2013年1月30日水曜日

川村清雄ノオト 05

和田垣博士の悪戯——泰西名画展覧会

明治42年、神楽坂にて開催された「泰西名画展覧会」に関する覚え書き。

* * *

川村清雄を古くから支援していた人物のひとりに、帝国大学法学博士の和田垣謙三(1860/万延1〜1919/大正8)がいます。

和田垣博士は大酒飲み、駄洒落好き、そしてなかなかの悪戯者であったようです。

明治末、神楽坂で開催された「泰西名画展覧会」なる展覧会で、博士は川村清雄の絵を仕込んで悪戯を行ったことが、木村駿吉『稿本』に書かれています。しかし、どうも木村の記述ではどのような催しであったのか判然としないのです。

そこで、ここではこの「和田垣博士の悪戯」と「泰西名画展覧会」の、ことの次第を追ってみることにします。

まずは、木村『稿本』から。


大正になつて或る年のこと、黒田画伯を始めとして一黨股肱[いっとうここう]の画家達が神楽坂の音羽亭とかを會場として、銘々が外遊の時に持帰つた師匠や大家の作品を持寄り、何れも鼻高々と自慢して展覧會を催うした。和田垣博士も洋行土産の一品として無落款の作を出品した。その画は驚くべき出来榮で、衆議一決場中第一品と推稱された。何んぞ圖らんそれは川村画伯が伊太利で描いた一作であつたのだ。和田垣博士に相當した痛快ないたづらであつた。この話は博士の意外録と云う著書にあるそうだが、その画は十四五歳の伊太利[イタリー]男児の肖像画であつた。

木村駿吉『稿本』139丁。


和田垣博士は、川村清雄が描いたイタリア人男児の肖像画を、そこに川村清雄のサインがないことを幸いにヨーロッパの名画の一つと偽って持ち込み、みごと一級品として称賛を浴びたというわけです。

* * *

木村駿吉は「この話は博士の意外録と云う著書にある」と書いています。それでは和田垣謙三博士の『意外録』にはどのように書かれているのか、あたってみましょう。


泰西名畵展覧會

今は十數年の昔である。予の知人某が、泰西名畵展覧會と云ふ小展覧會を催した。古名畵の模冩などを合せて數十點集つた。予は旨を會主に含めて、川村清雄氏の描いたる”Neapolitan boy”の一面を出品した。其の畵は如何にも善く出來て居つて、西洋の古畵の如く見え、且又幸に落款がなかつたが、中々の評判であつた。当時の國民新聞の批評には、この畵と黑田淸輝氏出品の老婆の畵像とが場中の双璧で、しかも川村氏のが東の大關であつた。泰西名畵展覧會に、非泰西の美術家の作が場中の白眉と激賞されたのは、惡戱者[いたづらもの]の予にとつては、面白くもあり又意外であつた。

和田垣謙三『意外錄』至誠堂、1918(大正7)年、21-22頁。


『意外録』の記述だけ読むと、単に面白い悪戯を仕掛けたという話のように読むこともできます。

しかし、木村駿吉によれば、このエピソードの背景には、明治半ばより洋画界で勢力を強めた黒田清輝とその一派に対して、その表現がなかなか理解されなかった川村清雄との関係があり、それゆえこの悪戯は川村清雄の理解者であり支援者であった和田垣謙三による黒田一派への意趣返しでもあったというのです。

じっさい、当時の新聞記事にも川村清雄と黒田清輝との確執について記されており、木村駿吉のような解釈がなされて当然の出来事だったようです。昭和2年の『朝日新聞』の記事を引いておきます。


川村淸雄個展

わが現存洋畵家中の最先輩で最高齢たる七十六翁川村淸雄氏の個人展が上野の美術協會内に開かれてゐる。翁は明治三年徳川家から派せられ、法律研究の名目で米、佛、伊三國に渡り實は洋畵の研究で十五年間も外國にゐた。明治四十年東京博覧會當時審査のことから故黑田淸輝氏と意見の衝突を來したのがもとで、以後一切の展覧會から姿をかくし、全く孤獨の境地を樂しんで來た人である。……

『朝日新聞』1927年(昭和2年)5月29日、朝刊6頁。


参考までに、川村清雄による伊太利人少年の画。


金子薫園『伶人』1906年(明治39年)、口絵。

* * *

さて、木村駿吉『稿本』と、和田垣謙三『意外録』の記述にはいくつか異なる点があります。これを確認しておきます。

まず、その時期。木村は「大正になつて或る年」、和田垣は「今は十數年の昔」と書いています。『意外録』の出版は大正7年ですから、そこから十数年の昔といえば明治40年前後になります。

つぎに場所です。木村は「神楽坂の音羽亭とか」と書いていますが、和田垣は何も書いていません。

和田垣が出品した作品は、木村は「伊太利男児の肖像画」、和田垣は「Neapolitan boy」としています。ナポリもイタリアですから、相異というわけではありませんが。

評価については、木村が「衆議一決場中第一品と推稱」、和田垣は「川村氏のが東の大關」としています。

木村駿吉は、和田垣博士の悪戯のエピソードを、おそらく川村清雄から直接聞いたと考えられます。和田垣謙三は木村『稿本』が書かれる以前、大正8年に亡くなっているので、和田垣から聞いたとは考えにくい。また『意外録』に書かれていない会場が『稿本』に示されていることからも、そのように考えられます。

他方で木村が「この話は博士の意外録と云う著書にあるそうだ」と伝聞調で記している様に、木村自身は『意外録』の記述にあたっていない可能性があります(木村の参考文献にもリストされていません)。そのように考えれば、展覧会の時期が一致していないことも説明できましょう。

ちなみに、林えり子『福澤諭吉を描いた絵師—川村清雄伝』は、黒田一派との対立も含め、木村駿吉の説明に依ってこのエピソードを紹介しています(198〜9頁)。

* * *

さて、調べて見ると、大正3年の『読売新聞」にもこの「和田垣博士の悪戯」が記載されていました。


和田垣博士の惡戱

事の起りは少し古いが話は極く新らしい、上野で泰西名畵展覧會があつた時、其の出品の高下を投票で決した所 東の大關となつたのが和田垣謙三氏の所持、西の大關になつたのが黑田淸輝氏秘藏のものであつた。さて新らしい話と云ふのは某氏この程和田垣博士を訪ねると床の間に西洋の少女を描いた良い畵がある。博士はそれを指示して「之れは泰西名畵展覧會で東の大關になつた油繪だから日本にある西洋人の描いた繪の中では一番好い事になつてゐるのだが實は川村淸雄が描いたのである。」と呵々大笑して「人に云ふなよ、欺かれた當代の畵家先生が火のやうに怒るからね、何あに一寸した悪戱をやつたのだが世間の奴はさう思はない。和田垣は太い奴だ、擲[なぐ]れなんて事になると困るから」と哄笑した。之れは數日前[すうじつぜん]の事である。

『読売新聞』1914年(大正3年)12月10日、朝刊4頁。


この記事では、時期は「事の起りは少し古いが」と曖昧。場所は「上野」。和田垣博士の出品作は「西洋の少女を描いた良い畵」とあります。先に示したふたつの記述と、また一致しませんねえ。もっとも絵についてはこの話を聞いた者が西洋人の少年と少女の区別が付かなかった、という可能性もなくはありません。

しかし、「人に云ふなよ」という話を、新聞に載せてしまって大丈夫だったのでしょうか……。

* * *

和田垣博士の悪戯について、本人の筆も含めて引用したわけですが、3つともそれぞれ話の内容が微妙に異なっていて、まさに「藪の中」。

和田垣博士は、「当時の國民新聞の批評には……」と書いていますので、『国民新聞』をあたってみればさらに詳しい話がわかると思うのですが、同時期の『国民新聞』はマイクロフィルムで、展覧会の時期が特定できないと調べることもままならず……。

と思ったら『朝日新聞』、『読売新聞』にそれぞれ「泰西名画展覧会」の案内を発見。


● 泰西名畵展覧會 本月一日より牛込神楽坂中程に開催せり同會は泰西名画及其模寫を集めて陳列せり

『朝日新聞』1909年(明治42年)7月4日、朝刊5頁。



◎ 泰西名畵陳列會 牛込區神楽坂中程に於て先月一日より開催中なりし同會は其後観覧者も多き爲九月まで延期し尚新たに名畵をも陳列したる由

『読売新聞』1909年(明治42年)8月1日、朝刊5頁。


場所は神楽坂。木村は「神楽坂の音羽亭とか」と書いていますので一致します。ただし時期は「大正になつて或る年」(木村)ではなく、明治42年7月1日から9月までです。

この展覧会が件の「泰西名画展覧会」なのかどうか。

確証はありませんが、とりあえず『国民新聞』をあたってみる時期的な手掛かりはできたわけです。

泰西名画展覧会——『国民新聞』による展評

『国民新聞』明治42年7月から9月まで3ヶ月分の紙面をあたった結果、「泰西名画展覧会」に関する告知2件と批評1件(3回に分けて掲載)を見つけました。まさしく、和田垣博士が『意外録』に記した「國民新聞の批評」がこれです。

明治42年7月6日と9日、「美術界」と題する短信欄に展覧会の案内。




▲泰西名畵展覧會は愈[いよい]よ神樂坂で開催する筈だが主唱者は額縁屋の磯谷だ

『国民新聞』1909年(明治42年)7月6日、7頁。





▲泰西名畵展覧會 七月一日より三十一日まで毎日午前九時より午後十一時まで牛込神樂坂中程に開催せる同會はターナー、レンブラント、ベラスケス其他最近泰西名畵の模範たるべきもの数百點を集めたれば苟[いやし]くも美術を口にするものは是非一覧の價値ありと

『国民新聞』1909年(明治42年)7月9日、7頁。


7月1日から31日までの、1ヶ月間の予定だったようです。
それにしても、毎日午前9時から午後11時までとはすごいですね。

そして、7月17日から3回に渡って、「山歸來」なる人物の署名で「泰西名畵展覧會所見」が掲載されていました。

まずは、展覧会の主旨を引用しましょう。


泰西名畵展覧會所見
山歸來

額縁製造を業とする磯谷といふ人がある。此人の父なる人が頗る變つた義侠的な男で、繪畵修業の書生抔[など]の世話もしてゐる。商賣上佛、米へも行つたこともあり、畵家社會にも交際が廣い。こんな所から思ひ付いたのが此會である。
今日少からぬ人が海外へ行つて繪畵を研究する。其傍[そのかたはら]には其國々の名畵の模寫をやる。又畵を賣る店に行くと買ひたくなるものも澤山あるので身分相應の小さな畵[ゑ]を買ふ事もある。で、此等のものを借り集めて展覧會を開いたら面白からうといふので、實行することになつた。が何分獨力でやることなり、會場も適当な所がない。やつと神樂坂のデパートメント・ストアのなれの果てを借り受て夜晝開くことになつたのだといふ
◎場所は間に合わせ、畵は模寫、また眞物[ほんもの]ありと雖も、たかだか二百、三百位の金目のものに過ぎない。それも泰西諸家の作品を悉く網羅したといふのでもなく、不完全勝ちで、素人目には詰らぬやうではあるが、今日畵[ゑ]を学ぶ青年が僅に寫眞版によつて名畵の面影を見てゐるに過ぎないという場合を考へたなら如何[どう]であらう。頗る有益な催しであるといふに憚らぬ。
◎さて陳列の作品は、白馬會側の黑田、和田、三宅、白瀧、山下、太平洋畵會側の中村、満谷、吉田、河合、其他の諸家の模寫と其所藏の眞筆の小品で總てで百二十點を數へる。以下順次主なものに就いて槪評を試みよう。(未完)

『国民新聞』1909年(明治42年)7月17日、1頁。


連載第一回はこれで終わり。

続いて7月20日に第二回が掲載されますが、出品作評が延々と続きますので(美術史家の方には興味あると思われますが)割愛。ただ、和田垣博士が『意外録』に「黑田淸輝氏出品の老婆の畵像」と記している画についてのみ、引用。(なお、残念ながらどの作品についても画像は掲載されていません。)


泰西名畵展覧會所見(二)
山歸來

……黑田氏出品、筆者不明の老婆の肖像は實に旨いものだ。日本畵家の藥になる。何年かゝつても文部省展覧會では見つかるまいと思ふと情ない。……

『国民新聞』1909年(明治42年)7月20日、2頁。


そして7月21日第三回に、和田垣博士出品の絵が触れられています。


泰西名畵展覧會所見(三)
山歸來

……
◎此外の肉筆では、黑田氏藏、加奈陀[かなだ]の人ブレーアブルスの綠陰讀書の圖は、鮮明な色で、顔には濃淡がなくて而もよく出來てゐる。気の利いたやり方である。和田垣博士藏、伊太利人[いたりーじん](筆者不明)の描いた子供のモデルは耐[たま]らん程筆の使ひ方が面白い。黑田氏所藏の老婆の像と相匹敵する。……
◎以上、心して研究すれば極めて面白く有益な展覧會で、少なくとも一度や二度は見なくてはならぬものである。陳列法の拙劣、家屋の汚穢などを論じてゐる餘裕は更にない。

『国民新聞』1909年(明治42年)7月21日、1頁。


どうですか。

かたや、「日本畵家の藥になる。何年かゝつても文部省展覧會では見つかるまいと思ふ」と評された、黒田清輝所蔵の「老婆」。

かたや、「耐らん程筆の使ひ方が面白い。黑田氏所藏の老婆の像と相匹敵する」と評された和田垣博士所蔵の「イタリア人の子供」。これがじつは日本人川村清雄の筆になる作品とは。

泰西名画展覧会——『美術新報』による展評

2001年に郡山市美術館で「今よみがえる泰西名画展覧会」という展覧会が開催されました。このときの図録に掲載されていた菅野洋人氏の論文「模写についての考察」(113〜121頁)が明治42年の「泰西名画展覧会」についても触れています。菅野氏によれば、『美術新報』に展評が掲載されているとのことでしたのでさっそくあたってみると、『国民新聞』より詳しい状況が記されていました。


●泰西名畵陳列會 七月一日より三十一日まで毎日午前九時より午後十一時まで牛込神樂坂中程五十嵐方に開催せる同會は芝新櫻田町なる磯谷商店主長尾健吉氏の計畵に係り出陳の絵畵は洋畵家の秘蔵にか〻る歐州名家の肉筆及び模寫等なりと。

『美術新報』第8巻第9号、明治42年7月20日、7頁。


場所は神楽坂の五十嵐方。主催者は額縁商磯谷商店店主長尾健吉氏。

以下、『美術新報』第8巻第10号(明治42年8月5日)に掲載された展評から抜き書き。


牛込神樂坂の中程、盆栽屋の二階と三階とで、泰西名畵展覧會といふのが七月一ぱい催れた。その標題の餘りに豪氣なのと、主催者が額緣屋の主人だといふので、高を括つて往つたところが、室内の薄暗いのと、陳列法の粗雑なのとを除いては案外に趣味あるものであつた。
内容の大多数は我が留學畵家が模寫した泰西名畵で、それに少数の彼地畵人の眞蹟と、餘興的に着色版の複製が所せまきまで掛けてある。この複製などは除いた方が好いだらう。
[以下、模写についてのコメント]
……
若しそれ肉筆物に至つては、是まで餘り見ない珍なものがあつた。殊に黑田氏の出品に好いのがある。老婆の顔を畵いた作の如きは、和蘭人の筆であらうが、軽快なるブラシの運びに無限の趣致を湛へた傑作である。
……
泰西の名作を親しく觀ることの出來ない我邦では、その模寫に接するだけでも、一般學徒を利すること頗る多いので、この會などは餘程面白いものである。されば吾人はこの機會を利用して茲に一つの注文を持ち出す。即ち更に廣く眞蹟と模寫とを蒐集することと、陳列法を整頓することとである。今度のは唯だ手當り次第に得たものを雜然として陳列したまでで、畵題や筆者の記されて居ないものも多い。況して時代だの流派だのは少しも顧みられない。尤も專門家には是でも好い。ただ一般の學徒や鑒賞家には今少し親切な陳列が望ましい。少くもいつ頃のどういふ流派の畵家であつたか位は記されたい。……

『美術新報』第8巻第10号、明治42年8月5日、4頁。


ここでも黒田清輝出品の「老婆像」が秀作としてあげられています。残念ながら、和田垣博士出品作についてはまったく触れられていません。

菅野洋人氏はこの展覧会が「7月1日から31日まで」開催されたとしていますが、『美術新報』第8巻第11号には会期が延長された旨、告知が掲載されています。


●泰西名畵陳列會の延期 牛込區神樂坂中程に於て先月一日より開催中なりし同會は其後觀覧者も多き爲め九月まで延期し尚新たに名畵をも陳列したる由。

『美術新報』第8巻第11号、明治42年8月20日、7頁。


なかなか盛況だったようですね。

まとめ

明治42年の「泰西名画展覧会」について整理しておきます。

・会主:額縁製造業の磯谷商店店主長尾健吉。
・場所:神楽坂の「デパートメント・ストアのなれの果て」、もしくは盆栽屋の2階と3階。
(ここが「音羽亭」という名であったかどうかは不明)
・期間:明治42年7月1日から9月末日(7月いっぱいの予定が、盛会につき延長)
・出品点数:120点ほど
・出品作品:西洋画の模写および真筆
・和田垣博士出品作は、「ナポリの少年」(『意外録』より)
・『国民新聞』記者も、『美術新報』記者も、黒田清輝所蔵・出品の「老婆像」を推している。
・『国民新聞』記者は、和田垣謙三所蔵・出品作を、黒田の「老婆像」に匹敵するとしている。

* * *

さて、木村駿吉はこの展覧会で川村清雄の作品が「衆議一決場中第一品と推稱」されたとしていますが、そのような投票が行われたかどうかは分かりませんでした。『意外録』には川村の作品が「東の大関」であったと書かれていますので、ひょっとするとこのとき番付の様なものがつくられた可能性もあります。ただし、それを具体的に裏づける記述はいまのところ見出していません。

額縁屋磯谷商店の長尾建吉氏について

明治42年の「泰西名画展覧会」を主催した長尾建吉氏とは……


氏は明治十一年十九歳の弱冠でフランスで開かれた萬國博覧會に郷里の金属細工を携へて渡佛 滯まつて額緣製造の研究に專念 帰國後は斯界の創始者として美術界に貢獻した人

『朝日新聞』1938年(昭和13年)12月5日、朝刊11頁。


菅野洋人氏によれば、


長尾は、山本芳翠とともにパリへ行ったこともあり、後に芳翠の指導によって日本で最初の洋風額縁店を開いた人物である。黒田清輝とも親しく、東京美術学校や黒田が中心となっていた白馬会にもよく出入りしていた。自ら絵画の常設展示場も作り、そこに芳翠の〈天女〉などを展示した。

郡山市美術館『今よみがえる泰西名画展覧会図録』2001年、118〜9頁。


美術界への貢献も大きく、昭和13年12月3日に亡くなった後、12月21日には追悼会が開催され、多くの美術関係者が集まったそうです。


洋畫の恩人追悼會

洋畵壇の恩人磯谷額緣店主故長尾建吉翁追悼會が二十一日夕五時半から明治生命地階マーブルで催された、同翁が明治二十二年當時まだ搖籃期の畵壇のために犠牲的に店を開いてから去る三日死去するまでの斯界に尽くした功勞を偲び故人の遺言で行はれなかつた告別式にかへて催された集まりで
藤島武二、中村不折、和田英作、和田三造、石井柏亭、津田青楓、南薫造、北蓮藏、有島生馬氏等を始め約二百名出席、玉版箋全紙一ぱいに一同署名、靈前に捧げて想出を語つた

『朝日新聞』1938年(昭和13年)12月22日、朝刊11頁。


この磯谷商店、現在も新橋に現存しています。


聖徳記念絵画館の額縁を制作したのも磯谷商店だそうです。

* * *

磯谷商店・長尾建吉と画家たちとの関係を資料で綴った書籍『丘陽長尾建吉』(長尾一平編、1936年)に、明治36年白馬会の展覧会場の写真が掲載されていました。



黒田一門の展覧会でもこんな感じだったわけです。
泰西名画展覧会での展示はいったいどのような状況だったのでしょうか。なにしろ、わざわざ「陳列法の拙劣、家屋の汚穢」「室内の薄暗いのと、陳列法の粗雑」を記されるほどだったのですから。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

0 件のコメント:

コメントを投稿