2013年1月30日水曜日

川村清雄ノオト 05

和田垣博士の悪戯——泰西名画展覧会

明治42年、神楽坂にて開催された「泰西名画展覧会」に関する覚え書き。

* * *

川村清雄を古くから支援していた人物のひとりに、帝国大学法学博士の和田垣謙三(1860/万延1〜1919/大正8)がいます。

和田垣博士は大酒飲み、駄洒落好き、そしてなかなかの悪戯者であったようです。

明治末、神楽坂で開催された「泰西名画展覧会」なる展覧会で、博士は川村清雄の絵を仕込んで悪戯を行ったことが、木村駿吉『稿本』に書かれています。しかし、どうも木村の記述ではどのような催しであったのか判然としないのです。

そこで、ここではこの「和田垣博士の悪戯」と「泰西名画展覧会」の、ことの次第を追ってみることにします。

まずは、木村『稿本』から。


大正になつて或る年のこと、黒田画伯を始めとして一黨股肱[いっとうここう]の画家達が神楽坂の音羽亭とかを會場として、銘々が外遊の時に持帰つた師匠や大家の作品を持寄り、何れも鼻高々と自慢して展覧會を催うした。和田垣博士も洋行土産の一品として無落款の作を出品した。その画は驚くべき出来榮で、衆議一決場中第一品と推稱された。何んぞ圖らんそれは川村画伯が伊太利で描いた一作であつたのだ。和田垣博士に相當した痛快ないたづらであつた。この話は博士の意外録と云う著書にあるそうだが、その画は十四五歳の伊太利[イタリー]男児の肖像画であつた。

木村駿吉『稿本』139丁。


和田垣博士は、川村清雄が描いたイタリア人男児の肖像画を、そこに川村清雄のサインがないことを幸いにヨーロッパの名画の一つと偽って持ち込み、みごと一級品として称賛を浴びたというわけです。

* * *

木村駿吉は「この話は博士の意外録と云う著書にある」と書いています。それでは和田垣謙三博士の『意外録』にはどのように書かれているのか、あたってみましょう。


泰西名畵展覧會

今は十數年の昔である。予の知人某が、泰西名畵展覧會と云ふ小展覧會を催した。古名畵の模冩などを合せて數十點集つた。予は旨を會主に含めて、川村清雄氏の描いたる”Neapolitan boy”の一面を出品した。其の畵は如何にも善く出來て居つて、西洋の古畵の如く見え、且又幸に落款がなかつたが、中々の評判であつた。当時の國民新聞の批評には、この畵と黑田淸輝氏出品の老婆の畵像とが場中の双璧で、しかも川村氏のが東の大關であつた。泰西名畵展覧會に、非泰西の美術家の作が場中の白眉と激賞されたのは、惡戱者[いたづらもの]の予にとつては、面白くもあり又意外であつた。

和田垣謙三『意外錄』至誠堂、1918(大正7)年、21-22頁。


『意外録』の記述だけ読むと、単に面白い悪戯を仕掛けたという話のように読むこともできます。

しかし、木村駿吉によれば、このエピソードの背景には、明治半ばより洋画界で勢力を強めた黒田清輝とその一派に対して、その表現がなかなか理解されなかった川村清雄との関係があり、それゆえこの悪戯は川村清雄の理解者であり支援者であった和田垣謙三による黒田一派への意趣返しでもあったというのです。

じっさい、当時の新聞記事にも川村清雄と黒田清輝との確執について記されており、木村駿吉のような解釈がなされて当然の出来事だったようです。昭和2年の『朝日新聞』の記事を引いておきます。


川村淸雄個展

わが現存洋畵家中の最先輩で最高齢たる七十六翁川村淸雄氏の個人展が上野の美術協會内に開かれてゐる。翁は明治三年徳川家から派せられ、法律研究の名目で米、佛、伊三國に渡り實は洋畵の研究で十五年間も外國にゐた。明治四十年東京博覧會當時審査のことから故黑田淸輝氏と意見の衝突を來したのがもとで、以後一切の展覧會から姿をかくし、全く孤獨の境地を樂しんで來た人である。……

『朝日新聞』1927年(昭和2年)5月29日、朝刊6頁。


参考までに、川村清雄による伊太利人少年の画。


金子薫園『伶人』1906年(明治39年)、口絵。

* * *

さて、木村駿吉『稿本』と、和田垣謙三『意外録』の記述にはいくつか異なる点があります。これを確認しておきます。

まず、その時期。木村は「大正になつて或る年」、和田垣は「今は十數年の昔」と書いています。『意外録』の出版は大正7年ですから、そこから十数年の昔といえば明治40年前後になります。

つぎに場所です。木村は「神楽坂の音羽亭とか」と書いていますが、和田垣は何も書いていません。

和田垣が出品した作品は、木村は「伊太利男児の肖像画」、和田垣は「Neapolitan boy」としています。ナポリもイタリアですから、相異というわけではありませんが。

評価については、木村が「衆議一決場中第一品と推稱」、和田垣は「川村氏のが東の大關」としています。

木村駿吉は、和田垣博士の悪戯のエピソードを、おそらく川村清雄から直接聞いたと考えられます。和田垣謙三は木村『稿本』が書かれる以前、大正8年に亡くなっているので、和田垣から聞いたとは考えにくい。また『意外録』に書かれていない会場が『稿本』に示されていることからも、そのように考えられます。

他方で木村が「この話は博士の意外録と云う著書にあるそうだ」と伝聞調で記している様に、木村自身は『意外録』の記述にあたっていない可能性があります(木村の参考文献にもリストされていません)。そのように考えれば、展覧会の時期が一致していないことも説明できましょう。

ちなみに、林えり子『福澤諭吉を描いた絵師—川村清雄伝』は、黒田一派との対立も含め、木村駿吉の説明に依ってこのエピソードを紹介しています(198〜9頁)。

* * *

さて、調べて見ると、大正3年の『読売新聞」にもこの「和田垣博士の悪戯」が記載されていました。


和田垣博士の惡戱

事の起りは少し古いが話は極く新らしい、上野で泰西名畵展覧會があつた時、其の出品の高下を投票で決した所 東の大關となつたのが和田垣謙三氏の所持、西の大關になつたのが黑田淸輝氏秘藏のものであつた。さて新らしい話と云ふのは某氏この程和田垣博士を訪ねると床の間に西洋の少女を描いた良い畵がある。博士はそれを指示して「之れは泰西名畵展覧會で東の大關になつた油繪だから日本にある西洋人の描いた繪の中では一番好い事になつてゐるのだが實は川村淸雄が描いたのである。」と呵々大笑して「人に云ふなよ、欺かれた當代の畵家先生が火のやうに怒るからね、何あに一寸した悪戱をやつたのだが世間の奴はさう思はない。和田垣は太い奴だ、擲[なぐ]れなんて事になると困るから」と哄笑した。之れは數日前[すうじつぜん]の事である。

『読売新聞』1914年(大正3年)12月10日、朝刊4頁。


この記事では、時期は「事の起りは少し古いが」と曖昧。場所は「上野」。和田垣博士の出品作は「西洋の少女を描いた良い畵」とあります。先に示したふたつの記述と、また一致しませんねえ。もっとも絵についてはこの話を聞いた者が西洋人の少年と少女の区別が付かなかった、という可能性もなくはありません。

しかし、「人に云ふなよ」という話を、新聞に載せてしまって大丈夫だったのでしょうか……。

* * *

和田垣博士の悪戯について、本人の筆も含めて引用したわけですが、3つともそれぞれ話の内容が微妙に異なっていて、まさに「藪の中」。

和田垣博士は、「当時の國民新聞の批評には……」と書いていますので、『国民新聞』をあたってみればさらに詳しい話がわかると思うのですが、同時期の『国民新聞』はマイクロフィルムで、展覧会の時期が特定できないと調べることもままならず……。

と思ったら『朝日新聞』、『読売新聞』にそれぞれ「泰西名画展覧会」の案内を発見。


● 泰西名畵展覧會 本月一日より牛込神楽坂中程に開催せり同會は泰西名画及其模寫を集めて陳列せり

『朝日新聞』1909年(明治42年)7月4日、朝刊5頁。



◎ 泰西名畵陳列會 牛込區神楽坂中程に於て先月一日より開催中なりし同會は其後観覧者も多き爲九月まで延期し尚新たに名畵をも陳列したる由

『読売新聞』1909年(明治42年)8月1日、朝刊5頁。


場所は神楽坂。木村は「神楽坂の音羽亭とか」と書いていますので一致します。ただし時期は「大正になつて或る年」(木村)ではなく、明治42年7月1日から9月までです。

この展覧会が件の「泰西名画展覧会」なのかどうか。

確証はありませんが、とりあえず『国民新聞』をあたってみる時期的な手掛かりはできたわけです。

泰西名画展覧会——『国民新聞』による展評

『国民新聞』明治42年7月から9月まで3ヶ月分の紙面をあたった結果、「泰西名画展覧会」に関する告知2件と批評1件(3回に分けて掲載)を見つけました。まさしく、和田垣博士が『意外録』に記した「國民新聞の批評」がこれです。

明治42年7月6日と9日、「美術界」と題する短信欄に展覧会の案内。




▲泰西名畵展覧會は愈[いよい]よ神樂坂で開催する筈だが主唱者は額縁屋の磯谷だ

『国民新聞』1909年(明治42年)7月6日、7頁。





▲泰西名畵展覧會 七月一日より三十一日まで毎日午前九時より午後十一時まで牛込神樂坂中程に開催せる同會はターナー、レンブラント、ベラスケス其他最近泰西名畵の模範たるべきもの数百點を集めたれば苟[いやし]くも美術を口にするものは是非一覧の價値ありと

『国民新聞』1909年(明治42年)7月9日、7頁。


7月1日から31日までの、1ヶ月間の予定だったようです。
それにしても、毎日午前9時から午後11時までとはすごいですね。

そして、7月17日から3回に渡って、「山歸來」なる人物の署名で「泰西名畵展覧會所見」が掲載されていました。

まずは、展覧会の主旨を引用しましょう。


泰西名畵展覧會所見
山歸來

額縁製造を業とする磯谷といふ人がある。此人の父なる人が頗る變つた義侠的な男で、繪畵修業の書生抔[など]の世話もしてゐる。商賣上佛、米へも行つたこともあり、畵家社會にも交際が廣い。こんな所から思ひ付いたのが此會である。
今日少からぬ人が海外へ行つて繪畵を研究する。其傍[そのかたはら]には其國々の名畵の模寫をやる。又畵を賣る店に行くと買ひたくなるものも澤山あるので身分相應の小さな畵[ゑ]を買ふ事もある。で、此等のものを借り集めて展覧會を開いたら面白からうといふので、實行することになつた。が何分獨力でやることなり、會場も適当な所がない。やつと神樂坂のデパートメント・ストアのなれの果てを借り受て夜晝開くことになつたのだといふ
◎場所は間に合わせ、畵は模寫、また眞物[ほんもの]ありと雖も、たかだか二百、三百位の金目のものに過ぎない。それも泰西諸家の作品を悉く網羅したといふのでもなく、不完全勝ちで、素人目には詰らぬやうではあるが、今日畵[ゑ]を学ぶ青年が僅に寫眞版によつて名畵の面影を見てゐるに過ぎないという場合を考へたなら如何[どう]であらう。頗る有益な催しであるといふに憚らぬ。
◎さて陳列の作品は、白馬會側の黑田、和田、三宅、白瀧、山下、太平洋畵會側の中村、満谷、吉田、河合、其他の諸家の模寫と其所藏の眞筆の小品で總てで百二十點を數へる。以下順次主なものに就いて槪評を試みよう。(未完)

『国民新聞』1909年(明治42年)7月17日、1頁。


連載第一回はこれで終わり。

続いて7月20日に第二回が掲載されますが、出品作評が延々と続きますので(美術史家の方には興味あると思われますが)割愛。ただ、和田垣博士が『意外録』に「黑田淸輝氏出品の老婆の畵像」と記している画についてのみ、引用。(なお、残念ながらどの作品についても画像は掲載されていません。)


泰西名畵展覧會所見(二)
山歸來

……黑田氏出品、筆者不明の老婆の肖像は實に旨いものだ。日本畵家の藥になる。何年かゝつても文部省展覧會では見つかるまいと思ふと情ない。……

『国民新聞』1909年(明治42年)7月20日、2頁。


そして7月21日第三回に、和田垣博士出品の絵が触れられています。


泰西名畵展覧會所見(三)
山歸來

……
◎此外の肉筆では、黑田氏藏、加奈陀[かなだ]の人ブレーアブルスの綠陰讀書の圖は、鮮明な色で、顔には濃淡がなくて而もよく出來てゐる。気の利いたやり方である。和田垣博士藏、伊太利人[いたりーじん](筆者不明)の描いた子供のモデルは耐[たま]らん程筆の使ひ方が面白い。黑田氏所藏の老婆の像と相匹敵する。……
◎以上、心して研究すれば極めて面白く有益な展覧會で、少なくとも一度や二度は見なくてはならぬものである。陳列法の拙劣、家屋の汚穢などを論じてゐる餘裕は更にない。

『国民新聞』1909年(明治42年)7月21日、1頁。


どうですか。

かたや、「日本畵家の藥になる。何年かゝつても文部省展覧會では見つかるまいと思ふ」と評された、黒田清輝所蔵の「老婆」。

かたや、「耐らん程筆の使ひ方が面白い。黑田氏所藏の老婆の像と相匹敵する」と評された和田垣博士所蔵の「イタリア人の子供」。これがじつは日本人川村清雄の筆になる作品とは。

泰西名画展覧会——『美術新報』による展評

2001年に郡山市美術館で「今よみがえる泰西名画展覧会」という展覧会が開催されました。このときの図録に掲載されていた菅野洋人氏の論文「模写についての考察」(113〜121頁)が明治42年の「泰西名画展覧会」についても触れています。菅野氏によれば、『美術新報』に展評が掲載されているとのことでしたのでさっそくあたってみると、『国民新聞』より詳しい状況が記されていました。


●泰西名畵陳列會 七月一日より三十一日まで毎日午前九時より午後十一時まで牛込神樂坂中程五十嵐方に開催せる同會は芝新櫻田町なる磯谷商店主長尾健吉氏の計畵に係り出陳の絵畵は洋畵家の秘蔵にか〻る歐州名家の肉筆及び模寫等なりと。

『美術新報』第8巻第9号、明治42年7月20日、7頁。


場所は神楽坂の五十嵐方。主催者は額縁商磯谷商店店主長尾健吉氏。

以下、『美術新報』第8巻第10号(明治42年8月5日)に掲載された展評から抜き書き。


牛込神樂坂の中程、盆栽屋の二階と三階とで、泰西名畵展覧會といふのが七月一ぱい催れた。その標題の餘りに豪氣なのと、主催者が額緣屋の主人だといふので、高を括つて往つたところが、室内の薄暗いのと、陳列法の粗雑なのとを除いては案外に趣味あるものであつた。
内容の大多数は我が留學畵家が模寫した泰西名畵で、それに少数の彼地畵人の眞蹟と、餘興的に着色版の複製が所せまきまで掛けてある。この複製などは除いた方が好いだらう。
[以下、模写についてのコメント]
……
若しそれ肉筆物に至つては、是まで餘り見ない珍なものがあつた。殊に黑田氏の出品に好いのがある。老婆の顔を畵いた作の如きは、和蘭人の筆であらうが、軽快なるブラシの運びに無限の趣致を湛へた傑作である。
……
泰西の名作を親しく觀ることの出來ない我邦では、その模寫に接するだけでも、一般學徒を利すること頗る多いので、この會などは餘程面白いものである。されば吾人はこの機會を利用して茲に一つの注文を持ち出す。即ち更に廣く眞蹟と模寫とを蒐集することと、陳列法を整頓することとである。今度のは唯だ手當り次第に得たものを雜然として陳列したまでで、畵題や筆者の記されて居ないものも多い。況して時代だの流派だのは少しも顧みられない。尤も專門家には是でも好い。ただ一般の學徒や鑒賞家には今少し親切な陳列が望ましい。少くもいつ頃のどういふ流派の畵家であつたか位は記されたい。……

『美術新報』第8巻第10号、明治42年8月5日、4頁。


ここでも黒田清輝出品の「老婆像」が秀作としてあげられています。残念ながら、和田垣博士出品作についてはまったく触れられていません。

菅野洋人氏はこの展覧会が「7月1日から31日まで」開催されたとしていますが、『美術新報』第8巻第11号には会期が延長された旨、告知が掲載されています。


●泰西名畵陳列會の延期 牛込區神樂坂中程に於て先月一日より開催中なりし同會は其後觀覧者も多き爲め九月まで延期し尚新たに名畵をも陳列したる由。

『美術新報』第8巻第11号、明治42年8月20日、7頁。


なかなか盛況だったようですね。

まとめ

明治42年の「泰西名画展覧会」について整理しておきます。

・会主:額縁製造業の磯谷商店店主長尾健吉。
・場所:神楽坂の「デパートメント・ストアのなれの果て」、もしくは盆栽屋の2階と3階。
(ここが「音羽亭」という名であったかどうかは不明)
・期間:明治42年7月1日から9月末日(7月いっぱいの予定が、盛会につき延長)
・出品点数:120点ほど
・出品作品:西洋画の模写および真筆
・和田垣博士出品作は、「ナポリの少年」(『意外録』より)
・『国民新聞』記者も、『美術新報』記者も、黒田清輝所蔵・出品の「老婆像」を推している。
・『国民新聞』記者は、和田垣謙三所蔵・出品作を、黒田の「老婆像」に匹敵するとしている。

* * *

さて、木村駿吉はこの展覧会で川村清雄の作品が「衆議一決場中第一品と推稱」されたとしていますが、そのような投票が行われたかどうかは分かりませんでした。『意外録』には川村の作品が「東の大関」であったと書かれていますので、ひょっとするとこのとき番付の様なものがつくられた可能性もあります。ただし、それを具体的に裏づける記述はいまのところ見出していません。

額縁屋磯谷商店の長尾建吉氏について

明治42年の「泰西名画展覧会」を主催した長尾建吉氏とは……


氏は明治十一年十九歳の弱冠でフランスで開かれた萬國博覧會に郷里の金属細工を携へて渡佛 滯まつて額緣製造の研究に專念 帰國後は斯界の創始者として美術界に貢獻した人

『朝日新聞』1938年(昭和13年)12月5日、朝刊11頁。


菅野洋人氏によれば、


長尾は、山本芳翠とともにパリへ行ったこともあり、後に芳翠の指導によって日本で最初の洋風額縁店を開いた人物である。黒田清輝とも親しく、東京美術学校や黒田が中心となっていた白馬会にもよく出入りしていた。自ら絵画の常設展示場も作り、そこに芳翠の〈天女〉などを展示した。

郡山市美術館『今よみがえる泰西名画展覧会図録』2001年、118〜9頁。


美術界への貢献も大きく、昭和13年12月3日に亡くなった後、12月21日には追悼会が開催され、多くの美術関係者が集まったそうです。


洋畫の恩人追悼會

洋畵壇の恩人磯谷額緣店主故長尾建吉翁追悼會が二十一日夕五時半から明治生命地階マーブルで催された、同翁が明治二十二年當時まだ搖籃期の畵壇のために犠牲的に店を開いてから去る三日死去するまでの斯界に尽くした功勞を偲び故人の遺言で行はれなかつた告別式にかへて催された集まりで
藤島武二、中村不折、和田英作、和田三造、石井柏亭、津田青楓、南薫造、北蓮藏、有島生馬氏等を始め約二百名出席、玉版箋全紙一ぱいに一同署名、靈前に捧げて想出を語つた

『朝日新聞』1938年(昭和13年)12月22日、朝刊11頁。


この磯谷商店、現在も新橋に現存しています。


聖徳記念絵画館の額縁を制作したのも磯谷商店だそうです。

* * *

磯谷商店・長尾建吉と画家たちとの関係を資料で綴った書籍『丘陽長尾建吉』(長尾一平編、1936年)に、明治36年白馬会の展覧会場の写真が掲載されていました。



黒田一門の展覧会でもこんな感じだったわけです。
泰西名画展覧会での展示はいったいどのような状況だったのでしょうか。なにしろ、わざわざ「陳列法の拙劣、家屋の汚穢」「室内の薄暗いのと、陳列法の粗雑」を記されるほどだったのですから。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

2013年1月23日水曜日

川村清雄ノオト 04

美男子 川村清雄

川村清雄の容姿に関する覚え書き。

『国立国会図書館月報』に山中共古が蒐集した『見立番附』に関する一文が掲載されている。それによれば、蒐集品のひとつ「花競見立相撲」に川村清雄の名前が見られるといいます。

明治2年といえば、清雄が二十歳の頃。


「花競見立相撲」は、朱筆で記された共古の書き入れによれば、明治元年から2 年ころの「静岡移住士族の男女美人」の番付。すなわち、旧幕臣やその子女などの美男美女番付である。いかに明治の世になったからとはいえ、このようなランキングを作っていたことに驚きを禁じ得ないが、さすがに刊行されたものではないらしい。前頭の「草深 川村清雄」は画家の川村清雄(1852-1934)であろう。

大沼宜規「見立番附 山中共古のコレクション」『国立国会図書館月報』595号、2010年10月、2~3頁。


山中共古は「江戸時代には御家人であり、維新後は静岡に 移住しメソジスト派の牧師となった。その傍ら、在野にあっ て民俗学的・考古学的な研究を進めた人物で、『東京人類 学会雑誌』『集古会誌』等に論説が掲載されている。」(同、2頁。)

その「花競見立相撲」がこちら ↓。



拡大図がこちら ↓。



* * *

清雄の容姿について、林えり子『川村清雄伝』には次のように書かれています。


清雄は眉目秀麗な若者であった。十九世紀半ばの青年であるにもかかわらず二十世紀末現在の渋谷原宿あたりを闊歩するティーンエイジャーに似た容貌をしている。徳川家留学生の仲間と一緒に撮った写真でも、清雄一人が日本人離れして見える。しかし、十七歳のときの写真では、ごくあたりまえの日本人の若侍といった風貌なのである。この変化の様は、見る者をおどろかせる。すっかり「西洋」の顔になって、カメラに向かって頬笑み、ポーズをつくる清雄は、当時の日本人としては稀有な適応力の持ち主であったということだろう。
背丈は五尺(150センチ強)と小柄のほうだった。その上童顔なので五歳は若く見られた。……

林えり子『福澤諭吉を描いた絵師 川村清雄伝』慶應義塾大学出版会、2000年、86〜87頁。


当時の写真は、江戸博の川村清雄展図録にいくつか掲載されています。「徳川家留学生の仲間と一緒に撮った写真」とは、図録33頁のものでしょう。「清雄一人が日本人離れして見える」というのはやや大げさと思いますが、たしかに渡欧前後の写真を見比べてみると、ニューヨークや、その後の留学先ヴェネツィアで撮影された姿はとても垢抜けていることがわかります。


……彼は好男子であった。昭和十六年十月号の『三田文学』(美術特輯)に「福澤先生肖像」と題した一文を斎藤貞一が寄稿しており、その文中で斎藤は、清雄を「非常に好男子」と書いている。ベネチアで「マントを半分肩にかけて、街を歩いていると婦女子が跡をついてきた」とも書く。ほめことばとしての「色男」だったのである。ラブ・アフェアはいろいろあったと思われるが、婦女子だけにとどまらず彼は同性にも好意を抱かれた。

同、94頁。


* * *

木村駿吉『稿本』にも、清雄の容姿についていくつかの記述があります。


この頃或る人が四谷の源來軒と云う飯屋え畫伯を連込んだ所が、奥で大小の支那人が荐[しき]りと爭つてゐる。賭でもしてゐたものらしい。程なくその中の大きいのがその人のゐる所えやつて來て、お連れのご老人は男ですか女ですかと尋ねた。畫伯も時々女と間違られると言われるから、失禮な奴です目の前で小便をしておやりなさいと忠告する。
それほどに優しく見られる人でありながら、七十歳の時に自慢の黒紗の道服を着て撮られた冩眞を見ると、舞台から抜出て來た計りの河内山宗俊そつくりである。肖像畫に描いたら定めし人目を聳たせる容貌であろう。外國人に見せるとスプンヂット・フェースと叫ぶ。

木村駿吉『稿本』2丁。


「スプンヂット・フェース」の意味が分からないのですが……

木村の記述は大正14年か15年ごろのことと思われます。川村清雄が70代半ばの話でしょう。木村に依ればこのころの清雄は「今年七十六歳の老翁で、頭顱[とうろ]のつるつる光つた竒麗な上品で悠揚[ゆうよう]として欲氣のない鼻筋の通つた色白の好男子」。禿頭にもかかわらず女性に間違われるとは、ただ容姿のためだけではなさそうです。

明治43年、『読売新聞』の連載で、関如来は「清雄は其の容貌の婦女子のやうであるがため、これまで幾度か女難に襲はれたとの噂だが、委しい事は知らぬ」*と書いています。

* 関如来「淪落の天才」『読売新聞』1910年(明治43年)12月24日、朝刊5頁。

また、川村清雄の支援者であった小笠原長生は清雄について「女のやうな優しい声」と書いています*。

* 小笠原長生「洋画家河村清雄」『政界往来』、第6巻2号、1935年、185頁。

身長があまり高くなかったことと、その容貌、そして声の質が女性のような印象を人々に抱かせたのかも知れません。

昭和4年、78歳の川村清雄。


『読売新聞』1929年9月2日。

* * *


画伯は小兒のような心持ちの人で人もなつき人にもなつく性質を持ち。心に少しも悪がなく誰からも可愛がられ、自分も他人から可愛がられて嬉しがる。画を描く場合には我儘で強情で神経質でやかましやであるが、人間としては穏やかで怖氣がなく安心して秘密も打明けられる。遠慮がちで良く氣がついて他人の氣分を損ずることを何よりも苦痛がり。色白で伊井*に似てゐると云はれた好男子でいつまでも若く見え。座臥進退までが藝術そのものの様にしとやかで、飽まで信實で軽佻な處がなく人の氣を卑く呑込んで手ざわりも良く口當たりも良く、明るい氣分美しい色彩の中にまたきりつと締まつた所があつて、画伯が描いた画を人間にした様な人である。兎角婦人から慕われて昔から艶聞は珍しくない。

木村駿吉『稿本』126丁、林えり子『川村清雄伝』138〜9頁。


* 伊井=伊井蓉峰(ようほう)。新派の役者で美男子とされた人物。(林えり子『川村清雄伝』)

川村清雄の容姿はまたその艶聞と切り離して論じることができないのですが、それにつきましては木村駿吉『稿本』の「性生活」の項目に詳しく書かれています。

※この稿つづく。随時加筆修正の予定あり。

2013年1月15日火曜日

川村清雄ノオト 03

川村清雄と酒

川村清雄はかなり聞こし召した人物であったようで、画を描くときにも酒は欠かせなかったようです。しかし、意外にも酒に起因するエピソードはそれほど見つかりませんでした。酔って不始末をしでかすタイプではなかったようです。木村駿吉『稿本』に、「今年の二月の始め画伯は友人を訪問して大酔し、縁側から庭に轉げ落ちて腰を痛め、三週間程床に就いてゐた」という話*がある程度でしょうか。この「今年」とは『稿本』が出版された大正15年、清雄76歳のときです。

* 木村駿吉『稿本』59丁。

ここでは、川村清雄のお酒にまつわるエピソードをいくつか抜き書きしておきます。

新案酒豪大番附

清雄は文人画人のなかでもかなりの酒飲みであったことは間違いないようで、「新案酒豪大番附」という番付に前頭として名前が挙げられています。


『川村清雄研究』117頁、挿図37。


「新案酒豪大番附」[挿図37] こんなものも残っている。何年頃かは不明だが、東の方に清雄が前頭で、西の方に張出大関で和田垣謙三氏が出ている

川村清衛「父川村清雄の作品について」『川村清雄研究』114頁。


東の関脇は洋画家黒田清輝。

和田垣謙三は清雄の大恩人のひとりであり、別項で述べます。

小川に落ちた川村清雄

和田垣謙三博士に誘われて大町芳衞(=大町桂月)邸で開催された野遊会を訪れた川村清雄、ひとり暗くなった庭園を散策するうちに小川に落ちたという話が残されています。


其の日[和田垣]博士は川村淸雄畫伯をも同伴しけるが、日暮に及びて、會散じ、居残れる數友[すういう]と共に、室内に入りて、更に小酒宴を開きけるに、二三時間過ぎて、戸外に『おういおうい』と呼ぶ聲す。誰にかとて、出でて聲を踪[そう]すれば、川村畫伯也。『如何にせられしか』と問へば、『まだ日の暮れぬ中、園内を散歩しけるに、誤つて小川に落ちたり。兩岸高く直立して攀[よ]ぢ上ること能わず、小川を上りつ、下りつして、攀ぢ易き處を捜す程に、日暮れて、闇の夜となりぬ。漸くにして攀ぢ上ることを得たるも、家が何處やら、門が何處やら、更に見當つかず、歩き廻り廻りて、終に大聲にて呼びたれども、返事なし。又歩きて又呼ぶに、又返事なし。かくすること、凡そ十囘にも及びて、漸く返事の聲を聞き、やがて出迎への火光[あかり]を見て、始めて胸なでおろせり』といふ。余も大いに驚きたるが、怪我の無かりしは何よりとて、請じ入れて、互いに其無事なりしを祝ひぬ。この時、博士の紹介にて、始めて川村畫伯と相識りし也。

大町芳衞(=大町桂月)「和田垣博士傳」、大町桂月編『和田垣博士傑作集』至誠堂、1921年/大正10年7月、559~560頁。


どんなにか広い邸内かと思いますが、「邸内は二萬坪もありて、梅林もあれば、櫻林もあり、楓林もあり、築山もありて、築山に上れば、西に富士山を望むべく、東に筑波山と日光山とを望むべし。ここは、もと春日局の別莊にして明治の初め江藤新平の別莊なりきとの事也」だったそうです。

俄大尽 大町桂月

大正3年(1914年)の『読売新聞』に、なかなか愉快な酒宴の記事がありました。


俄大盡の振舞酒
三十六人の大騒ぎ


岩崎家から一萬円と云ふ飛んでもない大枚の原稿料を貰つた大町桂月氏が麹町の富士見樓で八日夜祝盃を擧げた事はお定まり文句で既報の如くであるが 當夜相會した人々は三十六人 それが何れも又痛快な人々だから興が思ひ遣やられる ▲曰く和田垣博士、川村淸雄、千頭淸臣、横山健堂と云ふ豪傑連、イヤモー主人が演説すれば一人和し二人續き 天上の鼠も縮み上がれば地中の蚯蚓[みみず]も潛むと云ふ大騒ぎ ▲斗酒を辭せず気焔は虹の如し處ではない、主人が蹣跚と帰宅したのが一時半でお客はそんな事お構ひなくぬかみそを腐らせて散會したのが三時半、もう東が白んで雀がチューチュー烏がカーカー

『読売新聞』1914年(大正3年)7月10日、朝刊7頁。


まんさん【蹣跚】:よろよろと歩くさま。
糠味噌が腐る:悪声であったり調子が外れていたりする歌いぶりをあざけっていう言葉。

大町桂月(おおまちけいげつ): 1869/明治2年〜1925/大正14年。明治大正時代の詩人,評論家,随筆家。(☞ kotobank
和田垣謙三(わだがきけんぞう):1860/万延1年〜1919年/大正8年。明治大正期の経済学者,兵庫県出身。帝大卒。帝大法科大学教授のち同大農科大学教授。(☞ kotobank
千頭清臣(ちがみきよおみ):1856/安政3年〜1916/大正5年。明治時代の教育者,官僚。高知藩士の子。(☞ kotobank
横山健堂(よこやまけんどう):1872/明治5年〜1943/昭和18年。明治-昭和時代前期の評論家。(☞ kotobank


先の番付でいうと、和田垣謙三は西の大関、大町桂月は東の関脇、川村清雄は東の前頭です。

和田垣謙三没後に編まれた『和田垣博士傑作集』(大町桂月編、至誠堂、1921年)に、川村清雄はタイトルも「酒畫の交際」として和田垣博士との思い出を記しています。その中のお酒に関する話を引用しておきましょう。


酒畫の交際
川村淸雄

……和田垣博士は、酒が大變御好きであるし、私も酒が相當に飲めます所から、御同伴して料理店や、ビーヤーホールに參つたことは數限りなくあります。絵畫と飲酒の二つは、和田垣博士にも私にも共通した道樂でありましたから、それが爲に交際が一層密になりました。

大町桂月編『和田垣博士傑作集』至誠堂、1921年、664頁。


さて、先の宴会、いったいどんな催しだったのでしょうか。

上の記事に「既報の如く」とありますが、同じ『読売新聞』7月10日付の4頁「よみうり抄」には次のように書かれています。


▲大町桂月氏 は岩崎家より委嘱されたる家史脱稿したれば八日富士見樓に知人を招待して完成祝を催せり

『読売新聞』1914年(大正3年)7月10日、朝刊4頁。


同日7頁の記事はまるで現場を見てきたかのような筆致と思われるかも知れません。
じつは読売新聞記者子が現場にいました。
本社の「吉岡将軍」なる人物のところに、大町桂月氏から招待状が届いているのです。7月9日付『読売新聞』には、招待状の写真入りで詳細が記されています。


原稿料壱萬圓
貧乏文士桂月
俄大盡となる


謹啓[きんけい] 陳者[のぶれば] ○[まる]が普通の原稿料より少し多く入來[じゆらい]申[まをし]候[そろ]依つて貴兄を初め知己諸賢と共に一杯傾けんと存[ぞんじ]申[まをし]候[そろ]萬障[ばんしやう]御繰合[おんくりあはせ]御出馬下されずや
七月八日
桂月頓首
吉岡将軍侍史

といふ別項寫眞のやうな手紙が本社の吉岡將軍の所へ舞込んだので、あの貧乏桂月が氣でも違つたかと流石物に動ぜぬ將軍も猛烈に面喰つて、自身御出馬探索に及んだ所、これには大に曰くがあることが解つたので、將軍も莞爾[くわんじ]として「ナール程」と大きく首肯[うなづ]いた。


△曰くといふのは他でもない、去んぬる明治四十四年桂月の恩師杉浦天台道士の紹介で、今の岩崎男爵から亡父彌太郎氏の傳記を書く様との依頼が桂月の許に届いた 其の時の契約には伝記の成つた曉に一萬圓の原稿料をと云ふので桂月もホクホク 一時は大いに氣乗りはしたもの〻例の氣象が萌して其のま〻一行も書かずに四ヶ年間を經過した 其間に催促が矢のやうに来るが馬耳東風 書く氣色が更になかつた、それで岩崎男も怒つて契約を解除すると迫つたそうな、 桂月は心得たもので「今迄其の原稿を書いて居たので
△借金が山程 出來た 今更解除されては浮ぶ瀬がない」と天台道士を介して岩崎男の怒りを解いた そして桂月は去る二月頃突然伊豆の大島に雲隱れして下の意味の手紙を岩崎男宛に出した 「さすがの平家でさへ頼朝が伊豆へのがれたら追求しなかつた位だから大島までは追求が出來まい」と、斯うして岩崎男の契約解除の相談を避けて
△大島住居[すまゐ]の間 物の見事に原稿を書き上げ さあさあさあと岩崎男につき附けて 目出度一萬圓を手に入れた 此傳記は富山房から出版さる〻事になつたので友人知己を富士見樓に招待して大いに豪遊を極めやうと云ふのださうな、 富士見樓の一夜はどんなに大町式の發揮にお客を惱ますことだらう

『読売新聞』1914年(大正3年)7月9日、朝刊7頁。


かんじ【莞爾】:にっこりと笑うさま。ほほえむさま。
杉浦天台=杉浦重剛(すぎうらじゅうごう):1855/安政2年〜1924/大正13年。明治大正期の政治家,教育家。(☞ kotobank

大正3年、川村清雄は63歳。

酒宴の理由は、大町桂月が岩崎男爵から伝記執筆料1万円を受けとった、その祝いでした。

読売新聞の「吉岡將軍」とは、「吉岡真敬」氏(〜1940)のことです。吉岡真敬は初期の早慶戦で「野次将軍」と呼ばれ「当時野球の応援に乗馬姿で乗り出し応援団を指揮し現在の団体応援の創始者といわれ」*た人物で、このころは読売新聞にいたそうです。

*『読売新聞』1940年(昭和15年)12月8日、朝刊7頁。

河村清雄氏の縄暖簾

明治40年、川村清雄56歳のときのエピソード。


雑録

△河村淸雄氏の縄暖簾 は美術家中最も飄逸脱俗[へういつだつぞく]で、逸話は數へ切れぬ程ある、何時も近所の縄暖簾へ出掛けて味噌で濁酒を飲むのを一の快樂としてゐるが、下谷にかの縄暖簾の支店が出來たので、氏も親類付合しやうといつて、上野へ來る每に人を引張つて其所へ行く、嘗て柳川春葉氏が氏に揮毫を依頼に行つて、執筆料は幾らかと聞くと、先生例の優しい聲で、「なあに、お互ひ貧乏なんだから、貴下[あなた]から揮毫料なんか頂かなくてもよい、牛屋[ぎうや]へでも連れて行て下されば澤山です」といつた、大小説家たる春葉氏 頭から貧乏仲間に引入れられたので、呆氣に取られてゐると、河村氏は更に「何か差上げたいから一寸其處までお出で願ひたい」と縄暖簾へ連れて行つたので、春葉先生大閉口であつたさうな。

『読売新聞』1907年(明治40年)1月6日、別冊1頁。


柳川春葉(やながわしゅんよう):1877/明治10年〜1918/大正7年。明治大正時代の小説家。明治31(1898)年春陽堂に入社,『新小説』の編集に従事。(☞ kotobank

清雄は明治39年12月頃、千駄ヶ谷に転居していますので*、この記事中の「近所の縄暖簾」は千駄ヶ谷界隈の店のことと想像されます。

春葉は雑誌『新小説』の編集者。清雄は『新小説』の表紙絵を描いていましたから、春葉氏の懐具合について少しは知っていたのではないかと思われるのですが……。

* 江戸博展図録、209頁。

* * *

さてこの話、1909年に刊行された『人物の神髄』(日高有倫堂、1909年)にも収録されています。少しばかり話が違いますので、ここに引用しておきます。


河村淸雄と縄暖簾 ​

洋畵家河村淸雄は、珍しい飄逸脫俗の人である。立ン坊ヤ車夫などを連れて、縄暖簾へ濁酒を飲みに行くのが道樂で、其爲に暖簾へ借りが出來ると、金を作つて拂ひに行くが、又た立ン坊ヤ車夫の取巻を連れて行くので、其足で又た借金をして歸つて來る。
小説家の柳川春葉が、何時か畵を頼んで、「潤筆料はいくらか」と聞くと、「貧乏はお互だからそれには及ばない。出來上がつたら牛肉でもおごつてください。」と云つて、後で、「何か差上げたいから、其所迄お出でを願ひます。」と案内するので、春葉はビヤホールか料理屋へでも行くのかと思つて、辭退しながらついて行くと、河村は近所の縄暖簾を片手にあげて、「サアどうか、」と春葉を顧たので、貴公子然たる春葉は返辭が出來なかつた。

伊藤銀月『人物の神髄』机上図書館 ; 第18編、日高有倫堂、1909、92頁。



酒を飲みながら描く

大正12年、清雄72歳のときに画室を訪れた記者子の前で、盃を傾けつつ絵を描き、「何しろ 飲みますからな この年で日に六七合から一升もやらかす事もあつて……あなたは御酒を召し上がらない?、それは淋しい』と独りで飲み且語りつづけ」*たとのこと。

*『読売新聞』1923年(大正12年)1月13日、朝刊5頁。この記事の詳細は別に書きます。

* * *

飲みながら絵を描く様子は、木村駿吉『稿本』にも描かれています。


席画

宅の座敷に前以て画架や繪具その他の入用の品を用意する、画架の上の方には長い棒を水平に縛り付ける。程なく画伯が筆を持つて來られると、直ぐ仕事衣を着て画架の前に座る。直ぐお銚子が出る。ビールが出る。ウイスキーも出る。画伯は腹の中で和洋融合をやるのだ。飲みながら談をしながら描き初める。左の手に長い棒とパレットを持ち、右の手には筆を持ち、その棒を画架の水平の棒の上に動かして右の手首をその棒の上に動かす。筆が外れずに力も入る。力のこもつた線を描く時には腕を空に浮かせる。やつと氣合をかけると勢の強い線が出来る。次から次えと色々の材料を出す。晝飯には一寸座を外すだけでまた直ぐ描き始める。餘程氣分が良かつたものらしい。日の一番永い時分であつたが、引續き電燈の下でも描かれた。側で三味を彈く美人もゐた。盛に談話するものもあつた。画伯としんみり話す人もあつた。一向筆の進みにさわらない。反て良い様だ。お酒と談話で筆の運びが良くなるらしい。毎日獨りぼつち画室で描くよりは良いと言われる。画伯の構想も画題も豊富である。……

木村駿吉『稿本』132丁。


※この稿つづく。随時加筆修正の予定あり。

2013年1月13日日曜日

避難用梯子

非常口の脇に付けられた鉄製の梯子。


| iidabashi | jan. 2013 |

いやいや無理です。許してください。


| iidabashi | jan. 2013 |

降りきった先はこんな感じでした。


| iidabashi | jan. 2013 |

あんな場所に開閉可能なドアがあって、危なくないのでしょうか。
一番上、7階部分は梯子にちゃんと手足が届くかどうか……。

2013年1月12日土曜日

ピクト三態

1. 路上のピクトさん


| shibuya | dec. 2012 |


2. ピクトさんのひと休み


| ginza | jan. 2013 |


3. ピクトさんの逢い引き


| shibuya | dec. 2012 |

以上、ピクトさん三態でした。

2013年1月6日日曜日

川村清雄ノオト 02

奇人変人川村清雄

木村駿吉『稿本』の扉から。

川村清雄とはどのような人物だったのでしょうか。

川村清雄の生涯については、林えり子『福澤諭吉を描いた絵師 : 川村清雄伝』に詳しいですし、wikipediaにも詳細が載っています。昨秋の展覧会に関する美術館サイトの記述や個人ブログにもたくさん書かれていますのでここでは触れません。しかし、こうした公式プロフィールの外にこそ川村清雄の人間的魅力があるように思います。

たとえば、川村清雄を取り上げた読売新聞の記事には、「奇才」「奇人」といった言葉がならんでいます。


画壇の奇才 川村清雄氏は今年六十一だ。普通ならば孫の三五人も有つて嬉々として余生を楽しんで居るのが日本人並みだ。所が画伯は中々の元気で子供に返った積りで懸命に画筆に親しんで居る

『読売新聞』1912年(大正元年)12月24日、朝刊3頁。



チャキ チャキの江戸ッ子で、洋画壇切つて変人扱いされてきた川村清雄さん

『読売新聞』1923年(大正12年)1月13日、朝刊5頁。



いまの洋画家中で年齢が一番多く明治の中頃から奇人として評判の高い川村清雄翁

『読売新聞』1923年(大正12年)1月14日、朝刊4頁。


読売新聞の記者さん、この書き出しはひどいですね(笑)。しかし記事本文を読むと、これは悪意ではなく、親しみをもって記していることが分かります。感心しない人物であれば、記事にもならなかったことでしょう。

とはいえ、いったいどのような点で「奇人」「変人」だったのか。

川村清雄の人となりについて、生前の川村清雄に取材して伝記を書いた木村駿吉は『稿本』冒頭に次のように記しています。


本邦油畫家の元老でありながら、毎年の帝展にも其作品の現はれたことなく、進んで買手を求めずして、買主の方が懇願してその畫が手に入るのを特典の様に心得る。
數萬の蓄財莫大の収入があり得るのだが、それを顧みないで今日までも平氣で貧困に甘んじ
學閥黨派阿諛中傷の外に超然としてゐても、彼の作品を所持するものは家寶国寶として珍重し、油の少しも乾かない中から争て持て行く。
日本の畫界は謂れなく除けものにしてゐるが、一日として筆を執り想を練らぬことなく、世界美術史の何枚かを書きつゝある。
佛國現代畫の模倣畫家からは舊式と云はれながら、その實知己を将来に持ちつゝ、單身四十余年も新美術の軌範を示し、青年時代から艶福に富ながら、老境に入て枯淡の生活に甘んじ、づぼら、ふしだらと云はれながら、飽くまで藝術には忠実細心な人、畫そのものを生命として、大正の今日昔の名人氣質[かたぎ]、五十年間他人の利慾の為に使役されて少しも怨嗟の聲を立てず、幼少より日本畫と西洋畫を充分に学んだ上で、東西の長所を取合せて傑出した一家をなし、空前絶後の名人だろうとまで云はれる人は、川村淸雄とて今年七十六歳の老翁で、頭顱[とうろ]のつるつる光つた竒麗な上品で悠揚[ゆうよう]として欲氣のない鼻筋の通つた色白の好男子である。……

木村駿吉『川村清雄 稿本 作品と其人物』、1〜2頁。


画家たちの称賛悪口などが抜き書きされている『当世画家評判記』という本には、次のように書かれています。


河村清雄

[同情家]この人は近年酒を以て生命として居る、随分人をして眉をひそめしむる所業[しわざ]がある。尤もこれには氣の毒な原因もあるとださうな。

春蘭道人, 秋菊道人 編『当世画家評判記』文禄堂, 1903年、132-133頁。[※「川村」はしばしば「河村」とも表記される。]


文献をつらつらと眺めていると、川村清雄が「奇人」「変人」である理由として、酒豪、貧窮、遅筆といった点が挙げられそうです。当時の洋画壇に背を向け距離を置いていたこともこれに付け加えられるでしょうか。
以下ではこうしたエピソードを抜き書きしようと思います。

※この稿つづく。随時加筆修正の予定あり。

2013年1月4日金曜日

川村清雄ノオト 01

昨秋、江戸東京博物館と目黒区美術館の2館で画家川村清雄の展覧会が開かれました。

正直に告白すると、川村清雄についてはそれまでまったく知識がありませんでした。展覧会を知ったのも行く気になったのも、目黒区美術館での展覧会のポスター・チラシ・図録等のデザインを手がけたのが中野デザイン事務所さんだったから、です。

江戸東京博物館に行ったのは最終日1日前の12月1日、目黒区美術館には最終日の12月16日、というあたりに、当初の私の関心の薄さが見えますね。


江戸東京博物館 開館20周年記念特別展
維新の洋画家 川村清雄

2012年10月8日~12月2日
江戸東京博物館 1階展示室
(静岡県立美術館へ巡回:2013年2月9日〜3月27日)


江戸東京博物館での展示は、川村の出自からその生涯を辿るとともに、代表作が一堂に展示される充実したものでした。綿密な研究の成果です。

しかしながら、またまた正直を申しますと、江戸東京博物館での展覧会にはピンと来ませんでした。川村清雄の作品は油彩なのですが、そのモチーフ、構図の多くは日本画のもの。そればかりか、絵が描かれたカンバスも、木の板や、漆の盆、絹本。「明治期の洋画」として見知ったものとは明らかに異なっています。なぜそんなものを描くのか。それなら日本画で良いではないか、というのが、このときの印象でした。

しかし、目黒区美術館展を見て、少々印象が変わりました。


ここには川村の装幀の仕事が多数出品されておりました。小さな画面、限られた色彩、優れた構成力。俄然、この画家についての興味がかき立てられたのです。

で、川村清雄についてちょっと調べてみると、恋愛とか、遅筆とか、貧窮とか、酒好きみとか……、作品の外でもなかなかに魅力的な人物。そして人物を知るにつれ、川村清雄の作品に対する評価も変わってきました。もちろん、良いほうに、です。

今回の展覧会や、川村清雄の作品、生涯についてはあちらこちらに書かれておりますし、展覧会図録の他に研究書も刊行されておりますので、いまさら私が付け加えるべきことはありません。とくに読み易い伝記としては、林えり子『福澤諭吉を描いた絵師 : 川村清雄伝』(慶応義塾大学出版会、2000年)があります。

ただ、古い新聞の記事を検索してみると、川村清雄の人となりを伝える興味深い記述がいくつか見受けられました。その中には、これまでの文献でも直接に言及されていないものもありました。ですので、そのあたりをアットランダムに書き出しておけば、いずれどなたかの役に立つのではと思うわけです。

ということで、これから数回、川村清雄についてのメモランダムをここに記していきます。

川村清雄略歴

川村清雄の略歴については、目黒区美術館の記述から引用。


川村清雄(1852・嘉永5 ~ 1934・昭和9 年)は、江戸、明治、大正、昭和を生き、明治以降もっとも早い時期に海外で学んだ画家です。徳川家の給費生として津田梅子らとアメリカに留学し、のちに渡ったイタリアではベネチア美術学校で本格的な西洋画を学びます。西洋画の卓越した技術を持ちながら、日本の絵画を研究、絹本に金箔下地に油彩で、歴史や故事などのテーマを描き、その異彩を放つ画風で注目を集めました。勝海舟や小笠原長生などの支援を受けながらも、時代から孤立ししばらく人々の記憶から遠ざかっていました……


その作風は、


(左)《勝海舟江戸城開城図》(1885)、江戸東京博物館蔵
(右)《形見の直垂》(1899以降)、東京国立博物館蔵
いずれも江戸東京博物館に出品。


《梅に雀》(大正〜昭和初期)。目黒区美術館に出品。


《鸚鵡》(大正〜昭和初期)。目黒区美術館に出品。

※ 画像はいずれもチラシから。

参考文献

この年末年始に眼を通した文献を挙げておきます。

木村駿吉『川村清雄 : 稿本作品と其人物』私家本、1926年(川村清雄に取材し、生前刊行された伝記。リンク先は国立国会図書館近代デジタルライブラリー)。
川村清雄「洋画上の閲歴」、伊原青々園、後藤宙外編 『唾玉集』春陽堂、1906年。(川村清雄へのインタビュー。平凡社東洋文庫版(1995)あり。同文は『川村清雄研究』にも再録されています)
和田垣謙三『兎糞録』至誠堂、1913年(リンク先は国立国会図書館近代デジタルライブラリー)。
▼ 和田垣謙三『吐雲録』至誠堂、1914年。
和田垣謙三『意外録』南北社出版部、1918年(リンク先は国立国会図書館近代デジタルライブラリー)。
※ 和田垣謙三については、追って記す予定です。
▼ 関如来「淪落の二大天才 河村清雄と小倉惣次郎」『読売新聞』、1910年(20回連載評論)。

高階秀爾、三輪英夫 編『川村清雄研究』中央公論美術出版、1994年。(優れた研究書。ただし刊行後に明らかになった事実もあるので、江戸博の展覧会図録などと合わせて読む必要があります。)
林えり子『福澤諭吉を描いた絵師 : 川村清雄伝』慶応義塾大学出版会、2000年。(川村清雄の生涯を追った評伝。読みやすい。考証は確りしていると思われます。)
▼ 目黒区美術館『「川村清雄」を知っていますか? : 初公開・加島コレクション』展覧会図録、2005年。
山口晃『ヘンな日本美術史』祥伝社、2012年。(最終章で川村清雄が取り上げられています)
高階絵里加「フランスへ渡った日本 - 川村清雄の 《建国》 について - 」『京都大学人文科学研究所人文学報』2003年12月。(PDFファイルをダウンロードできます)

▼ 江戸東京博物館『維新の洋画家 川村清雄』展覧会図録、2012年。
▼ 目黒区美術館『もうひとつの川村清雄』展覧会図録、2012年。

さらに詳しい文献を知りたい方は、上に挙げた『川村清雄研究』の巻末、および村上敬「川村清雄をより知りたい方のための読書案内」(『維新の洋画家 川村清雄』、212-217頁)をご参照ください。後者には文献の内容についての簡単な紹介も付されていて、とても役に立ちます。

有用な展覧会レビュー

たくさんあるうちの、ほんの一部。

「川村清雄」展と「もうひとつの川村清雄展」 和洋折衷超えた深み :日本経済新聞(2012/10/24付)
『維新の洋画家 川村清雄』展@東京都江戸東京博物館【展覧会紹介】 | コラム・紹介記事(2012年11月28日)

※この稿つづく。随時加筆修正の予定あり。

2013年1月3日木曜日

公園遊具:墨田区・横川一丁目こども広場の砂場

錦糸町駅と押上駅を結んだ線上にあると申しましょうか。「こども広場」というにはなんとも小さい、住宅1軒分の小さな敷地の公園です。


| yokokawa 1 | jan. 2013 |

存在するのは妙な形状の砂場とベンチだけ。
手洗い場すらありません。
ここで遊ぶ子供は居るのか知らん。


| yokokawa 1 | jan. 2013 |

砂場の枠が一部欠けていて、補修されているのは右側に配電盤(?)が設置されたためでしょう。


| yokokawa 1 | jan. 2013 |

「これだけですか公園」と名付けたい。


「これだけですか公園」。



公園遊具:川崎市多摩区宿河原2丁目



❖ ❖ ❖

「横川一丁目こども広場」の前の通りはスカイツリーへの一本道。
記念撮影をする人たちの姿は見受けられますが、この公園に気がつく人はいないようです。


| yokokawa 1 | jan. 2013 |

2013年1月2日水曜日

東京都庭園美術館ウィンターガーデンの蛇口



東京都庭園美術館3階、ウィンターガーデンの蛇口を年賀状のモチーフにしてみました。


蛇口の下には素敵な排水溝の蓋もあります。



東京都庭園美術館:アール・デコの館



そもそもこれが何で「蛇の口」と呼ばれているのかというと……



蛇体鉄柱式共用栓
明治時代から大正時代頃まで使われていた共用栓です。水の出口が竜を型どっています。「蛇体鉄柱式共用栓[じゃたいてっちゅうしききょうようせん]」と呼ばれ、後の水道の「蛇口」の語源となったものです。

東京都水道歴史館の解説板より


なんだ、蛇じゃなくて竜ではありませんか。

でもこれ、どうやって水を出すのでしょうね。

❖ ❖ ❖

松濤美術館バージョンも作ったのですが、あの素敵な蛇口がよく見えないのでボツ。



あの、素敵な。



白井晟一:松濤美術館 01




2013年1月1日火曜日

迎春 2013


| tamagawa | 1 jan. 2013 |

本年もよろしくお願い申し上げます。


| tamagawa | 1 jan. 2013 |


| tamagawa | 1 jan. 2013 |


| tamagawa | 1 jan. 2013 |


| tamagawa | 1 jan. 2013 |