2009年12月30日水曜日

看板二題

乙女チック*。

手水のつかいかた
| koshigoe | dec. 2009 |

ライオン、なのか? ライオン、なのだろう。

ライオンに注意
| koshigoe | dec. 2009 |

いずれも腰越、小動(こゆるぎ)神社にて。

* 全国各地の神社で目撃されている有名な説明パネルのようですね。「手水のつかいかた」で検索。

木になるねこ


| enoshima | dec. 2009 |

標題の通り。

2009年12月25日金曜日

クリスマス電球の歴史 03


骨董店で見せてもらつたハガキ。12月ということもあつて、アンティークフェアの案内はクリスマス電球がモチーフ。この業界ではポピュラーな商品のようですね。


* * *

『月刊中小企業』vol. 10, 11、昭和33年(1958年)11月(17-19頁)より。

わが国のクリスマス電球が電球工業の一部門として特に輸出面の基盤を持つようになつたのは、第一次大戦の影響で急激な輸出を行なつたことに始まる。昭和一一年には一億一千万個の輸出をするまでに至つた。しかし、第二次大戦の勃発で生産量の九〇%までを輸出に依存していた斯業は、国内向一般電球の製造に切り換えざるを余儀なくされたが、戦後の貿易再開により最近は……戦前の最高時をもしのぐ実績となつている。
……
アメリカで一年にクリスマス電球を使用する個数は一二億個といわれ、このうち大体三分の一が新規に購入されるものと一般に考えられている。……[昭和]三二年度の輸出数量から見ると、この需要の半分を日本製品が占めていることとなる。これらの日本製品は、アメリカにおいてすべて組み立て工場に廻され、ここでコード附のソケットにとりつけられ、セットされたものが、クリスマスの三、四週間前にスーパーマーケット、ドラッグストーア等から小売りされるのである。
……
設備面では、さしたるものを要せず、ある程度の技術経験を有すればメーカーとして独立できるだけに、乱立したメーカーにより安売りされる結果となつたが、アメリカでは大メーカーが技術的にも、特に意匠について真剣に研究を行なつており、毎年新意匠のものの売出に懸命になつている。従つて、市場価格も日本製品とは異り高値で取引されており、わが国でも一日も早く単にバイヤーによる注文に基く製造でなく、日本独自の製品を国際市場に送り出すことが必要である。
……
アメリカでクリスマス電球が本格的に販売されだしたのは、一九〇三年頃といわれ、当時の製品は、鳥、サンタクロース等の形状を模造したものが大部分を占めていた。……最近(一九五六年)においては、バイメタルを電球に取付けた三五個の直列の豆粒程度の点滅電球(ペッパーランプ)が考案され、この新品種の需要が増加されつつあり、わが国でも現在では、未だ調整規程の対象品目および輸出品検査法の対象品目にはなつておらないが、相当量製造されており、今後の生産量は伸びる見通しを持つている。このような新品種の考案を日本独自のチカラで行い新需要の開拓を斯業が行うことを期待するものである。

ちなみに、「ペッパーランプ」とは


『日本電球工業史』1963年、297頁。



わが家のクリスマス電球のスペア用。いまでもふつうに使われていますよね。

* * *

日本のクリスマス電球工業については、筑波大学の平沢照雄教授が日本での事情に加え、北米での需要、流通などについても詳しく調べておられます。
平沢照雄「戦後日本におけるクリスマス電球工業の展開と輸出規制」、橘川武郎 研究代表『規制の経済史的研究 : 産業発展をめぐる企業と政府』2008年3月、118-149頁。

2009年12月24日木曜日

横浜ベイクォーターのクリスマスツリー


| yokohama | dec. 2009 |

横浜ベイクォーターのクリスマスツリー。大きな樅の木の下には、明かりの灯った小さな家々。


| yokohama | dec. 2009 |


| yokohama | dec. 2009 |

派手なイルミネーションが流行のなか、とても渋い演出。

2009年12月22日火曜日

クリスマス電球の歴史 02


| aoyama | dec. 2009 |

米国向けクリスマス電球の話の続き。


クリスマス電球が品川の地場産業であったというなら、品川に行ってみよう。というわけで品川歴史館まで自転車をとばして行ってきた。


が、残念なことに展示は江戸時代の品川宿の歴史が中心。近現代のコーナーにもクリスマス電球の展示はなかったが、解説用シートが用意されていた(「品川歴史館解説シート No. 19」。歴史館のサイトにも掲載されていた……→こちら)。関連する部分を抜粋(※特に表記のない引用はこの解説シートから)。

それによれば品川地域には最初に一般家庭用電球の工場ができ、その周辺に小規模な豆電球製造業者が誕生。

一般家庭用電球はマツダランプ=東京電気が独占的でしたが、小型電球とくに豆電球は設備が小規模でできるため、明治末から大正にかけて、豆電球製造業者が品川・大井・大崎やその隣の芝区(現在、港区)に続々と誕生しました。

昭和8年(1933年)の電球工場関係のニュース。



電球女工の服毒自殺 「娘十六」に刺激されて
四日午前六時半ごろ品川區北品川二ノ一〇三豆電球製造工場××方裏手便所から呻めき聲がきこえるので主人××が覗いてみると同家の住込女工山形縣生れ××が苦悶してゐるのを発見、最初は様子が癲癇[てんかん]らしいのでその手當を加えてゐるうち間もなく絶命した

『読売新聞』1933年09月05日、夕刊、2頁。

なお、電球工業は作業が比較的容易であるために女子従業員の数が多く、後述する『輸出雑貨工業論』によれば、昭和12年(1937年)の工業統計表では電球工業労働者のうち55.6パーセントまでが女工によって占められていたという(『輸出雑貨工業論』、242頁)。

そしてクリスマス電球製造はこの豆電球製造から派生したようだ。

豆電球は第一次世界大戦(1914~1918)以後、欧米諸国に懐中電灯用として大量に輸出されました。クリスマスツリー用電球も「ラッキョウ」とよばれ、アメリカ向けに輸出され、特に果物、花、人形などを形どった、変形電球(ファンシーランプ)の輸出のはじまりでした。

クリスマスツリー用電球の輸出が本格化するのは、戦後。



『読売新聞』1948年11月21日、朝刊、2頁。

太平洋戦争で工場や機械を失ったところもありましたが、戦後の復興は早く、昭和21年(1946)には、クリスマスツリー用電球の輸出が始まりました。翌年には、実に400万個の輸出が行われたのです。

クリスマスツリー用電球輸出の推移(下表)を見ると、戦後に輸出が再開されて、昭和35年には3億個、昭和41年には4億個をこして最高を記録しています。46年以降は年々減少していったのがわかります。この中で、品川区内の工場での生産量の占める割合は、80%で日本一の生産量を誇っていました。



このクリスマス電球の最大の輸出先が北米地域(アメリカおよびカナダ)であり、昭和40年代前半まで、日本の電球輸出全体を牽引していた。昭和38年には北米向け輸出に占めるクリスマス電球の比率は84%、昭和41年でも79%であった(下図参照。なお、上の図は数量、下の図は金額である)。


『日本電球工業史(追補:1963~1972年)』、34頁。

そもそもこの種の電球を組込んだセットをクリスマスツリーの装飾に、国中の家庭で毎年使うのが北米の特有の習慣であることが、他市場への輸出の少なさからもうかがわれる。(同、38頁)


当初米国では電球を輸入して、これをコードに接続加工して販売するのが一般的だったが、その後「セット」にしての輸出が中心となっていったようだ。下の新聞記事(昭和40年/1965年)の写真はセットの箱詰め作業の様子である。



海外から大口注文 強気のクリスマス電球
○…“きびしい不況の風”をよそに、このところクリスマス電球メーカーは、海外からの注文急増で“数量景気”にわいている。ことしの三月ごろから、一万セット―十万セット単位の大口注文がぞくぞくと舞いこみはじめ「この調子だと八時までの残業生産を続けても、品不足になりそう」とうれしい悲鳴も聞かれる。

『読売新聞』1965年7月27日、朝刊、5頁。

残念ながら、この翌年、昭和41年(1966年)をピークに、日本のクリスマス電球輸出は衰退してゆく。

* * *

ちなみに、豆電球製造用の機械は下の図ようなもの。小規模な作業場で製造が行えたであろうことが推察される。どの程度の生産性だったのだろうか。


『品川歴史館特別展 鎌倉武士西に走り、トランジスタ海を渡る』図録(2002年10月)、49頁。

戦前の例であるが、『輸出雑貨工業論』(有斐閣、1942年)によれば、

我國電球工業に於て、製造工程の全段階に亙つて機械化してゐるものは、大工業に屬する極めて少數の工場に限られ、その他の業者にありては、家庭電球に於ても、封じ及び排氣の二工程を除けば、手工作業によつてゐるものが多く、しかも簡單な半自動式封じ機一臺を以て日産三、〇〇〇個乃至四、〇〇〇個を製造してゐるが、就中、トンガリ球、豆電球等の小型電球に於ては、設備としては僅にガス設備を有するのみで、しかも優秀なる機械よりも高い能力を舉げてゐる。

瀧谷善一 編『輸出雑貨工業論』有斐閣、1942年11月、242頁。

また、同書によればその規模は、

家族從業員を主體とする極小工業者であるが、これ等の極小工業は利潤の追求を目的とする企業の域に達するには未だ甚だ遠く、家族の最低生活費の収入を目的とする一の生業に過ぎないものである……

『輸出雑貨工業論』、242頁。

* * *

で、クリスマス電球デザインの変遷については、よく分からない。もう少し調べてみたいが、その頃にはきっとクリスマスは過ぎているにちがいない。


『品川歴史館特別展 鎌倉武士西に走り、トランジスタ海を渡る』図録(2002年10月)、50頁。

* * *

余談であるが、「品川駅」は「品川区」ではなく「港区」にある。京浜急行の「北品川」駅は、品川駅よりも「南」にある。旧品川宿は、目黒川河口を挟んで北が「北品川宿」、南が「南品川宿」と分かれていて、現在でもその名を地名に残している。北品川駅の名称はこの地名に由来していることになる。ということが、品川歴史館を訪ねて分かりました。

2009年12月21日月曜日

戸板関子:家庭顧問(4)

戸板学園創設者、戸板関子女史による読売新聞のなんでも相談コラム「家庭顧問」。今日も戸板先生の快答は冴え渡る。

紙面の都合なのか、先生の性格なのか、しばしばとてもぶっきらぼうな回答があってとても面白い。


『読売新聞』1920年11月4日朝刊04面、家庭顧問:戸板關子

1920年11月4日
【問】白麻布に汗の為黒い色が移りましたのは何で洗つたら落とすことが出来ますか(伺女)
【答】お尋ねのやうな汚點は素人にはとても抜けません


『読売新聞』1920年11月4日朝刊04面、家庭顧問:戸板關子

1921年1月26日
【問】象牙製の煙管や櫛などが、やにや油じみて變色したのを以前の通りにするには如何したらよいでせう(あさ子)
【答】褐色に色附くのが象牙の性質で御座いますからいたしかた御座いません

1922年9月5日
【問】フライや天麩羅を造る時にメリケン粉は粉の儘まぶしますか水に溶いて包みますか
【答】メリケン粉は卵を以て溶く


『読売新聞』1922年09月21日朝刊04面、家庭顧問:戸板關子

1922年9月21日
【問】セルロイドの切れたのを修繕する方法をお知らせ下さい(S生)
【答】不可能であります

戸板関子:家庭顧問
01:http://tokyopasserby.blogspot.com/2009/10/blog-post_08.html
02:http://tokyopasserby.blogspot.com/2009/10/2_26.html
03:http://tokyopasserby.blogspot.com/2009/11/3.html

2009年12月20日日曜日

クリスマス電球の歴史 01


| aoyama | dec. 2000 |

毎年この時期、青山にある骨董屋さんのクリスマスツリーにこの電球が飾られている。たぬきである。しかも着物を着ていて、しかも琵琶を抱えている。むこうにサンタクロースがいなければ、なんなのか分からないかもしれない。

これはアメリカ輸出用に作られた日本製のクリスマス電球である。お店の方の話では、1940年代のものだそうだ。とはいえ、戦前なのか戦後なのか、40年代ではよく分からない。すこし調べてみようと思ったのだが、うっかりするとクリスマスが終わってしまうので、さしあたり『日本電球工業史』(日本電球工業会、1963年11月)から、覚え書きを少しばかり。

クリスマスツリー用電球とは、クリスマスツリーの装飾照明に使用されるものであって、わが国では大正5年(1916年)第1次大戦の影響を受けて、従来米国においてのみ生産されていたクリスマスツリー用電球の試作注文がわが国に対して行なわれたのを契機として、その生産が開始されたものである。(『日本電球工業史』293頁。)

当初作られていたものは桃やリンゴなどの果物をかたどったものバラやチューリップなどの花をかたどったものが主であったが、戦後になってファンシーランプ(変形電球)が主流となる。

ファンシーランプとは……

大別して透明ガラスおよびオパールガラスの2種に分かれ、人物(主としてサンタクロース)花、鳥、動物、果物、ランタン、家形その他西洋の童話、伝説等に取材した幻想的意匠を主とし、その数は100種類以上にわたっている。
またオパールのものの受容が漸次圧倒的に多くなり、昭和24年(1949年)にはこの品種のものがクリスマスツリー用電球の総輸出量の半ば近くを占めた。
……
上記のファンシーランプ(変形電球)はいずれも毎個塗装を手作業で行ない、量産には向かないが、少量多品種の生産が可能であり、海外ことに主要需要国たる米国において競合関係がほとんどなく、わが国独自の製品としてきわめて有利な地歩を占めていたが、年々新規意匠の開発が追随しえず、ために輸出量が次第に減少しつつあるのはきわめて遺憾なことといわざるをえない。
……
なおこのほか上記各品種を通じて、バイメタルによる点滅装置を内蔵したいわゆる「点滅球」と称するものも戦前より作られていたが、戦後急速にその需要が増加した。(『日本電球工業史』295-6頁。)


『日本電球工業史』1963年、296頁。

* * *

着物を着た狸だったり、提灯だったり。アメリカ人は日本から輸入されたこのような電飾をどのように感じたのだろうか。

アメリカのアンティーク関係のサイトを見てみると、たとえば提灯は「Chinese Lanterns Milk Glass Christmas Light Bulbs(中国の提灯、乳白ガラス製クリスマス電球)」とか、上のタヌキは「depicts a cat playing a mandolin, or a banjo(マンドリンもしくはバンジョーを弾く猫を描いたもの)」であったり、同じものを「ライオン」や「犬」としているサイトもある。なぞの動物だったわけですね。

* * *




輸出はふえたが深刻な人手不足
クリスマスの豆電球
○…アメリカのクリスマスを飾る豆電球は、その半分近くが日本製。この月いっぱいの出荷分で今年のシーズンは終わるので、輸出の大半をまかなっている東京・品川地区の業者はいま最後の追い込みにかかっている。
○…日本輸出クリスマス電球工業組合の話では、今年は輸出数量も増え、単価も上がったため、輸出額は去年の三割増、四十億円くらいになりそうだという。だが、業界の表情も必ずしも明るくない。まず人手不足。三十三年には従業員が百人いたというある大手工場では、のべつに新聞広告をし、去年は一日二百八十円だった初任給を三百三十円にしたが、それでも人があつまらず、現在四十人を割ってしまったという。
○…材料費もこのところ急に値上がりして、輸出価格はさらに上がる傾向。ところが米市場で日本製品を巻き返そうと、GE(ゼネラル・エレクトリック)社が最近値下げしたため、このところバイヤーからの買いたたきもはげしさをましていきている。

『朝日新聞』1961年10月04日、朝刊、04頁。

日本の米国向けクリスマス電球の生産は昭和40年(1965年)頃がピークだったようだ。そして、その生産の中心地だったのが、品川である。



……東京都の品川を中心にした大田、目黒の城南三区は、クリスマス電球の大きな産地だが、自宅の一部を改造して仕事場にしている、という零細企業が多い。その生産の九割は米国向け。……
……数年前は米国で使われるもののうち九〇%はわが国からの輸出だったが、昨年には、この[台湾、韓国の]激しい売り込みで一〇%台に落ちている。

『朝日新聞』1973年02月28日、朝刊、08頁。

この項つづく。


参考
エジソンの陰謀!? クリスマス・イルミネーションの奇妙な歴史(動画あり) / Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン), ガジェット情報満載ブログ
http://www.gizmodo.jp/2009/12/post_6516.html

アメリカ向け製品なので、当然アメリカにもコレクターがいる。
My old Christmas ornaments « Rubell’s Antiques
http://rubell.wordpress.com/2008/12/02/my-old-christmas-ornaments/

2009年12月15日火曜日

ニューオータニ美術館:野口久光の世界





生誕100年記念
グラフィックデザイナー 野口久光の世界
香りたつフランス映画ポスター

ニューオータニ美術館(紀尾井町)
2009年11月28日~12月27日

ニューオータニ美術館は地味に良い展覧会を開きますね。

野口久光氏は1933年に東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業後、東和商事に入社。フランス映画を中心とした多数の映画ポスターを手掛けられました。今回の展覧会には1000点にもおよぶという作品の中から約60点のポスターとその他の資料が展示されています。

私は映画は殆ど見ないので、ポスターの内容について語るものはなにもないのですが、ポスターそのものはじつにすばらしい。このような表現が適切かどうか分からないのですが、野口氏は本当に絵がうまい。

だいたい2週間ほどの制作期間が与えられたそうですが、実際にはタイトルが決まらない、変更になるなど、1週間ほどで描かなくてはならかったとのこと。時間を節約するために活字を使わず、タイトルばかりか、監督や出演者名など細かい部分までをも描き文字で処理! それがまたよいのです。

展示は印刷されたポスターでしたが、「旅情」(1964年)のみ原画とポスターが並べられていました。印刷物では上部に1行のみ活字が追加されていますが、それ以外は、絵も描き文字も1枚の紙の上に完結しています。すばらしい構成力。この原画に至るまでにどのようなスケッチを描いていたのか、知りたいところです。

もうひとつ見るべきものは、野口氏の「若き日の映画ノート」です。展示されていたのは1928年と1933-34年のものでしたが、洋画のタイトル、監督、配役などが細かい文字(すべて欧文)で書かれたノートです。とくにタイトルにはひとつひとつ異なる装飾文字が用いられています。ノートというその構造上、見開いたページしか見ることができないのがとても残念です(図録に掲載されているのも見開き4ページ分のみ)。

* * *

野口久光氏以前の洋画ポスターはどのようなものであったのか、メモ。

それまでの映画のポスターは江戸時代からの広告媒体である「引札」や「役者絵」の流れを踏襲したようなものが多く、絵も描かれている人物の表情もタイトル文字も色調がどぎつく、ポスターの構図も作品の内容が異なっていても一定のお約束事のなかで処理され、パターン化されていた。……
そんな時代に、的確なデッサン力に裏打ちされ、表現力も豊かで、色彩感覚もヨーロッパ調の洗練された絵と、流麗でなおかつ作品ごとに異なった書き文字のレタリングで表された野口作品は、極めて異彩を放つものだった。

根本隆一郎「映画ポスター・デザイナー 野口久光」(展覧会図録、78頁)。

展覧会図録。



根本隆一郎『野口久光展図録』開発社、2009年12月。
Amazon.co.jpに掲載されていますが、残念ながら「この本は現在お取り扱いできません。」だそうです(2009.12.15現在)。

ところで、図録には会場に掲げられた解説文はすべて収録して欲しいと思います。メモする時間がなくて図録を買うこともあるのですから。

2009年12月12日土曜日

信号機のある風景 04:
GKデザイン 西新宿サインリング

西新宿サインリング
| nishi-shinjuku | dec. 2009|

新宿のこのあたりに来ることはあまりないのですが、秋田道夫氏の信号機の展覧会を見て以来信号機に目がいくようになってしまった私。近くに行ったついでに見てきました、GKデザインの西新宿「サインリング」。

googleで検索すると「もしかして: サイクリング」と表示されます(笑)。リストされるサイトもほとんど「サイクリング」関係。

どうやら、「サインリング」という単語が市民権を得たようで、この場所に関する記述がヒットするようになりました(2013.2)。

西新宿サインリング
| nishi-shinjuku | dec. 2009|

で、「サインリング」。「新宿警察署裏交差点」に設置されています。

非常に重たそうな信号機がいくつも附いています。十字路なのに妙にいくつも信号機が附いていて、運転手は自分が見るべき信号がどれなのか迷わないのでしょうか。

| nishi-shinjuku | dec. 2009|

輪の内側に入ると、すこし不思議な感覚になります。

西新宿サインリング
| nishi-shinjuku | dec. 2009|

そうですね、自分の眼が魚眼レンズになったような感覚でしょうか。頭の中の知識、経験は、信号機の支柱は直線であると教えているのですが、眼に映る光景はサークル状。

「常識」に基づいた経験と感覚を破壊するということは、じつはこの「サインリング」はアヴァンギャルドな構造物なのかもしれません。


大きな地図で見る

上空から見ると、まるで写真の上に丸くマークしたように見えます。


2009年12月8日火曜日

公園遊具:上落合西公園の船

船の形をした台座に3つの滑り台。


| ochiai | dec. 2009|

周囲の構造物は波を模しているのだろうか。


| ochiai | dec. 2009|


| ochiai | dec. 2009|


| ochiai | dec. 2009|

砂の海にはちいさなボートが浮かんでいる。


| ochiai | dec. 2009|


| ochiai | dec. 2009|

水飲み場はピンク色。


| ochiai | dec. 2009|


大きな地図で見る

* * *

中央環状新宿線・上落合の換気塔。夕暮れどきに巨大な存在感。


| ochiai | dec. 2009|

汐留ミュージアム:ウィリアム・ド・モーガン展



ウィリアム・ド・モーガン 艶と色彩-19世紀タイルアートの巨匠-
2009年10月17日(土)~12月20日(日)
パナソニック電工 汐留ミュージアム
http://panasonic-denko.co.jp/corp/museum/

今回の展覧会は、図録冒頭に「日本ではこれまで殆ど紹介されることのなかった」(図録3頁)とあるように、ド・モーガン紹介編と言うべき構成。ド・モーガン制作のタイルの展示を中心に、内容は多岐にわたっていた。

よかったのは、最後の「室内装飾のタイル」のうち、タイルパネルの展示である。他のコーナーは基本的にそれぞれのタイル1枚ずつの展示であったが、タイルパネルは一つの主題を複数のタイルで絵画的に構成したものである。どうしても個々のタイルから全体像を想像するのが困難であったのに対して、タイルパネルはそれ自体で完結しているので分かりやすかったのだ。

【メモ】
  • ウィリアム・ド・モーガン(William Frend De Murugan, 1839-1917)は、イギリスの数学者・論理学者*オーガスタス・ド・モーガン(Augustus De Morgan, 1806-1871)の息子。(* 展覧会図録8頁には「倫理学者」とあるが、wikipediaには「logician(論理学者)」とある。おそらく図録の入力ミス。)
    http://en.wikipedia.org/wiki/Augustus_De_Morgan
  • 妻イヴリン(Evelyn De Morgan, 1855-1919)は、ラファエル前派の画家。母方の伯父でありイヴリンの絵の教師でもあったジョン・ロッダム・スペンサー・スタナップ(John Roddam Spencer Stanhope, 1829-1908)もラファエル前派第二世代の画家とされる。
    http://en.wikipedia.org/wiki/Evelyn_De_Morgan
    http://en.wikipedia.org/wiki/John_Roddam_Spencer_Stanhope
  • ウィリアム・モリス(1834-1896)との出会いは1863年。ステンドグラス作家ヘンリー・ホリデー(Henry Holiday, 1839-1927)の紹介。モリス、ホリデー、エドワード・バーン・ジョーンズ(Edward Burne-Jones, 1833-1898)との交友は生涯続いた。
    http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Holiday
  • ウィリアム・ド・モーガンとイヴリンは1887年に結婚。ウィリアム48歳、イヴリン32歳のときか。年齢差16歳。
  • ラスター彩再発見のための実験により、財政的には破綻状態に。
    http://www.screenonline.org.uk/tv/id/1284993/index.html
  • 1900年頃になると、ド・モーガンのスタイルは時代遅れに。作品は賞賛されたが、彼に多くの収入をもたらすことはなかった。
    http://www.demorgan.org.uk/biogs/will_dm.htm
  • 65歳で小説を書き始めて5冊がベストセラーになり、ド・モーガン夫妻の老後の財政を助けた。
    http://www.demorgan.org.uk/biogs/will_dm.htm 
  • この展覧会に出品されているコレクションは、ド・モーガンの妻イヴリンの妹、ウィルヘルミナ・スターリング(Wilhelmina Stirling, 1865-1965)の蒐集品。スターリングは姉と義兄の作品の収集に努め、彼女の死後、1969年にド・モーガン財団が設立される。このコレクションを展示する施設は2002年になってようやくウェスト・ロンドンに開設された(ただし、同館サイトによると現在移転のため休館中)。
    http://www.demorgan.org.uk/
* * *

図録に掲載されている吉村典子氏の小論「ウィリアム・ド・モーガンと『アーツ・アンド・クラフツ』」(図録、68-72頁)が良い。

誰がド・モーガンのタイルを買ったのか。

ド・モーガンのタイルをふんだんに使って住宅を完成させた百貨店経営者アーネスト・デベナム(Ernest Debenham, 1865-1952)もその一人[=イスラム趣味の蒐集家]である。……
レイトン、デベナムのような本物志向のオリエンタリストたちを満足させたのが、ド・モーガンのタイルだったのである。……
これらの住宅の施主は、巨万の富を得た産業資本家たちである。こうした住宅が建てられた1870-80年代は、ド・モーガンのタイルが、他のどのメーカーよりも高価であった時代である。ド・モーガンのタイルは、趣味や表現とともに、こうした時代の『富』とも結びつくものであった。

吉村典子「ウィリアム・ド・モーガンと『アーツ・アンド・クラフツ』」(展覧会図録、70-71頁)

ウィリアム・モリスと生涯にわたって親交があり、一時期はモリスと工房を並べて制作を行っていたと言うが、ド・モーガンの製品は、いわゆる「アーツ・アンド・クラフツ」のものであったのか。

「田舎家風の素朴さを洗練さとして取り入れた『アーツ・アンド・クラフツ』の建築と、ド・モーガン・タイルの主張性のある文様や艶やかな色の世界は異質のものであったのである。……
このように、ド・モーガンの制作をめぐる動きやその作品は、『アーツ・アンド・クラフツ』であって『アーツ・アンド・クラフツ』でないのである。

吉村典子「ウィリアム・ド・モーガンと『アーツ・アンド・クラフツ』」(展覧会図録、72頁)

展覧会図録。





* * *

ド・モーガン展を見終えて外に出ると、もう外は暗くなり、イルミネーションが点灯していました。

この日はだいぶん荒れ模様の天気でしたが、大きなカメラを持った人たちもたくさん。濡れた地面に映る光もまた美しく、雨の日も悪くありません。とはいえ、この辺りは時折強いビル風が吹き、折りたたみ傘がひっくり返ってしまったりもしましたが。


| shiodome | dec. 2009 |


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