チケットを買い、2階の展示室へ。左右どちらかも入れるとあるが、いつものとおり、左側の入り口から入る。
第1展示室:遮光された扉から中へ。展示室内は暗く、晴天の屋外の明るさに慣れた目には、展示台にぼんやりと光る作品のみが見える。展示台には、プリントされた布、白いペッパーランプ(→こちら)をつないだ環、畳んだ布、そして小さなガラス瓶に満たされた水。上からは洋梨形の風船が浮かび、空気の動きに合わせて揺れる。小さなガラス玉も下がっている。観覧者はふたつの大きな展示ウィンドウの中に入ることができる。外から中の人を眺め、中から外の人を見る。中の人も外の人も作品の一部となる。
第2展示室:第1展示室を出ると再び陽光の中。明るさが目に眩しい。第2展示室はふつうの明るさ。入り口手前側の2メートルほどの幅を残して、向こう側にはプリントされた布片が敷きつめられている。全て同じ文様の布。重なり合うカタチ、厚み、かすかに透けて見える下の布で、ただ一枚の布が敷かれているのとは異なる空間が作り出されている。布の平原の縁には重ねられた丸い薄い紙。この小さな紙片には「おいで」の3字が、赤い、ちいさなちいさな鏡文字で印刷されている。この紙は持ち帰ることができる。
中庭:宙に舞う2本のリボン。
テラス:池に面した柵の上に、水を満たした小さなガラス瓶。
彫刻室:天井から床へと降りるビーズの糸。
等々。
* * *
すみません。正直に書きます。
「私には分かりません」。
あゝ、すっきりした。「分からない」ことはかっこわるい、「分からない」と発することは恥ずかしい。と、長年そういう感覚で来たが、最近は恥の感覚が薄くなってきたのか閾値が下がってきたのか、「分からない」と発することが多くなってきた。もちろん、「分からない」ことが以前よりも増えたわけではない。正直になっただけだ。たぶん。あるいは「分かっている」と思うことが恥ずかしくなったのかもしれない。
尤も、考えてみるに「分からない」にはふたつの意味があると思う。ひとつは、目の前のモノに対する思考の停止あるいは情報流入の遮断。いわゆる「バカの壁」である。もうひとつは、見たモノ、聞いたコトに対して自分の心を表現すべき言葉を見つけることができないでいること。あるいは他人に対して、それどころか自分自身に対してすらも伝える術がないこと、である。今回の「分からない」は後者だ。
上に記したとおり、作品の物理的な状態は述べることができる。でも、それを見た私、私の感覚、私の心を吹き抜けていった空気をどのように表現したらよいのか。「展覧会に行ってきた」「どうだった?」「リボンが舞っていたよ、ガラス瓶が水で一杯だったよ」。これでは、じっさいのところ何も伝えていないではないか。分からなかったということが伝わっている? ああ、もどかしい。「不思議な魅力にあふれた作品だった」? なんて陳腐な言葉なのだろう。
第2展示室に入って、「えー、これは一体どうしたらよいのでしょうか」と尋ねたら、係の女性は少し笑いながら「作家さんの言葉によると……」と説明してくれたが、それで私は分かったのだろうか。
今回の展示はインスタレーションということだから、基本的にはあの場、あの時にそこで見ることでしか体験できないモノだ。しかし、だからといってそれを人に伝えることができないということでもないと思うので、もっと言葉を探して内藤礼の作品を再訪します。
「内藤礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」
神奈川県立近代美術館 鎌倉
2009年11月14日(土)~2010年1月24日(日)
→http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2009/naito/index.html
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