2013年2月20日水曜日

川村清雄ノオト 07

川村清雄の結婚

洋画家川村清雄は、生涯に数度の結婚と離婚を繰り返しています。

林えり子『川村清雄伝』*には、清雄は4回の結婚をしたとあります。はじめの3回は清雄が30代のとき。いずれも清雄の貧乏が原因で別れたといってもよいでしょう。そして4回目は60歳のとき。この結婚で清雄は初めてお子さん(清衛さん)をもうけています。このときの妻ふくは病のため、大正8年、清雄が68歳のときに亡くなっています。

『川村清雄伝』には「清雄はその後妻を娶らず」と書かれていますが、じつは清雄は大正11年の暮、71歳(!)のときにもう一度結婚をしているのです。ただしその期間は僅か10日間。清雄曰く「不思議な話ですよ、怪談以上といふところですがね」。

さらに、『川村清雄伝』には3回目の結婚の期間について誤りと思しき記述もありました。

今回は、川村清雄の5回の結婚について、文献を比較してご紹介しましょう。

* 林えり子『福澤諭吉を描いた絵師 : 川村清雄伝』慶応義塾大学出版会、2000年。

最初の結婚

川村清雄の最初の結婚はイタリアから帰国して印刷局に勤め始めてすぐ、明治15年、清雄31歳のときのことと言われています。相手は印刷局勤めの女工で、清雄は最初自分の妾にならないかと持ちかけたのですが、「親許の返事は『妾にはやらぬが片付けるのなら考えよう、また遠からず印刷局を辞めさせるつもりだ』というものであった」(林125頁)ということで、この女工と結婚することになります。

この結婚については比較的良く知られているようです。なぜならば、清雄自身が作家伊原青々園に事の顛末を語っており、そのときの話を元に、広津柳浪が清雄をモデルとして『絵師の恋』とその後編である『自暴自棄』という小説を書いているからです*。

* 廣津柳浪『繪師の戀』『自暴自棄』春陽堂、明治39年。なお、小説の登場人物の名前や所属は変えてあり、川村清雄は潮田春雄として登場する。

もちろん、モデルがあるとはいえ小説は実際のできごとを脚色していますが、鉛筆生なる人物(伊原青々園といわれている)が雑誌『趣味』に発表した「悲惨なる画家の半生――柳浪が『絵師の恋』の実話」*という一文で、小説と実際の出来事との異同を指摘していますので、合わせて読むと30代までの清雄の姿が浮かび上がってくるようです。

* 鉛筆生「悲惨なる画家の半生――柳浪が『繪師の戀』の実話」『趣味』第1巻第5号、明治39年/1906年10月、75~97頁。

* * *

この最初の結婚を巡る話は川村清雄研究者には良く知られているのですが、すこし分からない部分があります。

「悲惨なる画家の半生」で、川村清雄自身「妻と足かけ二年居ましたが」と語っています(90頁)。おそらくこれを典拠にしてでしょう。「2年間」という結婚期間は他の文献にもたびたび引用されています。

現在江戸東京博物館が所蔵する川村家文書には、「明治17年1月 湯島4丁目武藤茂助長女みつと婚姻届」、「明治19年 妻みつと離縁」*とあり、ふたりが二年間連れ添ったことは間違いありません。

* 『維新の画家川村清雄展図録』208頁、年表。

問題は時系列です。

鉛筆生は「印刷局を逐はれると同時に女房持ちとなつた」と書いています(89頁)。しかし、川村清雄が印刷局を辞したのは明治15年なのです。

印刷局を辞した明治15年から婚姻届を出した明治17年までの2年間、二人はどのような関係にあったのでしょうか。籍は入れず、事実上、4年間の夫婦生活を送ったのでしょうか。ならば、「妻と足かけ二年居ましたが」という清雄の言葉はどのように理解すればよいのでしょう。

はなはだ謎です。これについては、私には今のところ結論がありません。

二回目の結婚

川村清雄の二回目の結婚については、時期・期間がよく分かりません。

最初の妻みつの離縁は、上に述べた通り明治19年。

鉛筆生によれば、「序でにいふが、春雄[=清雄]は最初の妻を離緣してから此の第二の妻を娶る間に、自分の繪を學んだ或る有名なる女敎育家と通じて居た」とのことですので、みつと離縁してすぐに結婚したいうことではなさそうです。

結婚のきっかけ、理由については、次のように書かれています。


更に第二の結婚についての物語がある、矢張彼れ自身の語つたままを次に記さう
△「ひとりで弱つて居る所へ、小金井の百姓が書生に来て居ました、其れが偶然に咄した縁談で、先方の親が其の為に遣つて来ましたが、元の庄屋か何か大身代の人で、縁談の当人は日本銀行の吉原さんへ行儀見習に勤めて居るから、当人を能く御覧なさいと呼んで来ました、
△「脇に居てボンヤリ見たばかしですが、よくも悪くもない、只財産的に承諾しました……

鉛筆生「悲惨なる画家の半生」91~92頁。


かなり長く経緯が記されていますが、林えり子氏のまとめによると、


にっちもさっちもゆかなくなった清雄は、貧すれば鈍すということか、財産家の娘を第二の妻として迎えることにするのだ。……女工との結婚の折りに見せた両親の仕打ちに懲りていた清雄は、今回は相談もせずに事を運んだ。それが父帰元の立腹を買い、祝言の式にも顔をださなかった。
この第二の妻ともつまるところ貧乏がもとで別れることになる……

林えり子『川村清雄伝』135~136頁。


なお、鉛筆生は最初の離婚後と2回目の結婚との間に関係のあった「女敎育家」の名を明らかにしていませんが、丹尾安典先生は華族女学校の図画教員であった塚原律子女史であったと推測*されています。

* 丹尾安典「川村清雄研究寄与」『川村清雄研究』67頁、註52。

この「女敎育家」との関係らしきことは木村『稿本』にも書かれています。


三十何歳かの頃女性の女子[※弟子の誤り?]の畫室え出𥡴古をされてゐたが、その弟子と云うのは大分画を良く描いたそうだ。或る日突然木の實を紙に包んで画伯に投げ付た、木の實を好みと解釈してそれ以来相思の仲となり、師弟の関係を遠慮して結婚をしなかつたが、画伯は十年間もこの女弟子の画室を日々訪問して、その十年間少しも初めと変わらなかつたそうである。結婚したらばそうは行きますまいと画伯は言われる。或る日生魚を買て夕食の菜にする筈の処が炭がない。二人して洋燈[ランプ]のほやの上にそれをかざして焼て食べたと話されるときには、画伯の眼は四十年以上前の昔に戻て異常な輝きを見せてゐた。

木村駿吉『稿本』126丁。


二回目の結婚の間にもこの関係が続いていたと、鉛筆生は語ります。「此の時まで未だ双方の関係が絶えなかつたので、斯かる貧苦のうち別に一層の風破が家庭に起つたものらしい」と(94頁)。

三回目の結婚

三回目の結婚も、時期・期間ははっきりしません。とりあえず、文献を引用しましょう。


[2回目の結婚が破綻した後、川村清雄は]友人の許に寄食して相變らず畵筆を執つて居たのであるが、何時しか昔ながらの恩人たる勝伯[=勝海舟]に救はれて再び其の保護を受ける事となつた。而[さう]して此の後に、彼は第三の結婚を行つたが、又も失敗に歸して今日も轗軻不遇[かんかふぐう]の間に放浪して居る。

鉛筆生「悲惨なる画家の半生」96~97頁。


この結婚については、木村駿吉がやや詳細に記しています。


画伯は勝[海舟]邸にゐられた時二度目[※実際には三度目]の結婚をした。媒酌人は波多野傳三郎氏で花嫁は越後の素封家の娘であつた。……夫婦で同じ様な衣服を着て、香水を浴びる様に振かけて冩真を取つたこともある。同棲一二年の間に画伯の自堕落な生活の為、嫁御の持参した財物は蕩盡され、生活は日々益[ますます]困難になり、その上画伯は嫉妬強く慘酷なことをして、嫁御の身体に生疵が絶えないようになつた、嫁御の兄は画伯に愛想を盡かし、行く末の見込みなしとて離婚を求め、その談判が勝伯邸で行われ、夫婦彌[いよいよ]離別となると、二人は抱擁して泣き叫んだそうで、その様子を見た勝家の人々は、あれこそ生木を割くと云うものかと言合つて、同情の涙をそそいだと云うことである。

木村駿吉『稿本』149丁。


林えり子氏の記述は木村『稿本』に依っていると思われます。


木村の稿本は、清雄の三度目(木村は二度目としている。ただし、いずれも正式に入籍した記録はない)の結婚にも触れる。波多野伝三郎という人を媒酌人に立てて越後の素封家の娘を貰ったのだ。
十二年間を連れ添うが、「画伯の自堕落な生活の為、嫁御の持参した財物は蕩尽され、生活は日々益困難」……またもや離別を余儀なくされた。……離婚の談判は勝海舟家でとり行われたそうなので、勝が逝去する明治三十二年に別れたのであろう。結婚したのは、明治二十年前後、清雄三十五、六のときと思われる。

林えり子『川村清雄伝』139~140頁。


林えり子氏はこの嫁を「十二年間を連れ添」ったとし、離婚の談判が勝邸で行われたことから逆算して、結婚は明治20年前後のこととしています。

しかし、です。

木村の記述は「同棲一二年の間」となっています。これは「1~2年の間」と読むべきではないでしょうか。といいますのも、他の箇所で木村は「十四年」、「十一日」、「十二日」という表記をしています。「12年」の意ならば「一二年」ではなく「十二年」と書いてしかるべきでしょう。

次に離縁の談判が行われた時期です。

清雄が世話になっていた勝海舟邸を出たのは、明治27年のことです。

鉛筆生こと伊原青々園が『唾玉集』の1章となる「画家の閲歴」のために清雄にインタビューを行ったのは、「明治31年五月末から七月中旬、小笠原長生宅で『御所車』の筆をふるっているころであった」*。『唾玉集』では省かれたエピソードを元に柳浪が書いた小説が『絵師の恋』と『自暴自棄』です。それを補足する「悲惨なる画家の半生」(明治39年)も、明治30年のインタビューが元になっていると考えられます。

* 丹尾安典「川村清雄研究寄与」『川村清雄研究』50頁。

そして、明治27年に勝海舟邸を出た川村清雄は明治30年には小笠原長生の庇護を受けており、明治31年の伊原青々園によるインタビューも小笠原邸で行われています。離婚が明治30年以降だとすると、その談判が勝邸で行われるとは考えにくいのです。

このように考えますと、川村清雄の三回目の結婚と離婚は、清雄がまだ勝海舟邸にいたころ、すなわち明治27年以前の出来事と考えるのが自然ではないでしょうか。

そして離婚を明治27年以前と考えますと、林えり子氏の「12年間連れ添った」説で逆算すると、三回目の結婚は明治15年以前のことになってしまいます。これは清雄がまだ印刷局に勤め、最初の結婚をするかどうかの時期になります。

やはり、清雄の3回目の結婚は明治20年以降、2回目の結婚が破綻した後の出来事で、明治27年以前に、その期間1~2年のうちに破綻してしまったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

四回目の結婚

川村清雄の4回目の結婚は、60歳の頃。29歳(!)の花嫁を迎えています。林えり子氏の文章から引用しましょう。


清雄が最後によき伴侶を得るのは、六十歳近くになってからである。
荻原源之助の長女でふくといい、三十歳下の明治十六年生まれの二十九歳になった花嫁を迎えた。ふくは陸軍大将乃木希典の縁戚である長谷川勝太郎・いね夫妻の養女となって川村家に嫁いできた。翌大正元年(一九一二)、清雄の還暦を祝う年の暮れ、十二月二十三日に長男(清衛)を出産して清雄に最高の贈物を授けた。……
そうして八年が経ったとき、まさかの災難に一家は見舞われた。ふくが病に倒れたのだ。清雄は懸命の看護をつくしたが、大正八年三月二十一日、薬効むなしく世を去った。清雄はその後妻を娶らず、男手一つで清衛を育てた。

林えり子『川村清雄伝』140~141頁。


木村『稿本』には、若干異なる事情が書かれています。


兎に角春陽堂の依頼で画伯は復活した。その後往來で逢つた知人達は画伯の服装を見て驚いた。画伯が衣食足りて禮節を知ると言われたと云つて評判をした。同棲の婦人はまめやかに家政を調え、追々と画の出來ばえを批評する様にもなつた。丁度レムブラントの窮迫時に於けるヘンドリケ*の様であつた。画伯の両親が相踵で亡くなられた時には貯金千圓を画伯に差し出し。画伯は昔の武家行列に擬えて、祖父の鍬形の兜を持たせたり、定紋付の被いをした曳き馬までさせ、行列には直衣を着せ四半の旗を持たせた。……画伯は家政を司つた同棲婦人の義に感じて正妻に直されたが、十三四年前幼児を遺して病歿された後は眞面目な獨身生活を續けてゐる。

* ヘンドリッキェ・ストッフェルス。レンブラントの後妻。

木村『稿本』111丁。


木村は、正妻となる前からふくが清雄の身の回りの世話をしていたと述べています。それはいつからのことなのか。

「春陽堂の依頼で画伯は復活した」と木村は書いています。清雄が春陽堂から『新小説』の挿画や表紙を頼まれるようになったのは、明治30年。46歳のとき。

清雄の母親は明治45年1月、父親は同2月に亡くなっています。木村に依れば、ふくはこの葬儀に千円を出しています。そして、長男の誕生は同年(大正元年)12月。

3回目の結婚が破綻したのは上に述べた通り、明治27年以前と思われます。

これらから考えると、清雄とふくは、明治30年代から明治40年代はじめまでのいずれかの時期から同棲していたと考えられましょう。具体的には今のところ分かりません。

ふくは大正8年(1919年)3月21日、37歳で亡くなっています。清雄が68歳、長男清衛が8歳のときです。

なお、ふくの出自については、林えり子さんの記述の出典が分かりません。

五回目の結婚

さて、4回の結婚をした、と言われている川村清雄が、じつはもう一度結婚していた、というのが今回の目玉です(笑)。

川村清雄の5回目の結婚については、これまで他の文献で見たことはありません。『読売新聞』に載っていたもののみです。

出来事は大正11年の暮れ。川村清雄が71歳の時のことです。それも相手は「孫娘のやうな若い美しい奥様」。

しかし二人は「僅か十日で離婚した」というのです。いったいどういうことでしょうか。全文を引用しましょう。




花むこ十日間
=七十一歳の川村清雄画伯=

(あれは怪談以上です)といふ

◇チャキ チャキの江戸ッ子で、洋画壇切つて変人扱いされてきた川村清雄さんが、無論後妻ではあるが昨年末七十一歳で孫娘のやうな若い美しい奥様を迎へ花婿になりすましたとあつて大した評判だつたが、僅か十日で離婚したとの報に接して千駄ヶ谷の草庵に翁を訪へば
◇黒龍会 の老壮士某君に居催促を喰つて、春早々から木偏に柿と青林檎と勝栗をとりまぜた静物を、チビリチビリと盃を挙げたりパレットを握ったり、見るからに童顔の老禅僧といつた扮装で皮肉を頻発しつつ元気に描きかけてゐるところ、忽ち出来上がるのを待つて離婚の感想を叩く『イヤなにあれは全くどうも
◇不思議 な話ですよ、怪談以上といふところですがね鳥渡(ちょっと)まだ真相はお話しかねますナ
、懇意な緒方さん*といふのが仲人で迎へては見たものの緒方さん自身が離別を強行した訳でして私としても誤解は受けたくなく、先方の娘さんにも傷をつけたくないといふのが私の偽らぬ告白です
◇兎に角 東城鉦太郞君**もよく解解して居てくれますが、一場の怪談でした』と多く語らうとしない……かと思へば『わが庵は竹のはしらに萱の屋根、まこもさげたる籠居にして――をご参考までにごらんに供しませうかな、これこの通り暮から十五日間敷づめの夜具が客間を占領してるといふ大醜態です
◇何しろ 飲みますからなこの年で日に六七合から一升もやらかす事もあつて……あなたは御酒を召し上がらない?、それは淋しい』と独りで飲み且語りつづける『明治神宮の壁画も手前如き老ぼれに大命が下りまして恐懼至極の次第、でも下絵を三枚程拵へましたから何れお目にかけます、画題ですか?、「振天府」ですよ』……
『けふは頭の
◇具合が 悪くてネ、でも海軍少将***のお世話でヤツと茨城生れの女中おとりさんが来てくれてほツとしてゐるところです、ごらんの通りの無礼講の職人生活でハアハアハア』といい御機嫌

* 清雄の支援者の一人、尾形正弥(1889~1967)のことと思われる。
** 東城鉦太郞は清雄の一番の弟子。
*** 小笠原長生のことと思われる。

『読売新聞』1923年(大正12年)1月13日、朝刊5頁。


結局のところ、なにがあったのかは謎のままです。
大正11年12月から大正12年1月の『都新聞』をあたってみた限りでは、この出来事についてはなにも見つけることができませんでした。

なお、記事中「懇意な緒方さん」とは、おそらく清雄の支援者であった尾形正弥(1889~1967)。

江戸博展図録にはつぎのように書かれています。


尾形正弥
明治22年~昭和42年(1889~1967)
官僚をへて出版業を営む。雅号は藤園、清雄が千駄ヶ谷に居住していた頃、近所のよしみで川村家と親交があり、大正期に清雄の負債整理に協力した。正弥の次女綾子が生まれた時に清雄が名付け親となった。清雄の長男清衛は、清雄の没後、綾子と結婚した。(172頁)


川村清雄の艶聞

最後に、清雄のその他のラブアフェアについてメモしておきます。

木村駿吉の『川村清雄 稿本』には「性生活」という節があります。なんとも露骨なタイトルですが、木村は「第三十三節性生活の記事はなくもがなとも思つたが、画伯の憂かりし旅路を慰めた花として、風景画中の朱の一筆として、楊栁江頭浅妻船に緋の袴と觀じて記して置いた」としています(5丁)。

そもそも、最初の結婚の顛末が世に知られているのは、清雄が伊原青々園に語ったからであり、青々園はそれを自分で小説にせず、材料を廣津柳浪に渡して、柳浪が『繪師の戀』『自暴自棄』という小説に仕立てたためです。

鉛筆生こと伊原青々園が「城西に尙ほ健在なる彼れは此の記事を讀んで、辛かりし己が半生の經歷を想起しつゝ大かた破顔一笑するであらう」と書いたとおり、清雄がこのできごとが――匿名ではあるけれども――公にされることをいやがっていなかったことは、「『絵師の恋』『自暴自棄』のそれぞれ前後編四冊すべての装幀をひきうけ、口絵も最初の一冊のみ清方にまかせあとはみずから描いているところにうかがわれ」*ます。

* 丹尾安典「川村清雄研究寄与」『川村清雄研究』50頁。

川村清雄は伊原青々園にも、木村駿吉にも、虚実ない交ぜて自身の遍歴を語ったようです。「悲惨なる画家の半生」には、妾を置いていたとの言葉もありますし、木村『稿本』には、「ヴェニスのアカデミーにゐられた頃、同輩の不良生に誘われて青樓に行つた処が、忽ち樓主の娘から戀をされて、その場から娘は画伯の下宿に推しかけ、暫く同棲をしたと云う話」も、女弟子との関係も書かれています(126丁)。

さらには、木村は画伯の話を次のように書いています。


画伯は若い時に精力絶倫であつたらしい。どう云う意味で誰が付けたのか、画伯は五時間という綽名を持てゐた。体力が非凡に強かつたのだろう、昔の冩山樓文晁の様に、栁澤淇園の様に、尾形光琳の様に、ラフハエルの様に。画伯はまた笑いながら話された。ボツカチオの様な文豪が見えたら、隨分澤山材料をやりますよ、私のはデカメロンの様な噂話やまた聞きの生温るい生活ではない、このおやぢが永年かゝつて体驗した、煙の出るように生々しい事實談です、その中お話いたしますから書いて下さい。……こんな事實談を澤山集めて一々それに画伯の挿画でも加えたら、とてもデカメロンの及ばない讀物になろう。

『川村清雄 稿本』127丁。


いやはや……。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

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