蠅取りデー
初山滋のユーモラスな絵とテキスト。
「ハヘトリデー」すなわち「蠅取りデー」とは、どのような日だったのでしょうか。
『国立国会図書館月報』に、この絵に関する解説が掲載されていますので引用します。
「ハヘトリデー」とは、何ともユニークなタイトルであるが、実際に行われていた行事「蠅取りデー」である。蠅の根絶運動は、20世紀初頭に衛生運動の一環として、アメリカで始まった。日本では大正期に、当時流行していたコレラの媒介虫として駆除の対象となった。そのキャンペーンとして設けられたのが蠅取りデーであり、1920年[大正9年]、大阪で行われたのがわが国における最初である。東京では、関東大震災(1923年[大正12年])後の衛生状態の悪化から蠅が大発生したため、1925年[大正14年]、東京市全域で8月15日を蠅取りデーとし、一斉駆除が行われた。以後、毎年夏に開催されるようになり、町内対抗や賞品・賞金を出して競わせることもあったため、子どもも大人もこの日はまさに蠅取りにいそしむ1日であった。『岡本綺堂日記』には、1925年[大正14年]の蠅取りデーに岡本家でも103匹を捕え、町内会から賞与としてサイダー1びんをもらったという記述がある。写真1の袋を手に持ち、蠅取りに練り歩くおしゃれでユーモラスなひとこまには、「蠅取りデー」という当時のできごとが巧みに映し出されている。
(1) 日本では大正9年、大阪で最初に行われた。
(2) 関東大震災後の衛生状態悪化から蠅の大発生。
(3) 東京では大正14年8月15日に行われ、以後毎年開催。
※大正13年の新聞に「蠅取りデー」の記事あり。
(4) 町内対抗、賞品・賞金を出して競わせることもあった。
ハエが害虫という観念は現在ではあたりまえのように思いますが、病気をもたらす虫であるとされるようになったのは、20世紀になってからのことだそうです。瀬戸口明久『害虫の誕生』(ちくま新書、2009年、第三章「病気」)によれば、アメリカで「不潔なハエ」の根絶運動が展開し始めたのは1910年代。この頃、チフス、赤痢、コレラ等の病気とハエが関連づけられるようになり、大都市においてハエ駆除のキャンペーンが行われるようになったといいます。
日本の新聞もアメリカでのハエ駆除運動を伝えています。
米國 少年の蠅取戰争
▽各市の行政上に大効果
過日の本紙上に少年團が一擧して市街清潔法を米國の一市に勵行して好成績を収めた事實を記載した、今又茲に掲げるのは米國の三大市に起つた少年蠅驅除軍、之が市の衛生に尠[すく]なからぬ貢献をして居る……
▲死蠅百萬の金字塔
昨年の夏の或日大なる自動車が華盛頓[ワシントン]市の衛生局門前へ横附にされた、ヒラリと飛出したのは可愛の少女、衣摺の音輕くドクトル、モルレーの前に臆する色もなく差出したのは死蠅で充たした一箇の箱……
死蠅の數百二十五萬、之を積んだ時には累々として方五尺、高さ三尺の金字塔が出来上つた、統計表によれば其爲百萬億の黴菌が勢力を失つたとのことである、尤も之には、同地のデーリー、エツキスプレス新聞社が總指揮官となつて成績優等なる者に十弗、五弗、一弗の賞金を提供した
日本でも明治末期から伝染病の媒介としてのハエの危険性が書かれるようになります。
噫彼等の一属は、人生に害毒を流すこと一にして足らず、見よ彼等は汚穢物と吾等の食物との間を往來し、貴重なる吾等の生命を支持すべき食物は、未だ其人の口に上らざるに、旣に不潔なる彼等の口と脚とを以て蹂躙せらるるのみならず、夥しき傳染病の黴菌は、先ず彼等の脚に依つて人の食膳に運ばる、思へば恐ろしき極みならずや。
そして大正期に入ると、コレラ予防のためのハエの駆除の必要が訴えられるようになります。
●蠅を撲滅せよ
▽夏の一番厄介な奴
▽宮島醫學博士談
何處にでも居るので左程恐ろしいとは思はないが夏になつて出て來る蠅は實に恐ろしい危険千萬な代物だ
▲進んだ研究 我々の喰べ物飲物は云ふに及ばず處嫌はず飛んで來る、而も便所に這入り込んで不潔物[きたないもの]の附いた儘の脚で遠慮なく座敷に飛んで來ることは人の能く知る處だ、こんな處から傳染病の病毒を媒介する、昔昆蟲學細菌學の進歩しなかつた時代には唯蠅と云へば五月蠅ものだとばかり思つて居たに過ぎぬのだが最近科學の進歩と共に蠅の研究が進んで、そして恐ろしいことをやるものだと云ふことが判つた……
そうして、大正3年(1914年)に横浜で開催された衛生展覧会では、「チフス菌のコーナーにハエの実物標本がおかれ、病原菌の媒介者としてのハエのイメージを広めていた。さらに一九二〇年[大正9年]以降は、『蠅の展覧会』が独立して開催されるようになる」(『害虫の誕生』123頁)のです。
関東大震災と蠅
関東大震災後の衛生状態悪化は、ハエ駆除運動推進の契機になりました。東京で「蠅取りデー」が行われるようになったのも、大震災の翌年です。大正13年(1924年)初めから、伝染病の流行とハエ駆除を訴える記事が見られます。
ただし、当初は東京市が予算と人夫を出しての駆除活動でした。
市内一齊に蠅退治をやる
來る二十五日頃から
傳染病は例年の三倍
東京の傳染病は腸チブスを筆頭に昨年來本年に入つて、愈猖獗を極めて居る、本年一月中腸チブス患者は七百五十二名。二月は十日迄毎日三十名の
新患者 を出して居る、この分で行けば今年は平年の約三倍位の患者卽ち一萬七千名位に達しその他の傳染病も之に準じて餘程多數に上る虞れがあるので東京市は警視廳と相談を重ねた結果徹底的に蠅の退治を行ふ事となり十五萬円の豫算で來る二月二十五日頃から各區役所で
延人員 三萬六千人の人夫を使役して一齊に蠅の蛹を退治する事となつた、これには警視廳の防疫官も出張して人夫を督勵する筈である
15万円という予算が妥当であったかどうか。この記事がでたあとに、読者からの投稿でいくどか議論がなされています。その中には、東京市部だけで駆除しても、市外からいくらでも飛んで来るではないか、という意見もありました。
* * *
夏になると、子供たちへの啓蒙活動が検討されます。
まさに初山滋《ハヘトリデー》の背景とも言えましょう。
子供へ
蠅退治宣傳
警視廳大活動
愈蠅の全盛期が近づいて來た昨今警視廳では十五班の蠅驅除隊が市内の集團バラツクを片つ端から廻つて宣傳につとめてゐるが警視廳では此の際小供達の心に蠅の恐ろしい事を徹底させるため蠅についての作文や自由畵を作らせたらといるので學校當局とも協議して見度いといつてゐる
6月には「蠅取りの競争」という記事が見られます。つまり、市がお金を出して駆除するのではなく、住民たちの自助を促そうというわけです。これは大きな方針転換ですね。
浅草區
蠅取りの競争
傳染病豫防に關しては各人の自覺に俟つて自家の下水掃除は自ら行ふ事とし區としては排除した汚物を取片附け消毒劑を散布してゐるが近く蠅の驅除の爲蠅取り日を定め最も成績のよい町会には褒状を与へ各町の競爭に依つて好結果を収めんと試みてゐる、患者の發生數は例年と大差ないが公園、今戶、待乳山、田中町、本願寺等のバラツクには目下豫防注射を施行中である一月以降の發生患者數は腸チブス百六十三名赤痢十四名、猩紅熱廿一名ヂフテリヤ六十六名、痘瘡二名、流腦六名バラチブス三名疫痢二十八名であるがヂフテリヤと疫痢とが他區に比して著しく多い
麻布區
蠅退治の映畫 二十二日午後七時より北日ケ窪町町會、二十三日午後七時より一本松町町會、其他續々開會せられる模様である
大正13年の時点で、「蠅取り日を定め」、「最も成績のよい町会には褒状を与へ」ていたということになります。また、別の町会では「蠅退治の映畫」上映もあったと。
また、同年8月16日付の新聞は、警視庁象潟署(浅草区)では毎月三回3の日に「蠅取りデー」を行うことに決定したと伝えています。
「ハエ取り紙」の需要も増大しました。たとえばマスキングテープmtの製造元として知られる「カモ井加工紙」は、1923年(大正12年)に岡山に創業した「ハエ取り紙」メーカーですが、売上が増大し、経営に追い風となった背景として大震災後の衛生悪化があげられています。
昭和2年7月20日
さて、「蠅取りデー」の記事は昭和に入ってからたびたび見ることができます。昭和2年(1927年)は、7月20日に東京市でいっせいに「はへとりデー」で行われました。
はへ取り總勘定
さすが淺草が大關格
深川では個人で五萬二十匹
二十日市内一せいに行はわれた『はへとりデー』の獲物の數(判明した分)は左の通り
◇深川扇橋署管内 富川町廿八萬七百四十五匹(個人富川町卅一飲食店沖野良亮五萬二十匹)
◇浅草象潟[さきかた]署管内 百三十二萬九千七百七十匹 一升を一萬五千匹と換算して八斗八升六合五勺
◇浅草日本堤署管内 九十二万八千六百六十二匹
……以下略……
個人で捕獲した最大が5万20匹!
岡本綺堂の103匹なんて、ものの数に入りませんね……。
5万匹もの蠅をどうやって数えたのかといいますと、容量での概算ですね。上の記事には「一升を一萬五千匹と換算」とありますし、少量ではマッチ箱1つ分を100匹ともしたようです。
でも、実際にひとつずつ数を数えることもあったようです。下の写真は、集められたハエの死骸を数える(!)大阪府の技師……(大正11年3月)。
(買収した三十五萬の蠅は斯くして調べられつつある)ですって。
昭和3年7月20日
この年7月20日に「蠅取りデー」が行われました。
二十日は
はへ取り
市郡一せいに
警視廳防疫課では二十日はへ取りデーを行ふ事になり市郡七十四警察署と協力してはへのぼく滅を期する事となつた
ただし郡部では澁谷、戸塚、落合野方、龜戸、大島、砂町、小松川の八ヶ町は町役場の都合で同日一緒に行ふが出來ないとごたごたを起こしてゐるので同課では極力一せいに行ふ様勤めてゐる
昭和4年7月20日
廿日全市に
はへ取りデー
東京市保険局では傳染病豫防対策として來る廿日例年通りの「はへ取りデー」を全市一せいに行ふ事になつた、當日は衛生課が各警察署町會と連絡して大活動をするはず又國民保険協會でも當日腸チフス豫防デーを催し、講演會、映畫會、豫防注射等で豫防宣傳を行ふ
この年の「蠅取りデー」の結果は以下の通り。
はへ取デーの
氣味惡い精算
捕へた總數五千四百萬匹
市内の大關は本所
毎年年中行事の一つとし行はれるはへ取デーは去る二十日市郡一せいに行われたがその精算が出來た
それによると捕らえられた東京全市のはへの數は五四、一八三、八二六匹でざつと本州の人口位の數、その内譯は
本所が一番多く一〇、八二八、〇二八匹▲麹町が一等少くて八四九、〇〇〇匹
……(郡部略)……
これを升で測つて見たら六十一石七斗八升二合に達した、これだけのはへを想像して見ると如何にも氣持ちが惡い、元來はへの數は年々減少の傾向にあるのだが今年は昨年、一昨年より多いといふ奇現象を呈してゐるがこれは一般の衛生思想が發達して出來るだけ捕ったといふ結果とも見られる、はへ捕りデーでもつとも澤山捕つた家は本郷區根津宮永町二六道正魚店でその數驚くなかれ十一萬四千三百六十四匹!
個人で 11万4364匹!
ものすごい数ですが、鮮魚店にこんなにたくさんのハエがいてよいのでしょうか……。しかし、10年後にはもっと大変な記録を見ることができます。
昭和10年7月20日
ハヘ取り成績
百七十六俵
最高は九萬三千匹
◇…昨年より八萬匹多い
……最高記録は荏原區大崎町の魚屋さん龜井虎太郎方の九萬三千匹で八萬以上捕まへたのが三名もゐるという例年にない好成績、防疫の元締警視廳の井口防疫課長は大喜びで——
去年より八萬二千匹許り多かつた、女や子供の手で恐るべき夏の傳染病を驅逐出來る訳だ、平常もこの調子だといいがなあ
——といつている
『朝日新聞』1935年(昭和10年)7月23日、夕刊2頁。
やはり魚屋さんはハエが多いですね。
昭和14年7月27日/蠅取り名人 驚異! 一週間に32万匹
ご覧いただいたとおり、捕獲数を競わせるという政策は見事にその目的を果たしていたようです。
昭和14年には個人での捕獲数が30万匹を超えました。
蠅取一人で卅二萬匹
去る二十七日の全市蠅取りデーの結果を二十九日午後警視廳で調べたところ総數八千五百二十一萬二千四百九匹、五十六石八斗一合と云ふ驚異的數字を示した。
これを區別にすると一位が荒川区で七百七十八萬一千六百九十三匹、……最も少いのは麹町區の六萬二百四十九匹、個人での一位は麻布區北日ケ窪三七無職小塚定吉さんの三十二萬匹で但しこれは數日かゝつて貯へたもので二位が大森區雪ケ谷三一〇養鷄業羽田三郎氏の三十萬、三位が目黑區上目黑二六八魚商出村義三氏の十五萬であつた。
昭和14年の「蠅取りデー」で、個人で最大の捕獲数を記録したのは、麻布区の「無職小塚定吉さん」とあります。1日ではなく、数日かかってとのことですが、32万匹という大変な数です。2位の養鶏業、3位の鮮魚店なら、蠅が多いのも想像できますが、小塚さんの家ではいったいどのようにしてこれだけの数の蠅を捕獲したのでしょうか。
8月2日、小塚さん宅に取材した記事が出ました。7月30日の記事では「無職」「小塚定吉」とありましたが、ここでは「著述業」「小塚貞義」となっています。貧しくて暇だけはある人のやったことかと思いましたら、違いました(失礼!)。住所「麻布區北日ケ窪町」は現在の六本木ヒルズのあたり。女中さんが二人いる、立派な邸宅だったそうです。
蠅取り名人
驚異!一週間に三十二萬匹
誰でもやれる祕訣
東京市の蠅取りデーで総數八千五百二十一萬二千四百九匹、五十六石八斗一合といふ□凄い數字を示しましたが、さて箇人の一位は麻布區北日ケ窪町四一著述業小塚貞義氏の三十二萬匹といふ驚異的數字でした。このやうに蠅を多數捕獲したので、蠅のうぢやうぢや居る不潔地帯かと思つて行くとこの北日ケ窪町は清潔な町、しかもそのお宅は宏道[?]な立派なお邸で門をくぐつても蠅一匹も居ないといふ有様、いさゝか面喰らひましたが、矢張り一週間に三十二萬匹もの蠅を捕つたお邸に間違ひない。ツヤ子夫人に蠅捕りの祕訣を伺ひました
◇……◆『蠅ほどうるさい、非衛生的のものはありませんので、宅では今までトリモチ、自動式の蠅捕り器などいろいろ試みましたが、十分な成績があがりません、それでいろいろ工風して獨特の方法を考へ出したのです。どこにもある硝子の蠅捕り器に水のかわりに石鹸水を入れます、蠅を寄せるのには魚の腹わたを使用します。
これを、庭の隅などに二ケ所置いておくと、たちまちのうちに眞黑くなるほど蠅が捕れます、蠅の死體は不潔ですし、ウジもわくので一定の消毒器の中に入れて置きます。
座敷や室内では使用しませんが戸外で蠅をみんな捕つてしまふので座敷や臺所には一匹も來ませんのでまことに淸潔です、どのお宅でもこの方法でお捕りになるやうにおすゝめします。二ケの硝子器で一日に七萬匹もの蠅が捕れます
あまりに多く捕れるので警視廳でも不思議に思つて調べに來ました
食物店などにもこの方法をすすめて居ますが、あまり澤山捕れるので店が不潔なやうにお客に思はれるの困るといつて、實行して呉れませんが、食料品店、飲食店など全部で實行してくれるといやな、うるさい蠅は根絶出來るでせうに——』
◇……◆この邸では毎年の蠅捕りデーに必ず二十萬匹以上の蠅を捕つて警視廳に持ち込んで居るのですが今年は遂に第一等の榮冠?を得たわけ、賞品の反物二反を貰つて世話役の女中さん二人に分けやうかなど処分が家庭の話題に上がつて居ます。【寫眞はその蠅捕り器とツヤ子夫人】
捕獲数のすさまじさもさることながら、その褒賞「反物二反」とはまた豪華な賞品ですが、こうした様々な賞品が人々のモチベーションを高めたことは間違いありません。他にはどのような賞品が用意されていたのでしょうか。
長くなりますので、またまた続きます。
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