2010年1月31日日曜日

水飲み場:下丸子二丁目先


| tamagawa | jan. 2010 |

早朝の多摩川河川敷。古い水飲みの向こうに、沈みゆく満月。


| tamagawa | jan. 2010 |

二段になった水飲みの排水はいずれも本体の内部を通り、下の水受けに出る構造。水飲みの排水は外部に溝を切るものが多いので、これは珍しい。


| tamagawa | jan. 2010 |

白菜の切れ端は、このあたりの生活者の痕跡。

水受けに残った水が少しずつ排水溝に滴り、まるで水琴窟のように澄んだ響きを奏でていた。

2010年1月30日土曜日

公園遊具:大師橋児童公園のベンチ


| honhaneda 3 | jan. 2010 |

砂場で遊ぶ子供を見守るベンチ。


| honhaneda 3 | jan. 2010 |

パンダはわかる。しかし、これ↓は何だ?


| honhaneda 3 | jan. 2010 |

2010年1月29日金曜日

水飲み場:仲東児童公園


| haneda 6 | jan. 2010 |

六角形の年代物。下方が若干すぼまっているのだろうか。本体は二種類のコンクリートを組み合わせた、妙に凝った造形。


| haneda 6 | jan. 2010 |

手洗いの排水溝が水栓の直下にない。おかげで周囲に水が飛び散ってしまうところが残念。


| haneda 6 | jan. 2010 |

水飲み水栓のまわりもどうやら薄いオレンジ色の人工石のようだ。

よくみると、完全な六角形ではなく、手洗い水栓が取り付けられている部分は面取りがされている。ディティールにいろいろとこだわりが見られるのだ。

2010年1月28日木曜日

水飲み場:大師橋児童公園


| honhaneda 3 | jan. 2010 |

この造形、スバラシイと思いませんか。足台、水受け、水飲み台などがすべて円、円弧で構成されています。


| honhaneda 3 | jan. 2010 |


| honhaneda 3 | jan. 2010 |

惜しむらくは、部分によってその円弧が中途半端なこと。

↓こんな感じでいかがでしょう。

(c) tokyopasserby.blogspot.com

2010年1月27日水曜日

世界堂のモナリザ 01

アッと驚くモナリザで有名な新宿の画材屋、世界堂さんのモナリザが妙に可愛いらしい。

やっとかめ どっとこむ / モナリザもアッと驚く
http://yattokame.exblog.jp/12728387/

世界堂のモナリザ

なるほど、目がパッチリ、真っ赤な口紅まで! 世界堂さんにはずいぶんとご無沙汰なので知りませんでした。参考までに本物も掲げておきます。

モナリザ
『カラー版西洋美術史』美術出版社、1990年、87頁から。

* * *

昔はこんなんじゃなかったよ。というわけで、世界堂の新聞広告をすこしばかりクリップ。まずは、1984年のモナリザ。怖いですよ。

『朝日新聞』、1984年12月01日朝刊23頁。

「アッと驚く」というよりも、口もとには「あ゛〜」というおどろおどろしい書き文字が似合いそうです。

続いて、1993年。ちょっと顔が違うようにも見えるのは、印刷の工合か、版がへたってきたのか。

『朝日新聞』、1993年12月01日朝刊31頁。

「本店仮店舗」とあるのは、1990年2月24日早朝に本店が火事で燃えてしまったからなのですね。1994年に現在の本店ビルが完成しています。★下に追記★

そして、1995年。ずいぶんと可愛くなっている。

『朝日新聞』、1995年12月01日朝刊39頁。

「あらまっ、びっくり」って感じですね。

意外なことに、いずれも広告の中で「モナリザ」を謳っていないのです。しかも決してオリジナルに似ていない(笑)。だけれども、誰もがモナリザと認識する。ダ・ヴィンチはすごいですね。

いずれの広告も原画と違って右を向いているのには訳があります(といっても推測ですが)。世界堂の広告は、常に新聞の見開き左端に掲出されているのです。だから、読者に対して目線で訴えるには右を向く必要があるのですね。(でも現在の世界堂版モナリザは左向きですが……)

* * *

さて、世界堂さんは有史以来ずっとこのモナリザの広告を出していたのだと思っていましたが、どうもそうではなさそうです。

1974年の朝日新聞の広告では謎の美女が用いられています。

世界堂の広告
『朝日新聞』、1974年12月03日朝刊23頁。

読売新聞データベースでは1986年までの新聞画像を広告まで検索できるのですが、そのいずれもモナリザではなく、朝日と同様の謎の美女。

世界堂の広告
『読売新聞』、1979年01月01日朝刊23頁。

世界堂の広告
『読売新聞』、1986年11月01日朝刊23頁。

ちなみに、女性のイラスト入り広告と、下のような文字だけの広告が交互に出されていたようです。

世界堂の広告
『読売新聞』、1979年04月01日朝刊23頁。

朝日新聞には1984年にはモナリザが登場しているわけですが、読売新聞では1986年でも謎の美女。というわけで次の課題は、

いつから世界堂の広告にモナリザが登場したのか

です。乞うご期待(笑)。

調べてみました。
そこにはもっと恐ろしいモナリザが!!

 >>> 世界堂のモナリザ 02 


* * *

世界堂の創業は昭和15年、「世界堂」の名称になったのは昭和22年という老舗。広告も、そして新宿という場所柄から、ちょっと野暮ったいというか、泥臭い雰囲気を感じていたのですが、池袋パルコ店の広告はヌーボー調のなかなか格調高い雰囲気のデザインと洒落たコピーで、これはとても意外でした。

世界堂の広告
『読売新聞』、1970年07月20日夕刊08頁。

* * *

2011年5月11日追記

新宿世界堂本店の火事、覚えていますか。
たまに、「世界堂 火事」というキーワードでこのウェブログに来る方がいらっしゃるようなので、ここにメモランダム。せっかく(?)ですので、新聞各社の写真を撮影された時間別に並べてみます。

『朝日新聞』。写真は朝7時4分。

朝の新宿 道路マヒ
画材店1120平方メートル焼ける

二十四日午前四時四十分ごろ、東京都新宿区新宿三丁目、画材店「世界堂」付近から出火、鉄骨五階建ての店舗一棟と木造二階建ての倉庫二棟、計約千百二十平方メートルが焼けた。けが人はいなかった。
四谷署でくわしい出火場所や原因を調べているが、出火当時世界堂は無人だった。
…(略)…
同社によると、本店内には、売り物や額縁を直すために顧客から預かっている油絵、掛け軸など四、五千点があったという。この中には、米ロサンゼルス在住の版画家で、八四年五輪の時の同市公式ポスターなどで有名な山形博導(ひろみち)氏の作品数点も含まれていた。四谷消防署は、一点が二、三百万円の作品もあり、損害は作品や画材だけで約三億円にのぼるとみている。
…(略)…

『朝日新聞』1990年2月24日、夕刊19頁。

そう、額装するために預けられていた作品が燃えてしまったのでした。


『朝日新聞』1990年2月24日、夕刊19頁。

『読売新聞』の写真は午前8時撮影。

『読売新聞』1990年2月24日、夕刊15頁。

『毎日新聞』は午前8時30分すぎ。他社とは異なる角度からの写真です。窓の内側に炎が見えて生々しい。

…(略)…
建物は増築を繰り返して老朽化していたため火の回りが速く、店内には絵の具などの可燃物が多かったことから、出荷から七時間以上たった正午ごろまでくすぶった。
…(略)…

『毎日新聞』1990年2月24日、夕刊11頁。


『毎日新聞』1990年2月24日、夕刊11頁。

『日経新聞』は路面からの撮影。撮影時間は不明です。

『日本経済新聞』1990年2月24日、夕刊11頁。

水飲み場:羽田弁天橋あたり


| benten bashi | jan. 2010 |

公園仕様の水飲み場が道ばたにあると、ちょっと違和感がありますね。手洗い水栓ならともかく、水飲み。手洗いのハンドルは外されていて使えません。


| benten bashi | jan. 2010 |

じつは、さすがに道ばたに水飲みだけが唐突にあるわけではありません。民家と道路に挟まれた狭い敷地にある公衆トイレの前に設置されています。ボックス型トイレの中には手洗い用の水栓がありました。

2010年1月26日火曜日

羽田あたり


| haneda | jan. 2010 |

海老取川の脇、空港に向かって立つ鉄枠。羽田空港が沖合に移転するまで、ここには様々な企業の大看板が掲げられ、飛び立つ飛行機に向かってアピールしていた。私が子供の頃にはこのような看板のための枠がずらっと並んでいたと記憶しているが、今は殆ど残っていない。


| haneda | jan. 2010 |

この鉄枠ももうずいぶん長く使われていないようで、錆びつき、塗装も剥げかかっている。


| haneda | jan. 2010 |


| haneda | jan. 2010 |

見た限り、このあたりで唯一現役なのはポンジュースの電飾看板。ここはモノレールの車窓から見える場所だから残っているのか。


| haneda | jan. 2010 |

その隣の鉄枠は使われていない。

* * *


| haneda | jan. 2010 |

漁船係留所の物置。航空貨物コンテナの再利用。


| haneda | jan. 2010 |

そんな事件、ありましたっけ? 最近って、いつ?

2010年1月25日月曜日

公園遊具:南光公園のプリン山


| minami rokugo | jan. 2010 |

360度、どこから見ても斜面。登るための手掛かり足掛かりになるようなものはなにもない。難易度高し。この円錐台形の滑り台、俗に「プリン山」と称するらしい。


| minami rokugo | jan. 2010 |

人気のない夕暮れの公園に、白い山が妙な緊張感をもたらしている。その佇まいは何かを連想させると思ったら、あれだ、銀閣寺の砂盛りだ。

2010年1月24日日曜日

クリスマス電球の歴史 05


| jan. 2010 |

季節外れにも程がありますが、クリスマス電球産業についての続き。第二次世界大戦以前の、電球産業(特に豆電球および装飾用電球)の東京への集中の様相を、大阪と対比してみる。


* * *

大阪市役所産業部貿易課編『大阪の電球工業』(1936年=昭和11年刊)から、大阪における豆電球産業の様相を要約。

豆電球が大阪で初めて製造されたのは1916年(大正5年)頃のことで、二、三軒の業者が従事したが、採算が取れないために間もなく撤退している。1923年(大正12年)の関東大震災により東京から一業者が移住し、北区において操業を開始するが、東京の復興により職人が再び東京に戻り、経営は困難を極めたようである。
大正12、13年頃には自転車の照明用に豆電球の需要が増大し、昭和にかけて製造所は増え、『大阪の電球工業』にはその数9軒であったと記されている。

1936年当時、関連産業である装飾用電球すなわちクリスマス電球の製造にたずさわっていたのは僅か1軒のみであった。大阪での創始者は谷後栄利氏で、昭和6年頃のことである。谷後氏は研究を重ね、東京ではこの製造を二人吹で行っていたものを一人吹に改め、生産性を高めたという。この技術は東京にも伝わる。(『大阪の電球工業』、29-30頁)

* * *

1933年(昭和8年)当時の電球工業の規模は……

府 県
工場数
職工数
生産数量
生産価額/工場
東京府
279
5,577人
260,974,730個
33,481円
大阪府
24
792人
33,074,567個
130,075円
『大阪の電球工業』5頁。

工場数を比較すると、東京は大阪の11.6倍。しかし工場あたりの生産額をみると、東京は大阪の4分の1程度。大阪と比較して東京には圧倒的に小規模な製造業者が乱立していたことが分かる。
※表のデータは豆電球・装飾用電球だけではなく、電球工業全体のもの。

つぎに輸出港別のデータを。こちらは、豆電球に限定。元の表は数量・価額であるが比率に直している。

豆電球

大阪・神戸
横浜港
その他
合計
装飾用
数量
9.3%
89.3%
1.4%
100.0%
価額
9.7%
89.6%
0.7%
100.0%
その他
数量
27.3%
68.8%
3.9%
100.0%
価額
26.2%
71.0%
2.7%
100.0%
『大阪の電球工業』9頁から計算。

装飾用豆電球の大阪・神戸港からの輸出は全体の10%未満。これに対して横浜港からの輸出は90%近くに達する。関東(実際には東京)に零細な豆電球・装飾用電球産業が集中していたことが分かろう。

どのようなデザインが用いられていたのか。

装飾用電球は硝子球に着色又は變形を加へ、主としてクリスマス用に使用さるゝものを云ひ、名稱はトンガリ、マツカサフレーム等數百種に及んでゐる。(『大阪の電球工業』30頁)

とあるが、図版がないので具体的な形はよく分からない。彩色については次のように書かれている。

本品の彩色は透しが鮮やかであること及び色が剥げ且つ變わらぬことを要し頗る難事であり、最初は東京の同業者に委托して行ふたが、のち大阪の塗料會社又は工業試驗所に依頼し研究した結果、漸く完成した。(『大阪の電球工業』30頁)

* * *

冒頭の写真は、クリスマス電球とは言い難いですが、フランス製の装飾電球。ふつうのペッパーライトに、糸を巻いて固めた中空のボールをかぶせてある。吉祥寺の雑貨屋さんで購入。本家サイトでは自分で色と数の組み合わせを選んで購できるみたいですね。


50個ボールのセットが39.50ユーロ+日本への送料が24ユーロ=63.50ユーロ。現在1ユーロ=130円程度なので8,000円程度です。私が買った価格よりもずいぶん安いのは円高のおかげでしょうか。

2010年1月18日月曜日

クリスマス電球の歴史 04

年もすっかり明けてしまったというのにいまさらなのだが、クリスマス電球の話の続き。

骨董屋さんで知った古いクリスマス電球。これが日本製で、しかもその生産は品川の地場産業であった。それも大工場ではなく、無数の零細な、自宅兼作業場のような場で作られていたようだ。


品川といえばなかば地元。いまはほとんどなくなってしまったけれども、子供の頃ウチのまわりにも住宅兼用の小さな町工場がたくさんあった。機械の音、旋盤の削りかす、機械油の匂いが記憶に残っている。となりの子の家に遊びに行くと、おばさんはいつも小さな機械で電線に端子をつける内職をしていた。

というわけで、クリスマス電球製造の歴史をしらべていくと、ちょっと郷土愛を刺激されるところがあるのだ。今回は、1957年(昭和32年)、クリスマスイブの朝日新聞からクリップ。

* * *


『朝日新聞』1957年12月24日夕刊、03頁。

クリスマスイブ、ということで記事では関連する3つの話題――クリスマスの星、クリスマス電球、クリスマス切手――を取り上げている。電球についてはその点滅のしくみが記事の中心であるが、その中から手工業に関する部分を抜き出すと……

クリスマス電球には、たくさんの電球がいっせいに点滅するのと、バラバラに点滅するのとあります。なぜでしょうか。
……
また、E図のように“並列”にスイッチ電球ばかりをつなぐと、どの電球も勝手についたり消えたりします。もし厳密に同じ性能を持つ電球ばかりなら、並列につないでも同時に点灯するはずですが、手工業でつくられるクリスマス電球は“幸い”ふぞろいとなってバラバラに点滅するのです。

並列用につくられている電球の電圧は、120ボルト。100ボルトでないのは、輸出先である北米に合わせているためである。

百二十ボルトというのは、日本でつくられるクリスマス電球の九九%が海外に輸出され、その大部分がアメリカに輸出されるからです。アメリカでは電灯線の電圧は大体百二十ボルトのところが多いのです。百二十ボルト用の電球は日本の百ボルトの電灯線でともしても、少し暗くなるだけで、大した違いはありません。

そして、その製造はきわめて零細な作業場で行われていた。

アメリカでは毎年六億個のクリスマス電球が売れていますが、そのうち二億個は日本製です。それもみな零細な町工場、いえ、町の家庭の内職としてつくられています。東京都内にも二百軒ほどありますが、それらの家庭の子供たちは、明滅するあのクリスマス電球をはたしてわが家に飾ってもらっていることでしょうか。

日本で生産されるクリスマス電球のうち、99%が輸出されるということは、国内で販売されるのはわずか1%相当ということになる。昭和32年当時、はたして日本のどれほどの家庭がクリスマスツリーを飾り、クリスマス電球を灯していたのであろうか。おそらくデパートメントや商店などの装飾用の需要がほとんどであったのではないだろうか。

* * *


『朝日新聞』1957年12月24日夕刊、03頁。

こうゆう楽しいかたちのクリスマス電球はいまはなかなか見かけませんね。最近のLED式の装飾はどうも味気なくていけません。

2010年1月16日土曜日

デザイン史なのか、デザイン思想史なのか

メモランダム。

* * *

経済学の領域には、現実の経済現象を把握するための理論的枠組みを考察する分野と、現実経済を運用するための手段を構築する分野とがある。その歴史領域もまた、ふたつに分かれる。ひとつは経済学史/学説史で、もうひとつは経済史である。前者は経済思想、経済理論変遷の歴史を扱う。後者は過去の実体経済を発掘・考察し、そこに現れるさまざまな因果関係をさぐるもの。ときおり両者を混同する人がいるが、扱う対象も、その意味・目的もまったく異なる。

* * *

デザインの歴史研究に関しても、このアナロジーで「デザイン史」と「デザイン思想史」とを明確に区分すべきではないだろうか。「デザイン史」をタイトルとするテキスト、大学の講義のシラバスを見ていると、「デザインの歴史」ではなく、まったくの「デザイン思想の歴史」であるものが多い。ウィリアム・モリスやバウハウスが登場するものは、基本的に思想史である。思想はその形成に同時代の現実を反映しているかもしれないが、その目的は我々デザイナーはどのようにデザインすべきかというヴィジョンを示すものであり、決して現実に存在する/存在したデザインを合理的に説明するためのツールではない。

デザイン思想の歴史をトレスするテキストに登場する事例は、基本的にその思想に基づく模範作品である。もちろん、それが思想史ならばよい。モリスとその影響、バウハウスの思想とその影響を描くならば何の問題もない。しかし、それが「デザイン史」を名乗るとなるといささか問題がある。なぜならば、同時代のオブジェクトがすべて同じ思想の下につくられているとは考えられないからである。いや、むしろそのような思想の下につくられたオブジェクトは、現実世界ではきわめて少数派である。彼らの考えるユートピアとはそもそもnowhere、どこにもない仮想の世界を対置することによる現実批判であり、当然のことながら批判対象となる現実は多数派である。その多数派をまるで存在しなかったかのように扱う歴史とはなんなのか。

* * *

こうした「デザイン史」の状況の理由として、神戸大学の中山修一先生は、イギリスのデザイン史の例としてデザイン史が主にポリテクを中心とするデザイナー養成の場において発展してきたことをあげている。「つまり英国のデザイン史研究は、純粋に学術的な地平から発生してきたのではなく、より有能なデザイナーを養成するための教育的観点から要請されたものなのである」*。

* 中山修一(1995)「デザイン史の再構築へ向けて」『神戸大学発達科学部研究紀要』第2巻第2号、371頁。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000196.pdf

こうした背景ゆえ、デザイン史の視点はつねに作り手の側にあり、その目的はよいデザインのための思想と方法論の構築にある。よいデザイン以外を知ることは、批判対象としての役割を除けば彼らにとってまったく無用の作業であり、デザイン史に求められてきたのもグッドデザイン思想の系譜であったということになる。だがそれでよいのだろうか。

* * *

Yahoo!知恵袋にこんな質問がありました。

大学のデザイン史の課題です。表現主義と機能主義の対立する事例を一つ選び、今日の問題と比較し考察せよ。
……
近代から現代に至るデザイン史の底流に対立理念として表現主義と機能主義とがある。前者は美術・工芸の世界を背景として個性に関連するものであり、後者は近代産業と社会の世界を背景とし没個性を目指すものである。この対立する事例を一つ選び、今日の問題と比較し考察せよ。
表現主義と機能主義についての調べはついたのですが、対立している事例がわかりません。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1333555748

デザイン思想史の典型的な例です。

2010年1月12日火曜日

鶴見線国道駅

引きこもって仕事をしていたので日が暮れてから気晴らしに出かけようとして思い出したのがなぜか鶴見線の国道駅。


| kokudo stn. | jan. 2010 |

以前から一度行ってみたいと思ってはいたのだが、暗くなってから出かけて正解かもしれない。


| kokudo stn. | jan. 2010 |


| kokudo stn. | jan. 2010 |


| kokudo stn. | jan. 2010 |

アーチ状の高架下通路はいろいろなサイトで見て知っていたが、鶴見方面ホームから改札を結ぶ橋の存在は知らなかった。


| kokudo stn. | jan. 2010 |


| kokudo stn. | jan. 2010 |

橋上から改札口を見る。


| kokudo stn. | jan. 2010 |


| kokudo stn. | jan. 2010 |


| kokudo stn. | jan. 2010 |


| kokudo stn. | jan. 2010 |


| kokudo stn. | jan. 2010 |


| kokudo stn. | jan. 2010 |

駅もその周囲も暗く、歩いている人も少ないが、電車が着くたびにそれなりの数の人たちが改札から出て暗闇へと消えてゆく。