川村清雄と酒
川村清雄はかなり聞こし召した人物であったようで、画を描くときにも酒は欠かせなかったようです。しかし、意外にも酒に起因するエピソードはそれほど見つかりませんでした。酔って不始末をしでかすタイプではなかったようです。木村駿吉『稿本』に、「今年の二月の始め画伯は友人を訪問して大酔し、縁側から庭に轉げ落ちて腰を痛め、三週間程床に就いてゐた」という話*がある程度でしょうか。この「今年」とは『稿本』が出版された大正15年、清雄76歳のときです。
ここでは、川村清雄のお酒にまつわるエピソードをいくつか抜き書きしておきます。
新案酒豪大番附
清雄は文人画人のなかでもかなりの酒飲みであったことは間違いないようで、「新案酒豪大番附」という番付に前頭として名前が挙げられています。
「新案酒豪大番附」[挿図37] こんなものも残っている。何年頃かは不明だが、東の方に清雄が前頭で、西の方に張出大関で和田垣謙三氏が出ている。
東の関脇は洋画家黒田清輝。
和田垣謙三は清雄の大恩人のひとりであり、別項で述べます。
小川に落ちた川村清雄
和田垣謙三博士に誘われて大町芳衞(=大町桂月)邸で開催された野遊会を訪れた川村清雄、ひとり暗くなった庭園を散策するうちに小川に落ちたという話が残されています。
其の日[和田垣]博士は川村淸雄畫伯をも同伴しけるが、日暮に及びて、會散じ、居残れる數友[すういう]と共に、室内に入りて、更に小酒宴を開きけるに、二三時間過ぎて、戸外に『おういおうい』と呼ぶ聲す。誰にかとて、出でて聲を踪[そう]すれば、川村畫伯也。『如何にせられしか』と問へば、『まだ日の暮れぬ中、園内を散歩しけるに、誤つて小川に落ちたり。兩岸高く直立して攀[よ]ぢ上ること能わず、小川を上りつ、下りつして、攀ぢ易き處を捜す程に、日暮れて、闇の夜となりぬ。漸くにして攀ぢ上ることを得たるも、家が何處やら、門が何處やら、更に見當つかず、歩き廻り廻りて、終に大聲にて呼びたれども、返事なし。又歩きて又呼ぶに、又返事なし。かくすること、凡そ十囘にも及びて、漸く返事の聲を聞き、やがて出迎への火光[あかり]を見て、始めて胸なでおろせり』といふ。余も大いに驚きたるが、怪我の無かりしは何よりとて、請じ入れて、互いに其無事なりしを祝ひぬ。この時、博士の紹介にて、始めて川村畫伯と相識りし也。
どんなにか広い邸内かと思いますが、「邸内は二萬坪もありて、梅林もあれば、櫻林もあり、楓林もあり、築山もありて、築山に上れば、西に富士山を望むべく、東に筑波山と日光山とを望むべし。ここは、もと春日局の別莊にして明治の初め江藤新平の別莊なりきとの事也」だったそうです。
俄大尽 大町桂月
大正3年(1914年)の『読売新聞』に、なかなか愉快な酒宴の記事がありました。
俄大盡の振舞酒
三十六人の大騒ぎ
岩崎家から一萬円と云ふ飛んでもない大枚の原稿料を貰つた大町桂月氏が麹町の富士見樓で八日夜祝盃を擧げた事はお定まり文句で既報の如くであるが 當夜相會した人々は三十六人 それが何れも又痛快な人々だから興が思ひ遣やられる ▲曰く和田垣博士、川村淸雄、千頭淸臣、横山健堂と云ふ豪傑連、イヤモー主人が演説すれば一人和し二人續き 天上の鼠も縮み上がれば地中の蚯蚓[みみず]も潛むと云ふ大騒ぎ ▲斗酒を辭せず気焔は虹の如し處ではない、主人が蹣跚と帰宅したのが一時半でお客はそんな事お構ひなくぬかみそを腐らせて散會したのが三時半、もう東が白んで雀がチューチュー烏がカーカー
先の番付でいうと、和田垣謙三は西の大関、大町桂月は東の関脇、川村清雄は東の前頭です。
和田垣謙三没後に編まれた『和田垣博士傑作集』(大町桂月編、至誠堂、1921年)に、川村清雄はタイトルも「酒畫の交際」として和田垣博士との思い出を記しています。その中のお酒に関する話を引用しておきましょう。
酒畫の交際
川村淸雄
……和田垣博士は、酒が大變御好きであるし、私も酒が相當に飲めます所から、御同伴して料理店や、ビーヤーホールに參つたことは數限りなくあります。絵畫と飲酒の二つは、和田垣博士にも私にも共通した道樂でありましたから、それが爲に交際が一層密になりました。
さて、先の宴会、いったいどんな催しだったのでしょうか。
上の記事に「既報の如く」とありますが、同じ『読売新聞』7月10日付の4頁「よみうり抄」には次のように書かれています。
▲大町桂月氏 は岩崎家より委嘱されたる家史脱稿したれば八日富士見樓に知人を招待して完成祝を催せり
同日7頁の記事はまるで現場を見てきたかのような筆致と思われるかも知れません。
じつは読売新聞記者子が現場にいました。
本社の「吉岡将軍」なる人物のところに、大町桂月氏から招待状が届いているのです。7月9日付『読売新聞』には、招待状の写真入りで詳細が記されています。
原稿料壱萬圓
貧乏文士桂月
俄大盡となる
謹啓[きんけい] 陳者[のぶれば] ○[まる]が普通の原稿料より少し多く入來[じゆらい]申[まをし]候[そろ]依つて貴兄を初め知己諸賢と共に一杯傾けんと存[ぞんじ]申[まをし]候[そろ]萬障[ばんしやう]御繰合[おんくりあはせ]御出馬下されずや
七月八日
桂月頓首
吉岡将軍侍史
といふ別項寫眞のやうな手紙が本社の吉岡將軍の所へ舞込んだので、あの貧乏桂月が氣でも違つたかと流石物に動ぜぬ將軍も猛烈に面喰つて、自身御出馬探索に及んだ所、これには大に曰くがあることが解つたので、將軍も莞爾[くわんじ]として「ナール程」と大きく首肯[うなづ]いた。
△曰くといふのは他でもない、去んぬる明治四十四年桂月の恩師杉浦天台道士の紹介で、今の岩崎男爵から亡父彌太郎氏の傳記を書く様との依頼が桂月の許に届いた 其の時の契約には伝記の成つた曉に一萬圓の原稿料をと云ふので桂月もホクホク 一時は大いに氣乗りはしたもの〻例の氣象が萌して其のま〻一行も書かずに四ヶ年間を經過した 其間に催促が矢のやうに来るが馬耳東風 書く氣色が更になかつた、それで岩崎男も怒つて契約を解除すると迫つたそうな、 桂月は心得たもので「今迄其の原稿を書いて居たので
△借金が山程 出來た 今更解除されては浮ぶ瀬がない」と天台道士を介して岩崎男の怒りを解いた そして桂月は去る二月頃突然伊豆の大島に雲隱れして下の意味の手紙を岩崎男宛に出した 「さすがの平家でさへ頼朝が伊豆へのがれたら追求しなかつた位だから大島までは追求が出來まい」と、斯うして岩崎男の契約解除の相談を避けて
△大島住居[すまゐ]の間 物の見事に原稿を書き上げ さあさあさあと岩崎男につき附けて 目出度一萬圓を手に入れた 此傳記は富山房から出版さる〻事になつたので友人知己を富士見樓に招待して大いに豪遊を極めやうと云ふのださうな、 富士見樓の一夜はどんなに大町式の發揮にお客を惱ますことだらう
大正3年、川村清雄は63歳。
酒宴の理由は、大町桂月が岩崎男爵から伝記執筆料1万円を受けとった、その祝いでした。
読売新聞の「吉岡將軍」とは、「吉岡真敬」氏(〜1940)のことです。吉岡真敬は初期の早慶戦で「野次将軍」と呼ばれ「当時野球の応援に乗馬姿で乗り出し応援団を指揮し現在の団体応援の創始者といわれ」*た人物で、このころは読売新聞にいたそうです。
河村清雄氏の縄暖簾
明治40年、川村清雄56歳のときのエピソード。
雑録
△河村淸雄氏の縄暖簾 は美術家中最も飄逸脱俗[へういつだつぞく]で、逸話は數へ切れぬ程ある、何時も近所の縄暖簾へ出掛けて味噌で濁酒を飲むのを一の快樂としてゐるが、下谷にかの縄暖簾の支店が出來たので、氏も親類付合しやうといつて、上野へ來る每に人を引張つて其所へ行く、嘗て柳川春葉氏が氏に揮毫を依頼に行つて、執筆料は幾らかと聞くと、先生例の優しい聲で、「なあに、お互ひ貧乏なんだから、貴下[あなた]から揮毫料なんか頂かなくてもよい、牛屋[ぎうや]へでも連れて行て下されば澤山です」といつた、大小説家たる春葉氏 頭から貧乏仲間に引入れられたので、呆氣に取られてゐると、河村氏は更に「何か差上げたいから一寸其處までお出で願ひたい」と縄暖簾へ連れて行つたので、春葉先生大閉口であつたさうな。
清雄は明治39年12月頃、千駄ヶ谷に転居していますので*、この記事中の「近所の縄暖簾」は千駄ヶ谷界隈の店のことと想像されます。
春葉は雑誌『新小説』の編集者。清雄は『新小説』の表紙絵を描いていましたから、春葉氏の懐具合について少しは知っていたのではないかと思われるのですが……。
* * *
さてこの話、1909年に刊行された『人物の神髄』(日高有倫堂、1909年)にも収録されています。少しばかり話が違いますので、ここに引用しておきます。
河村淸雄と縄暖簾
洋畵家河村淸雄は、珍しい飄逸脫俗の人である。立ン坊ヤ車夫などを連れて、縄暖簾へ濁酒を飲みに行くのが道樂で、其爲に暖簾へ借りが出來ると、金を作つて拂ひに行くが、又た立ン坊ヤ車夫の取巻を連れて行くので、其足で又た借金をして歸つて來る。
小説家の柳川春葉が、何時か畵を頼んで、「潤筆料はいくらか」と聞くと、「貧乏はお互だからそれには及ばない。出來上がつたら牛肉でもおごつてください。」と云つて、後で、「何か差上げたいから、其所迄お出でを願ひます。」と案内するので、春葉はビヤホールか料理屋へでも行くのかと思つて、辭退しながらついて行くと、河村は近所の縄暖簾を片手にあげて、「サアどうか、」と春葉を顧たので、貴公子然たる春葉は返辭が出來なかつた。
酒を飲みながら描く
大正12年、清雄72歳のときに画室を訪れた記者子の前で、盃を傾けつつ絵を描き、「何しろ 飲みますからな この年で日に六七合から一升もやらかす事もあつて……あなたは御酒を召し上がらない?、それは淋しい』と独りで飲み且語りつづけ」*たとのこと。
* * *
飲みながら絵を描く様子は、木村駿吉『稿本』にも描かれています。
席画
宅の座敷に前以て画架や繪具その他の入用の品を用意する、画架の上の方には長い棒を水平に縛り付ける。程なく画伯が筆を持つて來られると、直ぐ仕事衣を着て画架の前に座る。直ぐお銚子が出る。ビールが出る。ウイスキーも出る。画伯は腹の中で和洋融合をやるのだ。飲みながら談をしながら描き初める。左の手に長い棒とパレットを持ち、右の手には筆を持ち、その棒を画架の水平の棒の上に動かして右の手首をその棒の上に動かす。筆が外れずに力も入る。力のこもつた線を描く時には腕を空に浮かせる。やつと氣合をかけると勢の強い線が出来る。次から次えと色々の材料を出す。晝飯には一寸座を外すだけでまた直ぐ描き始める。餘程氣分が良かつたものらしい。日の一番永い時分であつたが、引續き電燈の下でも描かれた。側で三味を彈く美人もゐた。盛に談話するものもあつた。画伯としんみり話す人もあつた。一向筆の進みにさわらない。反て良い様だ。お酒と談話で筆の運びが良くなるらしい。毎日獨りぼつち画室で描くよりは良いと言われる。画伯の構想も画題も豊富である。……
木村駿吉『稿本』132丁。
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