2013年3月30日土曜日

川村清雄ノオト 09

川村清雄と和田垣謙三

法学博士和田垣謙三は、万延元年(1860年)但馬国豊岡藩(現在の兵庫県豊岡市)の生まれ。川村清雄は嘉永5年(1852年)生まれですので、清雄より8歳年下になります。


和田垣謙三『意外録』南北社出版部、大正7年(1918年)、扉。


これまでのエントリでもたびたび触れましたように、川村清雄と和田垣謙三とは非常に親しい仲であったようです。木村駿吉『稿本』にも、清雄の恩人の名前として和田垣博士の名前が挙がっています。


徳川公爵を始めとして得能良介氏、勝海舟伯夫妻、和田垣謙三博士、小笠原長生子、高山長幸氏、松本常盤氏、小川正彌氏と天野亀太郎氏、これ等は私の大恩人です、この外にも恩人は沢山あります、どうぞそのことを忘れずに書いて下さいと、画伯の呉々の頼みであつた。

木村駿吉『稿本』108丁。


和田垣博士は清雄の作品を自ら購入したり、あるいは他の人に斡旋したりもしたようです。しかし、勝海舟や小笠原長生のように清雄のために画室を提供した訳ではありません。二人の関係はパトロンと画家というよりも、極めて親しい友人であったと考えられましょう。両者の交際に関する記述を見ていると、庇護する者される者の関係ではなく、其処には対等な人間関係の存在を窺うことができます。

二人の親交は、1919年(大正8年)に和田垣謙三が亡くなるまで続いたようですが、その出会いはどのようなものであったのでしょうか。これについては、文献によって記述に違いが見られます。ここではそれぞれの記述を検討してみましょう。

* * *

1921年に刊行された『和田垣博士傑作集』に、川村清雄は「畫酒の交際」というタイトルで故人を偲ぶ文章を寄せました。そこには両者の出会いが記されています。


私が和田垣博士と御知り合ひの間となりましたのは、確か今から二十七年前の明治二十七年であつたと思ひます。それは長田秋濤[をさだしうたう]君の宅で御目に懸かつたのが始めでありました。尤も其以前に和田垣博士は、或る古道具屋で、私の描いた詰らぬ畫[ゑ]を見られまして、大層面白い畫だが川村と署名がしてある、どんな人であらう、是非一度遇つて見たいものだと云ふ心が起つたさうでした。其後右に申します通り、故[もと]の長田秋濤君の宅で、偶然落ち合ひますと、和田垣博士は、「君が川村君であるのか。君には今日始めて御目に懸かつたが、君の畫は疾くに古道具屋で拜見しました。折りがあれば是非御目に掛かりたいと思つて居つた所ですが、善い所で今日面會致した。自分は畫が好きだから、是から是非御懇意に願つて、君の得意のものを描いて呉れ給へ」といふやうな話が出ました。是れが博士と私が御懇意になつた動機でありました。

川村淸雄「畫酒の交際」、大町桂月編『和田垣博士傑作集』至誠堂、1921年(大正10年)、663~665頁。


要約すると、

  • 川村清雄が和田垣謙三と知り合ったのは、明治27年(1894年)。
  • それ以前から和田垣は古道具屋で清雄の絵を見てその名を知っていた。
  • 両者が出会ったのは、仏文学者の長田秋濤(1871/明治4年~1915/大正4年)宅。


明治二十七年(1894年)というと、川村清雄が勝海舟邸を出た頃にあたります。清雄43歳のときです。

本人が書いているのだからそれでよい、という訳にもいきません。なにしろ、清雄の時間の観念はかなり曖昧なものであったからです。木村駿吉の言葉を引用しましょう。


川村画伯は画に関係した事柄では非凡の記臆力を持ち、用意周到で頗る精密であるが、時日や時間のことになるといつも實に漠然としてゐる。自分が米國に渡航した時日も、伊太利から歸朝した時日も、正確に覺えてゐないようである。巴里で學んだ時も伊太利に滞在した年月も判然しない。永い年月となると十年の二字で片付てしまう。十年間関係を續けたとか、十年目に約束が成立つたとか、十年間品物を預かつてゐるとか、十年になるが完成しないとか言われる。年月の單位が十年なのだ。であるからこの稿に記入した時日と年月とは画伯から聞いた儘では安心が出來ぬ。小笠原子爵や副島八十六君や天野亀太郎君に質して訂正したが、それでもまた判然としないのがある。

木村駿吉『稿本』62丁。


「27年前」とか、「明治27年」とか、妙にはっきりとした年号が出ていることも気になります。傍証がなければ、書かれたことをそのまま受けとる訳にはいかないのです。

* * *

木村駿吉『稿本』は、川村清雄と和田垣謙三の出会いを次のように記しています。


明治の中頃画伯が勝海舟伯の為に見出さるゝ前、和田垣謙三博士は逸早くその天才を認めて、その作品を同僚始め生活の餘裕のありそうな人に世話をした。その頃二十圓三十圓の金は中々の大金で、油繪にそれだけの金銭を投ずる人は少なかつた、洋行帰りの學者位であつたろう。これ等の人々は面と向て博士を罵り、君は道具屋の様な男だとまで言つて軽蔑したが、博士は我慢をして画伯の窮乏に同情した。画作[※画伯の誤りと思われる]の作品を買つた人々はまた、その價値を認めながらも足許を見てねぎり倒し、博士も餘りのことに一度は断念するが、大晦日に逼つて來ると気の毒な程な少金で渡してしまつた。世相は今日と異なつてゐなかつた。画の収入は幾分か両人の飲代になつたろうが、和田垣博士は画伯の為に心から親切であつた、画伯も大にそれを徳としてゐる。想えば画伯と和田垣博士とは蟻とあぶら蟲の様な関係の點もあつた。

木村駿吉『稿本』72~73丁。


「蟻とあぶら蟲の様な関係」とは、なんとも……。

さて、木村駿吉は、両者の出会いを「明治の中頃画伯が勝海舟伯の為に見出さるゝ前」としています。

川村清雄がヴェニスから帰国し、大蔵省印刷局に勤めたのは明治15年。明治16年には勝海舟邸に画室を設けています。和田垣と清雄が知り合ったのが「勝海舟伯の為に見出さるゝ前」とすると、明治15年ごろか、それ以前ということになります。

ところで、「洋行帰りの學者」たる和田垣がイギリス、ベルリンへの留学から帰国したのは、明治17年。東大の経済学教官となったのも同年です。このとき、和田垣は24歳。

ということで、木村駿吉の記述は、時系列に疑問が残ります。

* * *

林えり子『川村清雄伝』は、清雄と和田垣が親交を結んだきっかけを、外山正一(1848年/嘉永元年~1900年/明治33年)を介してのことと記しています。


和田垣謙三も清雄の人柄を愛した一人であった。但馬(現兵庫県)の出身で東京帝大に学び、イギリスへ渡ってケンブリッジ大学で理財学を修め、ベルリン大学を経て帰国し、法学博士となって母校の教壇に立った。法制の教科書や英和、和英辞書のほか、吐雲と号して随筆をものした。俳句、狂句、乗馬、弓術、謡曲と趣味の広さは人後に落ちず、その腕前は一級だった。
和田垣が清雄と親交を結ぶのは東大で同窓の外山正一を介してのことだと思う。……

林えり子『川村清雄伝』


残念ながらここには二人が知り合った時期が記されていませんし、典拠となる出来事も記されていません。
また、いくつか疑問点がありますので、記しておきます。

  • 外山正一と和田垣謙三は「東大で同窓」ではありません。外山は「明治10(1877)年東京大学創設第1陣の邦人教授」(☞ KOTOBANK)です。他方で、和田垣が東京大学に入学したのは明治10年9月です(『和田垣博士傑作集』805頁)。ただし、外山は東京大学教授になる以前に東京開成学校の教授でもありましたので、明治6年に開成学校に入学した和田垣とはすでに面識があったことは十分に考えられます。いずれにせよ「同窓」ではなく、「師弟」というほうがふさわしいのではないでしょうか。
  • 和田垣が法学博士の博士号を得たのは明治24年(『和田垣博士傑作集』805頁)。「法学博士となって母校の教壇に立った」という記述は、時系列が逆です。なお「理財学」はすなわち経済学のことです。当時は経済学の博士号は存在せず、経済学は広く「法学」に含まれていました。
  • 「東京帝国大学」という名称が用いられたのは明治30年以降のことであり、和田垣が学び、教職についた当時の名称は「東京大学」です。
  • 「法制の教科書」とあるのは、『法制経済新教科書』(文学社、1911年)を指していると思います。近代デジタルライブラリーで閲覧可能ですが、内容は師範学校生徒向けの、法学と経済学の教科書です。
  • 「謡曲」に関しては、一流とは言いがたかったようです。『和田垣博士傑作集』には、田中唯一郎が「珍無類なる和田垣博士の謠曲踊り」という一文を寄せています。

さて、川村清雄がアメリカ、フランス、ヴェニスに留学していた期間は、1871年(明治4年)から1881年(明治14年)まで。和田垣謙三がロンドン、ベルリンに留学していた期間は、1881年(明治14年)から1884年(明治17年)まで。となりますと、どちらかが海外にいた明治4年から明治17年までの間にふたりが知り合う機会があったとは考えづらい。
また、外山と清雄が出会ったのは清雄の米国留学中であったことを考えれば、清雄が留学する明治4年以前に両者が外山を介して知り合うこともありません。だいたい、明治4年に和田垣謙三は11歳です。このようなことを考え合わせますと、両者の出会いは明治17年以降のことになりましょう。

しかしながら、帰朝して東京大学に奉職したばかりの和田垣謙三が、果たして絵を購入し、また周囲の同僚に斡旋するということがあったのか、可能であったのかどうかは、良く分かりません。
ちなみに、明治17年、和田垣謙三の年俸は1200円(月100円)。清雄の印刷局での俸給が月60円(のち90円)で、「破格の待遇」(『川村清雄伝』113頁)だったそうです。

* * *

『和田垣博士傑作集』にはその他の人も和田垣博士と清雄との交際について記していますので、引用しておきましょう。


又川村淸雄氏といへば現代に於ける有名なる洋畫家で、博士とは三十年間も親密な交際を續けて居た。博士は此の川村氏の爲めに圖ること極めて忠實で、寝食を忘れて奔走し、作品の周旋には隨分努力した。

蘆川忠雄「和田垣博士の平生」、『和田垣博士傑作集』761頁。


「博士とは三十年間も親密な交際を續けて居た」という記述は、清雄自身の「今から二十七年前」とほぼ一致します。

さて、清雄と和田垣博士の出会いを巡る3つの記述のうち、どれが正しいのでしょうか。

私としては、正確な時期に関してはさておいて、長田秋濤宅で会ったという清雄自身の説明がもっともしっくりくるように思っておりますが、いかがでしょうか。

そしてそのように考えますと、川村清雄は和田垣謙三と知り合う以前に、長田秋濤と何らかの関係があったことになります。それでは、清雄はいつ、どのような経緯で長田秋濤と関わりを持ったのでしょうか。

wikipediaによると、長田秋濤は「静岡県静岡市西草深町に徳川家直参の子として生まれる」とあります。つまり、ふたりは静岡・徳川家繋がりで知り合った可能性が高いでしょう。しかし、それがいつ、どこでのことなのかは分かりません。

調べた範囲では、ふたりの名前を並んで目にすることができるのは、長田秋濤訳、川村清雄画『王冠』(春陽堂、明治32年/1899年)が最初です。


『読売新聞』1899年(明治32年)10月24日、朝刊6頁。

『王冠』において、清雄は表紙と口絵を描いています。


『もう一つの川村清雄展図録』目黒区美術館、2012年、88頁。

『王冠』の出版元は春陽堂。清雄は明治30年(1897年)から、春陽堂の雑誌『新小説』の挿画や口絵、表紙を描いています。

というわけで、川村清雄と長田秋濤の関係は、少なくとも明治32年までは遡ることができます。

* * *

他方で、和田垣謙三と長田秋濤は、いつ、どのように出会ったのでしょうか。

秋濤夫人長田仲子は次のように書いています。


亡夫[長田秋濤]が和田垣博士に御交際をお願ひしましたのは、たしか明治十七年頃からと記憶致して居ります。尤も博士とは私の父の時代からの交際でありまして、私を長田に媒酌して下すつてからは、一層博士との交際も頻繁になつたやうに記憶致して居ります。

長田仲子「和田垣博士と亡夫との交際」、『和田垣博士傑作集』612頁。


和田垣は秋濤の11歳年上。その関係を夫人は「一寸見ると友人間の交際のやうに思はれますが、實際のところは、師弟のやうな間柄で御座いました」(612〜613頁)と述べています。

明治17年といえば、和田垣謙三が留学から帰国した年です。秋濤はまだ15歳ですね。ずいぶんと古い時代からのつきあいだったことになります。

* * *

さてさて、ここまで見てきたように、川村清雄と和田垣謙三の出会いの時期については、明解な結論はありません。それでも、話を総合すると、川村清雄が和田垣謙三と知遇を得たのは、どんなに早くても明治17年以降。そのほかの状況からして、明治30年頃までには出会っていたと考えられましょう。また、「外山正一を介して」という記述に典拠がない以上、長田秋濤を介してであったという清雄の言葉を疑う根拠はありません。

画酒の交際

私の調べた範囲でですが、川村清雄と和田垣謙三の交際が史料に残るのは、明治40年からです。


○奇聞珍聞 ▲去る廿九日 河村淸雄畵伯が和田垣博士から電報を受取つた。開いてみると「ヒル、マツ」とある 例の先生の事だ御馳走でもあるのかと高をく〻って行て見ると「君もう遅いだろう、早く行かう」「何處へです」「文藝講演會へ河村淸雄が演説するからつて云つて置いた、直ぐ行つて演説してくれ、車だ車だ」と云ふ仕末、河村先生アツケに取られたが博士の事だから止むなく車を連ねて會場なる牛込の演藝館へ驅けつけてみると門前寂として人影もない、「妙だな」「妙ですね」と考へて見ると豈[あに]計らんや、博士が開會の日を一日間違て居たのであつた。(茂)

『読売新聞』1907年(明治40年)7月9日、朝刊6頁。


この明治40年夏には、神楽坂で「泰西名画展覧会」が開催され、そこに和田垣博士が清雄の油画を泰西名画と偽って出品したという「悪戯」については、すでに記しました(☞ 川村清雄ノオト 05)。これらのエピソードから、和田垣博士が明治40年までには清雄と親しくつきあい、その作品を高く評価していたことが分かります。

川村清雄の装幀による和田垣謙三の著書『青年諸君』が刊行されたのは、明治42年(1909年)。これは至誠堂が手がけた最初の本でもあります。


『朝日新聞』1909年(明治42年)7月16日、朝刊1頁。




靑年諸君(和田垣謙三著)  発行後僅か二年にして今や增訂第十一版成る。博士も亦一代の人氣者なる哉。本書は今更喋々の要もなけれど諧謔洒落を以て名を知られたる博士が 旣往廿年間に亘り大學講座以外に於て、或は口にし或は筆にしたるものの中、特に現代靑年に[不明]を披瀝せるもの、靑年諸君たる者宜しく一本を座右に備ふべき也。(洋装四六版四〇六頁價壹円日本橋區本石町至誠堂)

『読売新聞』1911年(明治44年)8月28日、朝刊1頁。


※この稿、随時加筆修正の予定あり。

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