕臣との関係にあり、それゆえそれ以外の人々については——和田垣謙三を含めて——ほとんど記述がないのではないか、と思われます。

それはさておき、「もうひとつの川村清雄展」図録では加島虎吉と和田垣謙三とが同郷であったことが指摘されています。


加島虎吉と清雄がいかに知り合ったかについては、加島と同じ兵庫県出身という同郷の関係にあり、至誠堂に大きく関わった和田垣謙三が、関与しているとみられている。『兎糞録』『吐雲録』に掲載された「川村画伯と烏川」「川村画伯令息に贈りたる祝文」などからもわかるように川村清雄と和田垣の交友関係は知られており、美術や文芸に高い関心を持っていた和田垣が、当時猛烈な勢いで出版業を采配し波に乗っていた至誠堂の経営者、加島虎吉を引き合わせたのであろうことは想像に難くない。

降旗千賀子「『加島コレクション』から見えてくるもの」『もうひとつの川村清雄展図録』目黒区美術館、2012年、112頁。


* * *

『川村清雄伝』(林えり子、慶應義塾大学出版会、2000年)には、次のようにあります。


昭和四年の三越で催された画会への出品作は、抱一、または円山応挙、尾形光琳を彷彿とさせた。清雄の独擅場である「油彩による日本画」が晩年にきて、ますます日本的となったことを示している。……
加島虎吉もまた、清雄の作品を相当数持っていた。清雄は彼の出版社である至誠堂の出す本や雑誌の装幀、さし絵を多く手がけており、そんな関係から手もと不如意になると加島に一幅描いて持ってゆき、加島は何も言わずに画料を渡す、という按配だった。
そういうことで加島の許に清雄作品が集まったのだが、至誠堂の経営は昭和になると低迷し、換金にせまられていた。出品された百点の制作年代は、大正十年頃から昭和四年にかけてということになり、期せずして七十代になった清雄の到達した絵画観が披瀝されていた。

林えり子『川村清雄伝』224頁。


例によってここには典拠が記されていませんので、「加島は何も言わずに画料を渡す、という按配」であったのかどうかはハッキリとは分かりません。ただし、加島が相当な数の清雄の作品を持っていたことは間違いないでしょう。

ここでの記述では三越の展覧会で加島虎吉の所蔵品が販売されたように読めますが、どうでしょう。後述する通り、三越の展覧会(9月3日〜7日)の直後に、東京美術倶楽部で売立会(9月27日〜29日)が開催されています。たしかに、展覧会と売立会は連動していたようにも思われます。

なお、書籍取次店としての至誠堂が100万円の負債を抱えて破綻したのは大正14年のことです。その原因は、関東大震災後に加島が相場に手を出したため、といわれています。

川村清雄画伯全作品展覧会(昭和2年5月)

林えり子『川村清雄伝』224頁では昭和4年に三越で開催された展覧会が言及されていますが、加島が所蔵品の売り立てを行ったのは、冒頭で紹介した昭和2年の展覧会が最初です。これはなかなか評判を呼んだ展覧会だったようです。


『読売新聞』1927年(昭和2年)5月26日、朝刊4頁。



昭和二年五月、上野の日本美術協会において「川村清雄画伯全作品展覧会」が開かれた。展覧会の目的の一つは、至誠堂の事業再建のために加島虎吉が自身のコレクションを売却することでもあった。わずか一週間の会期だったが、反響を呼び、最終日の五月三十一日には東伏見宮妃が観覧に訪れた。

『維新の洋画家 川村清雄展図録』江戸東京博物館、2012年、158頁。


再度、冒頭の読売新聞の記事を引用しましょう。



至誠堂加島氏など肝入で
洋畵界の元老川村畵伯の個展を開く


明廿九日午後二時、久邇宮殿下にも御臺臨ある上野公園美術協會の川村淸雄畵伯作品推奨會は男爵平山成信氏を會長とし
正木直彦、和田英作、岡田三郎助、藤島武二の諸名家が發起人となつてゐるが實際の肝入役は川村老畵伯(七六)の門弟東條鉦太郎畵伯と、老畵伯の恩人故勝海舟翁の令孫疋田彰爾氏と、それからもう一人は老舗至誠堂の主人加島虎吉氏の三人である
加島氏が昨今この展覧會に店も忘れて肩を入れてゐるといふ因緣は氏が明治四十三年故和田垣謙三博士の著『靑年修養』*を出版した際之が装幀一切を引き受けたのが川村畵伯で爾來十有八年氏との交情は濃くなる一方であつた、加島氏の出版と云えばいつでも畵伯が装幀の相談に預かつて來た、だから畵伯は明治以來の装幀美術にも歴史的な人物だと云へる
今回の老畵伯作品推奨會では西郷公爵家出品の靜物(横八尺竪九尺)が五十年前の作といふ明治洋畵史上の貴い参考品を始め勝伯爵家出品『龍』(横八尺竪七尺)小笠原伯爵出品『瀧』(高さ一丈)植村澄三郎氏出品『鳩』(横一丈三尺竪九尺)の大作を始め合計百九十餘点を陳列してゐるが何れも明治初年歐米に留學した斯界の大先輩たる氣魄雄渾の逸品ばかりである(會期卅一日まで)

*『青年諸君』(1909年/明治42年)の誤り。
『読売新聞』1927年(昭和2年)5月28日、朝刊4頁。


展覧会最終日には、東伏見宮妃殿下が観覧されています。



東伏見宮妃殿下川村画伯作品展台臨
目下上野日本美術協会に於て開催中の川村清雄画伯作品展覧会は多大の人気を呼びつつあるが今卅一日は午前十一時東伏見宮妃殿下台臨遊ばさるゝ筈

『読売新聞』1927年(昭和2年)5月31日、朝刊7頁。


朝日新聞には5月29日に展覧会の案内記事、そして終了後の6月9日には《画室》を中心とした展評が出ています。




沈默廿年の
洋畫壇の元老

東洋的な味のある
五十年前の洋畫『畫室』

……
氏は今年七十六歳である、明治四十年の東京博覧會に故黒田淸輝子と審査のことから衝突し、憤然會場を退いて以來、同年秋世間をうならせた第一回の文展にも出品せずその後雨後のたけのこをさながらに新興して來たあらゆる美術團體にも更に姿を見せず、全然世の中からひつこんでしまつた、そんなことからだらう、故黒田子をとりまく新興洋畫壇の勢力が内外ともに泰西へ泰西へと花やかにのびてゆくにひきかへて、川村氏は洋畫の手法、材料をもつてあくまで傳統的東洋精神を描かうとしこれが又個人的な立場に離れてゆきともすれば存在だに忘れられようとしたほどだつたかうして約二十年の月日が経つた

×  ×  ×

それがついこのほどの美術協會の個人展ですつかり名をとりもどした、今度の名作展には代表的な三点が出品され、どれも好評だが、明治十年の海外作つまり今から五十年前の作品『畫室』が仲でも大変な評判である、同作は明治三十一年の明治美術會展覧會に出品されたもので静物の極幼稚な時代にギタやスリツパやぼろ布、花かご、さらに見もなれぬ品物が雜然とひろげられたのを、いかにもおほざつぱに描き入れた、それが當時の世間と洋畫壇をドウツと騒がせた様子は想像に難くない
……

『朝日新聞』1927年(昭和2年)6月9日、朝刊2頁。


昭和4年、三越での展覧会と東京美術倶楽部での売立会

加島虎吉のコレクションの売り立ては、昭和4年、三越での展覧会の直後にも行われています。


[昭和4年喜寿の祝いの展覧会の]すぐ後にあった美術倶楽部の売立目録を今改めて見ると、相当の点数である。この時の展覧会は、川村の作品を見てもらうという目的の他に、清雄の絵の後援者であったある本屋さんが、事情があって所蔵の絵を換金したいということで、開かれたものである。

川村清衛「父川村清雄の作品について」『川村清雄研究』116頁。


江戸博展図録(2012年)の年表に依りますと、三越の展覧会は昭和4年/1929年9月3日から7日まで、東京美術倶楽部での売立会は、同年9月27日から29日まで開催されました。

三越での展覧会に関しては、以下の通り。




喜壽の悦びに
憶ひ出の個展

洋畵界の長老川村淸雄畵伯
二日から三越で開く

不覇の老天才、我が洋畵壇随一の長老として知られてゐる川村淸雄畵伯(七八)が今度珍しくも個人展覧会を開くことになつた
畵伯は今春、畢生の大作『建國』をルクサンブウル美術館に寄贈して以來暫く繪筆を絶つてゐたが其喜壽の悦びを記念するため渡邊、小笠原兩子爵横山大観、川合玉堂、岡田三郎助、和田英作、幸田露伴博士、木村駿吉氏が發起となつて此企てが成立したもので
二日から七日まで三越で展観する
出品は洋畵とは云ふものの紙本に油繪具で試みるなど
日本 の豊かな幅物、横額、色紙弐百點、昨夜深更アトリエを訪ね回顧談を聞く
『私の洋行は明治三年で米國、仏蘭西に各一年半、伊太利に七年程ゐました、米國では森有禮公使の時で公使からすすめられて法律研究に赴いたのを畵の方へ方向轉換した、歸朝□舊幕時代の一ツ橋にあつた畵學校へ初めて洋畵をしたが此時分に故黒田淸輝さんが初めて洋行された、先頃物故した東條[=鉦太郎]さんなどが洋畵を習ひ始めたので現在の洋畵家で當時からの作家と云はれる方は一人もない』

『読売新聞』1929年(昭和4年)9月2日、夕刊2頁。



『読売新聞』1929年(昭和4年)9月2日、夕刊2頁。

その他

『和田垣博士傑作集』には、川村清雄、和田垣謙三、加島虎吉らのつきあいについて、少しばかり記述があります。


道別[=松本道別]獄[ごく]を出でし頃、博士[=和田垣謙三]は至誠堂より『兎糞錄』を出せり。川村畫伯はその表裝に挿繪に名筆を揮へり。余[=大町桂月]も多く著書若しくは編纂物を至誠堂より出しけるが、道別と田中貢太郎[たなかこうたらう]との二子は、余の編輯を補助せしを以て、博士、川村畫伯、道別子、貢太郎子、余の五人は相會するの機會多かりき。この五人に至誠堂主人[=加島虎吉]加わりて、高尾山に上りしことあり。……江ノ島思ひの外、近く見ゆ。江ノ島の手前の片瀬には、當時博士の夫人病氣にて転地療養し居りたり。余は心ひそかに博士の様子を見て、心ひそかに感服しぬ。げに、博士は物のあはれを知れる武士也。日將に暮れむとす。川村畫伯と至誠堂主人とは先ず下りぬ。酒ある中はとて、四人なほ止まる。……

高尾山の六人組は、南郊[なんかう]に梅を探りたることありき。二組にわかれ、一組は車にて直に池上本門寺の側らの梅多き酒樓に赴き、他の一組は蒲田驛に下り、附近の勝[しょう]を探りて酒樓に會することとなせり。道別、貢太郎二子と余とは後者也。この一行は一升樽を持ち行きて、ゆくゆく飮みぬ。本門寺の境内に入つて、日蓮納骨の堂を拜し、狩野探幽の墓を拜し、星亨の墓に至つて酒盡く。博士と相會して、その由を語れば、博士直ちに洒落て曰く、『飮みほして、とほつたか。』
例の六人組は、北郊に櫻を見物したることもありき。掛茶屋に上がりけるが、註文したる蠑螺[さざえ]の價[あたひ]餘りに高し。一同覺えず、『これは高い』と云へば、博士咄嗟に洒落て曰く、『さ〻いぢや無[ね]え』。
川村畫伯老いて益[ますます]健也[けんなり]。至誠堂主人もあり、道別子もあり、貢太郎子もあり。ひとり中心人物の博士、今や亡し。人間何ぞ寂寞なるや。

大町芳衞「和田垣博士傳」、大町桂月編『和田垣博士傑作集』至誠堂、1921年(大正10年)、566〜568頁。


和田垣博士が至誠堂から『兎糞録』を出したのは大正2年(1913年)ですから、大町桂月の記述はその頃のことになりましょう。桂月、和田垣、清雄等が麹町の富士見樓の大騒ぎにつきましては既に記しましたが(☞ 川村清雄ノオト 03)、これは大正3年(1914年)7月のことでした。

目黒区美術館での展覧会「もうひとつの川村清雄」展図録には、川村清雄が装幀に関わった至誠堂の書籍のリストが掲載されています(108~9頁)。これをみると、桂月、和田垣、清雄、加島等の交際がその後も、そして1919年(大正8年)の和田垣の没後も続いていたであろうことが想像されます。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

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