2013年1月6日日曜日

川村清雄ノオト 02

奇人変人川村清雄

木村駿吉『稿本』の扉から。

川村清雄とはどのような人物だったのでしょうか。

川村清雄の生涯については、林えり子『福澤諭吉を描いた絵師 : 川村清雄伝』に詳しいですし、wikipediaにも詳細が載っています。昨秋の展覧会に関する美術館サイトの記述や個人ブログにもたくさん書かれていますのでここでは触れません。しかし、こうした公式プロフィールの外にこそ川村清雄の人間的魅力があるように思います。

たとえば、川村清雄を取り上げた読売新聞の記事には、「奇才」「奇人」といった言葉がならんでいます。


画壇の奇才 川村清雄氏は今年六十一だ。普通ならば孫の三五人も有つて嬉々として余生を楽しんで居るのが日本人並みだ。所が画伯は中々の元気で子供に返った積りで懸命に画筆に親しんで居る

『読売新聞』1912年(大正元年)12月24日、朝刊3頁。



チャキ チャキの江戸ッ子で、洋画壇切つて変人扱いされてきた川村清雄さん

『読売新聞』1923年(大正12年)1月13日、朝刊5頁。



いまの洋画家中で年齢が一番多く明治の中頃から奇人として評判の高い川村清雄翁

『読売新聞』1923年(大正12年)1月14日、朝刊4頁。


読売新聞の記者さん、この書き出しはひどいですね(笑)。しかし記事本文を読むと、これは悪意ではなく、親しみをもって記していることが分かります。感心しない人物であれば、記事にもならなかったことでしょう。

とはいえ、いったいどのような点で「奇人」「変人」だったのか。

川村清雄の人となりについて、生前の川村清雄に取材して伝記を書いた木村駿吉は『稿本』冒頭に次のように記しています。


本邦油畫家の元老でありながら、毎年の帝展にも其作品の現はれたことなく、進んで買手を求めずして、買主の方が懇願してその畫が手に入るのを特典の様に心得る。
數萬の蓄財莫大の収入があり得るのだが、それを顧みないで今日までも平氣で貧困に甘んじ
學閥黨派阿諛中傷の外に超然としてゐても、彼の作品を所持するものは家寶国寶として珍重し、油の少しも乾かない中から争て持て行く。
日本の畫界は謂れなく除けものにしてゐるが、一日として筆を執り想を練らぬことなく、世界美術史の何枚かを書きつゝある。
佛國現代畫の模倣畫家からは舊式と云はれながら、その實知己を将来に持ちつゝ、單身四十余年も新美術の軌範を示し、青年時代から艶福に富ながら、老境に入て枯淡の生活に甘んじ、づぼら、ふしだらと云はれながら、飽くまで藝術には忠実細心な人、畫そのものを生命として、大正の今日昔の名人氣質[かたぎ]、五十年間他人の利慾の為に使役されて少しも怨嗟の聲を立てず、幼少より日本畫と西洋畫を充分に学んだ上で、東西の長所を取合せて傑出した一家をなし、空前絶後の名人だろうとまで云はれる人は、川村淸雄とて今年七十六歳の老翁で、頭顱[とうろ]のつるつる光つた竒麗な上品で悠揚[ゆうよう]として欲氣のない鼻筋の通つた色白の好男子である。……

木村駿吉『川村清雄 稿本 作品と其人物』、1〜2頁。


画家たちの称賛悪口などが抜き書きされている『当世画家評判記』という本には、次のように書かれています。


河村清雄

[同情家]この人は近年酒を以て生命として居る、随分人をして眉をひそめしむる所業[しわざ]がある。尤もこれには氣の毒な原因もあるとださうな。

春蘭道人, 秋菊道人 編『当世画家評判記』文禄堂, 1903年、132-133頁。[※「川村」はしばしば「河村」とも表記される。]


文献をつらつらと眺めていると、川村清雄が「奇人」「変人」である理由として、酒豪、貧窮、遅筆といった点が挙げられそうです。当時の洋画壇に背を向け距離を置いていたこともこれに付け加えられるでしょうか。
以下ではこうしたエピソードを抜き書きしようと思います。

※この稿つづく。随時加筆修正の予定あり。

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