2013年2月12日火曜日

川村清雄ノオト 06

川村清雄の遅筆


洋画壇切つて変人扱いされてきた川村清雄さん

明治の中頃から奇人として評判の高い川村清雄翁

いずれも『読売新聞』1923年(大正12年)


川村清雄を「奇人・変人」たらしめていた理由のひとつに、彼の遅筆が挙げられます。画の註文をうけてから描き始めるまでに時間がかかることはもちろん、描きかけたまま5年、10年とおかれているものもあったとか。

頼んだ画ができあがらないということは、註文主の怒りを買うことになります。

画が仕上がらないということは、潤筆料を受けとることができません。しかもすでに画題の取材にお金も掛けているので、彼はさらなる貧窮へと追いやられるのです。

こうしたエピソード、その結果が、川村清雄に対する世間の「奇人・変人」という評価だったのでしょう。

ただし、木村駿吉は、川村清雄の遅筆は決して怠惰や怠け癖のためではなかったと述べています。

そうではなくて、描くための事前準備、取材があまりにも入念にすぎる。その上、構想が完結するまで描き出すことができず、あるいは描き始めた後も不足が感じられて手を入れ続ける。結果的にいつまでも完成しないのだと。

そのあたりの事情について『川村清雄 : 稿本作品と其人物』(1926年/大正15年)にはたくさんのエピソードが挙げられています。

今回はその中からの抜き書きです。

川村清雄の時間の観念

まずは、川村清雄の時間の観念。

清雄は画を描く時間の見積に、取材や調整などにかかる時間を計らず、純粋に筆を入れる時間のみで述べていたとか。


川村画伯の時間の觀念は我々凡俗と全く違つてゐる。自分の大作を指してあれは五時間で描上げましたとか、この画はあと三時間で落成しますなどと言われるが、その五時間三時間なる時間は、油繪具を塗る時だけの正味の時間のことで、構圖を頭の中で作り上げたり故實を調べたり、モデルを用意したり生活に附きまとう時は一切計算に入れないのだ。であるから画伯の三時間は我々の時計で二週間に相當することもあれば、五時間と云うのが我々の暦で十年に當たることもある。いつ幾日に出來すると云われるのも繪具を塗る正味の時間から概算したもので、一筆每に考える時間は加えていない。それを他の几帳面な仕事と同じ意味に取て、ペンキ屋の様に画伯が朝から夕まで根氣よく繪具を塗ると早がてんする、如何にも約束の日には充分出來上がりそうに見える。……画伯からいつ幾日に出來ると云われて凡俗の暦でその日を待ち、再三失望させられた人は感情を害する。

『川村清雄 稿本』58丁。


また、日常生活においては、さまざまな出来事の時間的な記憶が曖昧であることも記されています。


川村画伯は画に関係した事柄では非凡の記臆力を持ち、用意周到で頗る精密であるが、時日や時間のことになるといつも實に漠然としてゐる。自分が米國に渡航した時日も、伊太利から歸朝した時日も、正確に覺えてゐないようである。巴里で學んだ時も伊太利に滞在した年月も判然しない。永い年月となると十年の二字で片付てしまう。十年間関係を續けたとか、十年目に約束が成立つたとか、十年間品物を預かつてゐるとか、十年になるが完成しないとか言われる。年月の單位が十年なのだ。であるからこの稿に記入した時日と年月とは画伯から聞いた儘では安心が出來ぬ。小笠原子爵や副島八十六君や天野亀太郎君に質して訂正したが、それでもまた判然としないのがある。

『川村清雄 稿本』62丁。


ただ、木村駿吉の『稿本』が書かれたとき川村清雄は76歳でしたから、時間的な記憶が曖昧なことも致し方ないのでは、と思われます。


いつまでも着手されない画

遅筆の理由のひとつは、その取材があまりにも入念で徹底していたこと。

川村清雄はどんな画であっても全くの空想で描くことはなく、画題となるモチーフを集めたり、生き物であればそれを飼ったり、剥製を求めたそうです。空想上の動物——たとえば龍——であっても、馬の頭骨などを手掛かりに作品を描いたというエピソードは有名です。


明治二十六年の巳年十二月半ば龍を描く気になって、血だらけな馬の頭の皮を剥いでモデルにし、角は鹿、爪は鷲、背首のあたりのとげとげした部分は栄螺、胴体は蛇を参考に、十二月二十五日より描きはじめ、大晦日の夜の八時頃に描きあげ、勝[海舟]から百円を受け取り、暮の払いをすませたという話である。関如来の伝えるところによれば、馬をモデルに使ったのは、「馬琴の八犬伝に龍首馬首相似たりと、かいてあつたのを、古い記憶から喚起して活用した」のだという。

丹尾安典「川村清雄研究寄与」高階秀爾、三輪英夫編『川村清雄研究』中央公論美術出版、1994年、59頁。



鳩や鴨などになると、飼養して研究した上句描きたい姿勢をしたものを標本師に作らせる。歴史画風俗画有職画であると文書を調べる。山伏を尋ね出して正装をさせる。猿を描くときには猿廻はしを常雇にする。静物画であると、実物でなければ模型を作らせる。貧乏はしてゐても畫の為には費用を惜しまない、借金か入質で辨じていく。構想の容易くまとまるのもあろうし、數年かゝつて苦心してまとめるのもあろう、それを少しも面倒がらずに心行くまで練りに練つてから描き始める。

『川村清雄 稿本』48~49丁。

……画伯の家には今生きた鸚鵡と野鴨がゐる。いづれ画の為に良い姿勢をした剝製となつて、多年養育の恩に報ゆることであろう。

『川村清雄 稿本』54丁。


モチーフとなるオブジェが手に入らず、何年も探し廻っているうちに仕事が立ち消えとなり、悪評だけが残ったという話。


幸田延子女史*に川村画伯の画を贈りたいと云う人があつて畫伯に相談すると、ハープを持つた天人の圖を描こうと言われ、其の圖の有様を眼に見る様に説明された。延子女史もそれを聞て樂しみにしてゐられたが、いつまで経つても描き始めない。川村画伯と云う人は口先きだけで畫を描くのだと評判したものもあつた。三四年の後関係者の一人が別用で画伯を訪問すると、畫伯は壺形パープ[※ハープの誤りか]の石膏模型を示されて、それを手に入る迠[まで]のいきさつを話された。その三四年間は折にふれて東京中の樂器店を尋ねて、普通の形でない壺形パープを探してゐた。新しく輸入され様かとそれも待てゐた。どこにも両側の丸くふくらんだハープがない。神田の店のはこんな形、京橋の店のはこんな形と東京中のハープの形を盡く説明され、偶然中上川家**を訪れると望み通りの形をしたハープがあつた。畫伯の喜びに同情して中上川氏がそれを石膏で作らせたのであつた、天人のモデルはどうする積りか聞かなかつたが、この画は催促する人もなく中途立消えになつてしまつた。

『川村清雄 稿本』51丁。


* 幸田延子(1870/明治3年〜1946/昭和21年):ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育家、作曲家。幸田露伴の妹。
** 実業家、三井財閥の中上川彦次郎のことか。

いつまでも完成しない画

いったん描き始めてからも、画が完成するまでにはかなりの時間を要したようです。


福井菊三郎氏の宅には九尺の鳥の子張りの襖二枚の大作がある。黒塗蒔繪の唐櫃と、能装束と、香袋と、鶴亀の冠と、高砂の面と、伊勢物語のかるたと、小猫とを描いたもので、十年来未了の處も残つてゐる。画伯は良く覺えてゐて、その中に完成すると言てゐられるが、福井家ではまだそれを他人に見せず秘藏してゐると云うことである。この画も完成しないでこの儘の方が最高点にあるのかも知れぬ。福井家の板戸二枚は十年間画伯の宅え預けられてゐて、画伯はその中に描きますと言つてゐられるが、これに描く為の印度産の珍鳥珍獸の剝製は、十年間画伯の家にあつて、羽翼はゆるみ体に虫がついて、見るも哀れな体裁で緣側に整列し、成佛の日を待わびてゐる。 或る人から頼まれた六枚折金屏風は、紫陽花と水の流れが下繪に描かれただけで、十五年間画室に立つてゐる。

『川村清雄 稿本』143丁。


他人から見たら画が完成したといっても差し支えないのに、本人がなかなか筆を置くことができず、また画を納めてからも書き足したくなることも。


畫伯が畫を完成しないと云う風説は事實である。例を擧げてみると某家の大作もお禮を取つた儘十年間一小部分が完成しない。植村家のもそうである。小笠原子爵家のもそうである。併しそれには種々の理由があるらしい。畫伯が豫定の通り下繪に依て描上げると、下絵の紙と本物との相異から、或は又額縁に収めて實際の場所に画を置いて見た後の心持ちから、或はまた画の出来上がつた時にモデルの不足であつた関係から、後になつて少し計り描加えたい氣にもなり、それをまた自分から言い出すので、先方では画がまだ完成しないものと思てしまう。その場合冩生の材料が容易に手に入らなかつたりするとつい延々になる。描き足しに出掛けるのもおつくうである。画伯はこのことを「言い出し屁」と名を付けて時々困つてゐられるが、藝術心の發露であつて何事にも徹底したい性質であるから、この癖は直らぬであろう、自分で言い出さなければ先方では完成したものと思つてしまうのだ。

『川村清雄 稿本』70~71丁。


本人が「完成した」といえば、それで終わりになるのに、そうしないために、結果的に完成していないことになってしまうわけです。

遅筆ゆえの悪評

絵が完成しないことは、直接間接に川村清雄画伯の評判を落とすことになりました。


画伯の画がいつまでも出来上がらないのを怒つて、画伯が伊太利以来使い慣れてゐるパレツトを捕虜に取上げて返さない人もある。……画伯に依頼した者は三年五年と待つてゐるのが中々あるらしい。

川村清雄 稿本』88丁。


悪質なブローカーも。

畫伯の作品を安く描かせて富豪の家に持つて行き、それを大金で賣付るブローカーもあつた。併しこのブローカーの仕事も容易ではない。賣付る時に富豪を口説く勞を別としても、畫伯の所え度々來て催促し、拜み倒して見たり怒て見せたり、大概のものは根氣負けをして止めてしまうのを我慢する。一年で描てくれるか五年の後か分らない。折角出來たものを他のブローカーにせしめられる心配もある。なみ大ていな苦心ではあるまい。商売としてはとても引合わない仕事だから、時たま手に入つたものでしこたま儲けることになるのだろう、今はブローカーの方から手を引てしまつたらしい。併しブローカーの出鱈目の口上の為にどの位畫伯の悪評を招いたか分かるまい。中には畫伯に頼んでやると稱して金子を受取り、畫伯には何も知らせずに自分の懐にねじ込んだ自稱仲介者と云うものもあつたそうだ。この男は無論畫伯に罪を被せる、金を拂つた人も画伯を悪く言振らす。

『川村清雄 稿本』77丁。


こうして世間は川村清雄のことを「のらくら者」と断じることになるのですが、木村駿吉は繰り返し反論しています。


世間は川村画伯はらんだ[懶惰=めんどうくさがり]のらくら者と信じ切てゐる様であるが、實際は全く正反對で、画伯のすることなすことが極めて念入りであつて、一般の畫家と余りに懸離れて丹青を凝らす為に誤解を受けるのであらう。
……參考のために書物を讀むとか、構圖を練るとか、古器物やモデルの品物を集めるとか、見學に行くとかして、それから後に細密な下画にかゝる。海舟伯のお世話になつてゐる間も、冩生に出掛けたり材料を探しに行くと、周圍の心ない人々からまた川村が遊びに行くと噂され、それを少なからず氣に病んだそうである。……世間の人はブラシを手に持て油絵具を塗てゐなければ遊んでゐる様に思うのだが、それは詩人に向て何時でも揮毫してゐろと云う様なものである。

『川村清雄 稿本』56~57丁。


もっともなことです。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

2 件のコメント:

  1. 芸術家だからね、と言ってしまえばそれまでなんですが(笑)。

    納得のいく作品にしたいのは芸術家として当然なこと。でもそれを
    準備も含めて時間内に納めるべき、という意見もあって当然。
    人によって賛否両論が出るのは仕方ないですよね。誤解は別としても。

    職種でいえば違うんですが、デザイナーやイラストレーターや
    漫画家やアニメの作家にも、少し前まではそういうタイプが
    かなりいましたね。作品が良ければそれでも多めに見られてた。
    でも今は許されません。そういうことを一番嫌うディレクターもいる。
    僕はといえば、締め切りに間に合わなくなりそうになると
    夜も寝れなくなってしまう小心者なので、それ以前の存在です(笑)。

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  2. やっとかめさん、おはようございます。

    それで食えるか食えないかが問題ですね。趣味じゃない場合は。

    > でも今は許されません。そういうことを一番嫌うディレクターもいる。

    川村画伯も熱心に支援してくれる人がいた一方で、何度もいろんな人たちに見放されているようですよ(笑)。

    天才の逸話は後で聞く分には良いですが、お付き合いしていた人々は大変だったと思います。

    > 僕はといえば、締め切りに間に合わなくなりそうになると
    夜も寝れなくなってしまう小心者なので、

    爪の垢を煎じて飲みたいと思います(笑)。
    ああ、胃が痛くなってきた。

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