2013年1月23日水曜日

川村清雄ノオト 04

美男子 川村清雄

川村清雄の容姿に関する覚え書き。

『国立国会図書館月報』に山中共古が蒐集した『見立番附』に関する一文が掲載されている。それによれば、蒐集品のひとつ「花競見立相撲」に川村清雄の名前が見られるといいます。

明治2年といえば、清雄が二十歳の頃。


「花競見立相撲」は、朱筆で記された共古の書き入れによれば、明治元年から2 年ころの「静岡移住士族の男女美人」の番付。すなわち、旧幕臣やその子女などの美男美女番付である。いかに明治の世になったからとはいえ、このようなランキングを作っていたことに驚きを禁じ得ないが、さすがに刊行されたものではないらしい。前頭の「草深 川村清雄」は画家の川村清雄(1852-1934)であろう。

大沼宜規「見立番附 山中共古のコレクション」『国立国会図書館月報』595号、2010年10月、2~3頁。


山中共古は「江戸時代には御家人であり、維新後は静岡に 移住しメソジスト派の牧師となった。その傍ら、在野にあっ て民俗学的・考古学的な研究を進めた人物で、『東京人類 学会雑誌』『集古会誌』等に論説が掲載されている。」(同、2頁。)

その「花競見立相撲」がこちら ↓。



拡大図がこちら ↓。



* * *

清雄の容姿について、林えり子『川村清雄伝』には次のように書かれています。


清雄は眉目秀麗な若者であった。十九世紀半ばの青年であるにもかかわらず二十世紀末現在の渋谷原宿あたりを闊歩するティーンエイジャーに似た容貌をしている。徳川家留学生の仲間と一緒に撮った写真でも、清雄一人が日本人離れして見える。しかし、十七歳のときの写真では、ごくあたりまえの日本人の若侍といった風貌なのである。この変化の様は、見る者をおどろかせる。すっかり「西洋」の顔になって、カメラに向かって頬笑み、ポーズをつくる清雄は、当時の日本人としては稀有な適応力の持ち主であったということだろう。
背丈は五尺(150センチ強)と小柄のほうだった。その上童顔なので五歳は若く見られた。……

林えり子『福澤諭吉を描いた絵師 川村清雄伝』慶應義塾大学出版会、2000年、86〜87頁。


当時の写真は、江戸博の川村清雄展図録にいくつか掲載されています。「徳川家留学生の仲間と一緒に撮った写真」とは、図録33頁のものでしょう。「清雄一人が日本人離れして見える」というのはやや大げさと思いますが、たしかに渡欧前後の写真を見比べてみると、ニューヨークや、その後の留学先ヴェネツィアで撮影された姿はとても垢抜けていることがわかります。


……彼は好男子であった。昭和十六年十月号の『三田文学』(美術特輯)に「福澤先生肖像」と題した一文を斎藤貞一が寄稿しており、その文中で斎藤は、清雄を「非常に好男子」と書いている。ベネチアで「マントを半分肩にかけて、街を歩いていると婦女子が跡をついてきた」とも書く。ほめことばとしての「色男」だったのである。ラブ・アフェアはいろいろあったと思われるが、婦女子だけにとどまらず彼は同性にも好意を抱かれた。

同、94頁。


* * *

木村駿吉『稿本』にも、清雄の容姿についていくつかの記述があります。


この頃或る人が四谷の源來軒と云う飯屋え畫伯を連込んだ所が、奥で大小の支那人が荐[しき]りと爭つてゐる。賭でもしてゐたものらしい。程なくその中の大きいのがその人のゐる所えやつて來て、お連れのご老人は男ですか女ですかと尋ねた。畫伯も時々女と間違られると言われるから、失禮な奴です目の前で小便をしておやりなさいと忠告する。
それほどに優しく見られる人でありながら、七十歳の時に自慢の黒紗の道服を着て撮られた冩眞を見ると、舞台から抜出て來た計りの河内山宗俊そつくりである。肖像畫に描いたら定めし人目を聳たせる容貌であろう。外國人に見せるとスプンヂット・フェースと叫ぶ。

木村駿吉『稿本』2丁。


「スプンヂット・フェース」の意味が分からないのですが……

木村の記述は大正14年か15年ごろのことと思われます。川村清雄が70代半ばの話でしょう。木村に依ればこのころの清雄は「今年七十六歳の老翁で、頭顱[とうろ]のつるつる光つた竒麗な上品で悠揚[ゆうよう]として欲氣のない鼻筋の通つた色白の好男子」。禿頭にもかかわらず女性に間違われるとは、ただ容姿のためだけではなさそうです。

明治43年、『読売新聞』の連載で、関如来は「清雄は其の容貌の婦女子のやうであるがため、これまで幾度か女難に襲はれたとの噂だが、委しい事は知らぬ」*と書いています。

* 関如来「淪落の天才」『読売新聞』1910年(明治43年)12月24日、朝刊5頁。

また、川村清雄の支援者であった小笠原長生は清雄について「女のやうな優しい声」と書いています*。

* 小笠原長生「洋画家河村清雄」『政界往来』、第6巻2号、1935年、185頁。

身長があまり高くなかったことと、その容貌、そして声の質が女性のような印象を人々に抱かせたのかも知れません。

昭和4年、78歳の川村清雄。


『読売新聞』1929年9月2日。

* * *


画伯は小兒のような心持ちの人で人もなつき人にもなつく性質を持ち。心に少しも悪がなく誰からも可愛がられ、自分も他人から可愛がられて嬉しがる。画を描く場合には我儘で強情で神経質でやかましやであるが、人間としては穏やかで怖氣がなく安心して秘密も打明けられる。遠慮がちで良く氣がついて他人の氣分を損ずることを何よりも苦痛がり。色白で伊井*に似てゐると云はれた好男子でいつまでも若く見え。座臥進退までが藝術そのものの様にしとやかで、飽まで信實で軽佻な處がなく人の氣を卑く呑込んで手ざわりも良く口當たりも良く、明るい氣分美しい色彩の中にまたきりつと締まつた所があつて、画伯が描いた画を人間にした様な人である。兎角婦人から慕われて昔から艶聞は珍しくない。

木村駿吉『稿本』126丁、林えり子『川村清雄伝』138〜9頁。


* 伊井=伊井蓉峰(ようほう)。新派の役者で美男子とされた人物。(林えり子『川村清雄伝』)

川村清雄の容姿はまたその艶聞と切り離して論じることができないのですが、それにつきましては木村駿吉『稿本』の「性生活」の項目に詳しく書かれています。

※この稿つづく。随時加筆修正の予定あり。

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