2013年6月15日土曜日

多摩美術大学美術館:コドモノクニへようこそ
04:蠅取り器

家によっては30万匹もの蠅を捕獲した「蠅取りデー」。いったいどのようにしてこれほど大量の蠅を捕らえることができたのでしょうか。

『家庭便利帳』大日本聯合婦人会、昭和11年(1936年)、27頁。

蠅駆除の方法には、主に(1)蠅叩き、(2)薬剤を用いる方法、(3)蠅取り紙、(4)蠅取り器を用いる方法がありました。薬剤は、とくに蛆の駆除に用いられたようです。

蠅叩き

いちばん手軽なのが蠅叩きでしょう。
初山滋の《ハヘトリデー》に描かれたのも、ふつうの蠅叩きでした。


初山滋《ハヘトリデー》『コドモノクニ』昭和11年(1936年)9月号。

子供たちが蠅を捕るときの、基本的な装備だったようです。


小さな蠅取の戦士達は、手に手に蠅叩、ピンセット(これで蠅を挾むのだ)マツチ箱(これに蠅を入れるのだ)等の武器を持つて、家の中は勿論、塵捨場と云はず、食料品店の店先と云はず、遠征に出かけるのである。

貝島慶太郎『随筆集』昭和11年(1936年)、72~74頁。


しかし、この方法では労力の割に捕れる蠅の数は知れていたと思います。ほかにずっと効率的な蠅取りの方法がありました。

硝子製蠅取り器

昭和14年の夏、1週間で32万匹の蠅を捕まえたツヤ子夫人が用いていたのは、硝子製の蠅取り器でした。



……どこにもある硝子の蠅捕り器に水のかわりに石鹸水を入れます、蠅を寄せるのには魚の腹わたを使用します。
これを、庭の隅などに二ケ所置いておくと、たちまちのうちに眞黑くなるほど蠅が捕れます……二ケの硝子器で一日に七萬匹もの蠅が捕れます

『朝日新聞』1939年8月2日、朝刊6頁。

この硝子製蠅取り器は、各地の郷土博物館で見ることができます。これまでに、平塚市博物館、八王子市郷土博物館、昭和の暮らし博物館、上野の下町風俗資料館で見ました。


| hachioji | may 2013 |

ネットで検索すると、復刻品が作られたりもしているようです。
なんとamazonでも売っている。



硝子製はえ取り器

機械式蠅取り器

32万匹の蠅を捕らえたツヤ子夫人は、「今までトリモチ、自動式の蠅捕り器などいろいろ試みましたが、十分な成績があがりません」と述べていますが、この自動式の蠅取り器もなかなかのヒット商品だったようです。


……それから蠅取器械と云ふものがある。これはくるくる廻る機械であつて、蠅が好む食物に釣られて止まると、直ぐに奈落の底に落ちて行くので、面白いほど取れるものである。
伊藤尚賢 編『医学的秘伝百法』京橋堂書店、大正8年(1919年)、288頁。


上の文章と同じものかどうかは定かではありませんが、下の写真のような機械が用いられていました。八王子市郷土博物館の所蔵品です。


| hachioji | may 2013 |

右下部分がゼンマイ式で回転し、そこに止まった蠅が箱の中に落とされるのです。この部分には蠅が好む酢や水飴などを塗っておきます。


| hachioji | may 2013 |

この蠅取り器を製造していたのが、名古屋の尾張時計株式会社と名古屋商事株式会社です。両社とも時計製造の会社であったのは、ゼンマイ機構の製造に長けていたからでしょうか。


蠅取器は尾張時計株式會社並に名古屋商事株式會社の製造する所にして、前者は之れが專賣特許權を後者は之れが實用新案權を有す。尾張時計株式會社は大正元年斯品の發明者大阪の堀江松次郎氏より專賣特許権を継承し、翌大正二年より之れが製造を開始せるものにして、旣に十餘年の閲歴經驗を有するものなり。此の間他に之れが模造品を製作するもの各地に續出する有様なりしが、多くは同社の製品と殆ど選ぶ所なく、或は敗訴し、或は敗爭し、現在前記名古屋商事株式會社時計部が大正十年実用新案の發錄を受け之が製作に從事する外字内全く競爭者なく、最近両社の製造高合計年十數萬個、從來の各種蠅取紙、蠅捕器に代りて廣く國内の需要に應ずる外、支那、馬來半島、印度、南洋等に輸出する額亦巨萬を數ふるものあり。

『名古屋物産案内』名古屋商業会議所、大正12年11月(1923年)、103-104頁。


名古屋商事株式會社時計部が製造していたのが「村瀬式丸ロール蠅捕器」。この蠅取り器は「在來の蠅捕器に存する総ての欠陥を補ひ、蠅を捕ふるに就きては頗る妙を得、毫も他の追從を許さざる特徴を有し、最も完全なりとの定評あり」だったそうです。

下の蠅取り器の製造元は「名古屋発明株式会社」とありますが、これは果たして「名古屋商事株式会社」のことでしょうか。1915年(大正5年)の広告です。



蠅は傳染病の媒介者なり
有功一等金牌受領

最新發明
IS式自働蠅捕器(蚊捕兼用)

廻転ロール上嗜好液に誘はるる蠅は間斷なく内部暗室より捕集籠へと送られ一疋も逃れ得ず巧妙眞に驚くべき器械
贈答好適品座敷の裝飾ともなり堅牢優美理想以上の衞生器
……
製造元 名古屋發明株式會社

『東京朝日新聞』1915年5月30日、朝刊6頁。


いやいや、さすがに「座敷の装飾」にはならんでしょう(笑)。

下の広告はまた造りの異なる蠅取り器です。
この図からは、蠅を捕るしくみがわかりません。



面白いほどよくとれる
ハイトリ器
將に蠅の海に化せんとする東都よ蠅を恐れよ
夜はカトリ器


名古屋市南区新尾頭町廿七の一
製造発売元 長島商會

『東京朝日新聞』1924年(大正13年)5月9日、夕刊3頁。


この広告が掲載されたのは、大正13年5月。
関東大震災後の衛生悪化でハエが大量に発生し、その駆除が問題となっていたころ。
すなわち「將に蠅の海に化せんとする東都」に向けた広告だったわけです。

そして次が「尾張時計株式会社」の蠅取り器。
その名も「ハイトリック」



元祖專売特許
ハイトリック
天下一品

蠅を捕りませう ハイトリ器は 地球馬印に限る
この蠅取器は永久使用が出來、經濟的必要品なり、

製造元 尾張時計株式會社

『東京朝日新聞』1926年(大正15年)6月14日、朝刊7頁。


それにしても、いずれの蠅取り器も名古屋の会社の製造というところが興味深いですね。

* * *

ハエはさまざまな伝染病を媒介するということから、大正から昭和にかけてその駆除のためにさまざまな方策がとられていました。昭和11年の『コドモノクニ』に掲載された初山滋《ハヘトリデー》には、そうした社会的背景があった、という話でした。

はたして最後まで読んだ人はいるのか知らん……。

2 件のコメント:

  1. 最後まで読みましたよ(笑)。
    ハヘがハイになってハエになるまでには
    いろいろありましたね。
    そういえばじいさんはハイと言ってました。

    田舎で農業だから子供の頃は夏になると
    ハエ取り紙がいろんな所に吊るされていました。
    あれ、よそ見してるとペトッと顔に張り付いて
    気持ち悪いんですよね。
    ああいう色のフィルムはいまでもハエ取り紙色
    とイメージして気持ち悪さが甦ります。
    当時はハエたたきで殺したハエも
    そこいら中にゴロゴロしてたし。

    不潔だから駆除、商品獲得のため
    というのはわかるけど
    この頃の人たちはハエの死骸そのものは
    気持ち悪くなかったんでしょうかね。

    返信削除
  2. やっとかめさん、おはようございます & お疲れ様でした(笑)

    東京ですが、私の子供の頃にも台所にハイトリ紙が吊ってありました。ねずみ取りも。蟻も列を作って砂糖入れに向かって行進していました。玄関やトイレにはカマドウマ。いつ頃からでしょうか。蠅叩きを家におかなくなったのは。網戸の普及と相関していそうな気がします。
    いまでも時々ヤモリが天井に貼り付いていることがありますが、どこから入ってくるのだろう(笑)。

    ハエの死骸も、鼠の死骸も、ねえ。1匹2匹じゃないのですから、想像も付きません。衛生観念が違ったのでしょうね。

    返信削除