2013年6月9日日曜日

世田谷美術館:暮らしと美術と高島屋:
「文化装置としての百貨店」とはなにか。


「暮らしと美術と高島屋—世田美が百貨店のフタを開けてみた—」
2013年4月20日(土)〜6月23日(日)
世田谷美術館

1831年(天保2年)に京都で創業した高島屋には、すでに180年という歴史があります。歴史があるばかりではなく、高島屋は大阪に「高島屋史料館」を設置し、企業史料を一般に公開をしている素敵な会社でもあります。私は10年以上前に訪問したことがあります。


史料館にはさまざまな会社資料が保管されているようですが、これを美術館的な視点から紐解いたらなにが何が見えるのか。世田谷美術館で開催されている「暮らしと美術と高島屋」展はそんな主旨の展覧会です。

展示内容につきましては展覧会サイトを見ていただくとして、ここでは極く部分的な感想のみを記します。

展覧会の軸は「文化装置としての百貨店」です。

百貨店というのはただモノを売るだけの場ではない。たとえば、自分の子供の頃を思い出すと、エレベーターやエスカレーターがあるのは、百貨店や駅ビルでした。もちろんオフィスビルにはあったでしょうけれども、子供が乗る機会はありません。屋上遊園地には、動物がいたり、乗り物などの遊具がありました。食堂街には近所では見たことがないような料理のサンプルが並んでいました。最初に見た展覧会も百貨店の催事場でのことであったと記憶しています。(その反面、子供の頃に百貨店で何かを購入したという記憶がほとんどありませんが……)

展覧会図録には銭湯研究家の町田忍氏(1950〜)の文章が引用されています。


デパートなんて、一般庶民は年に何回も行けるものではなかった。当時、デパートへ買い物に行くとなったら、それこそ家族全員が、めいっぱいお洒落をして出かけるのであった。まずデパートに到着すると、エスカレーターやエレベーターに乗るのだが、当時はエスカレーターの横にも女性店員さんが白い手袋をして深々と頭を下げてたっていたもので、子供心にも、それは少々気分がよかった。エレベーターに乗る、ということ自体がまだ非日常的体験の時代だったわけだ。

『暮らしと美術と高島屋:展覧会図録』世田谷美術館、2013年、15頁。


かように人々にとって、そして町田忍氏よりもずっと年下の私にとっても、百貨店とはモノを買う場である以上に、非日常的な体験を得る場であったわけです。だから、百貨店は「文化装置」なのです。しかも、三越にせよ、高島屋にせよ、いずれも長い歴史をもっている。独自の知識や文化を蓄積している。そしてなによりも、日々変化しながらも現在も営業している。

1998年に資生堂が「美と知のミーム」と題する展覧会を開催しました(六本木・オリベホール:1998/10/3〜10/25)。「ミーム(meme)」とはリチャード・ドーキンスが提唱した言葉で、「文化的遺伝子」とも訳されます。生物の遺伝子のように直接子孫へと受け渡されるものではありませんが、社会や企業の文化は、自然と次の世代へと引き継がれてゆく。そんな現象を指しています。資生堂のものづくり、製品、パッケージ、広告の背景に根差している文化の継承を、このときの展覧会では「ミーム」という言葉で表したわけです。


おそらく高島屋にも同じことが言えるのではないかと思います。京都において呉服商として創業したその遺伝子は現在まで引き継がれ、彼ら独自の文化を形成しているように思われるわけです。展覧会で紹介されている「上品会」、「百選会」といった呉服づくりの催しにもそのような伝統と文化を見ることができましょう。しかもそれはただ伝統を守るということではなく、新しいモノを生み出すしくみとして作用しているという点は指摘しておく必要がありましょう。

* * *

ではそのような文化が生み出された背景には何があるのか。
そこには、百貨店界における高島屋の位置づけがあります。

日本の百貨店には、呉服商を出自とするものと、電鉄系とのふたつがあるそうです。三越、松坂屋、高島屋は呉服商。阪急、東急、西武等々は電鉄系になります。電鉄系の百貨店が登場するのは昭和に入ってからですので、歴史でいえば、呉服商系がずっと古い。しかしその中でも1831年創業の高島屋は比較的新しいのだそうです。なにしろ、三越(越後屋)の創業は1673年。松坂屋(いとう呉服店)は1611年。大丸は1717年ですから。

高島屋は他の百貨店(呉服店)に先駆けて、染織品を内外の博覧会に出品していきます。その端緒は、明治10年(1877年)の第6回京都博覧会。国外の博覧会への出品は、明治21年(1888年)のスペイン・バルセロナ博覧会。こうした博覧会への出品は、当初は工芸品の海外への輸出取引の獲得を想定したものであったようですが、各種の博覧会で賞を取ることによって、国内に向けた自社製品のブランド・イメージの形成が博覧会への出品の目的に変化していったようです(藤岡里圭『百貨店の生成過程』有斐閣、2006年3月、第1章)

こうした戦略の変化が顕著に現れたひとつの例が、1900年(明治33年)のパリ万博です。

このときの高島屋の出品作のひとつに、ビロード友禅の大壁掛《波に千鳥》がありました。この作品が博覧会場を訪れていた女優サラ・ベルナール(1844-1923)の目に留まりました。彼女は「是非共自分の居宅の壁飾に用ひたきが、寸法を見る爲自宅へ持参せよ」と無茶な要求をします。この人物が名優サラ・ベルナールだと知った担当者は、なんとか彼女のために便宜をはかり、博覧会の会期中にもかかわらず、彼女の居宅に壁掛けを納めます。「本出品は開會中途に引上げし爲審査も受けられず、随[したがつ]て博覧會記録より除かれ居るも、高島屋出品中の有名なる逸話として今猶人々の記憶に存せり」。


『高島屋百年史』1941年、98頁。

博覧会の審査を受けられなかったばかりではなく、サラ・ベルナールからはその代金を受けとるにも困難があったようですが、損して得取れというとおり、「當時この大壁掛の同優に買はれたることは博覧會場に掲載されたるのみならず、巴里各新聞に掲載せられ、大に街頭の話題を賑はせり。尙此のこと日本の各新聞にも傳へ掲げられ、高島屋の名聲は内外に響けり」だったそうです(『高島屋百年史』98-99頁))

さて、『高島屋百年史』にはもうひとつ、当時の高島屋の名声を高めたであろう逸話が掲載されています。本文を引用しましょう。




「ヒツトラー」總統への贈進の綴錦

昭和十四年九月、獨逸國「ニユールンベルヒ」市に於ける「ナチス」黨大會に「ヒツトラー」總統より招待を受け、國賓として出席せらるゝ藤原日本遣獨使節は、其の土産として我が國現代美術品を代表する適當品なきやと夫々物色中の處、幸ひ高島屋製品の綴錦の大壁掛一對(一枚七尺巾十三尺丈)が其の選に入り、「ヒツトラー」總統へ贈進せらるゝことの名譽を得たることは、洵に欣幸とするところなり。此の綴錦は川端龍子畫伯の丹靑になれる畫題「海洋の鷗」を原圖とせるものにして、太平洋岸、波濤巖壁を噛み、飛沫四散して雲翳に映帶し、海鷗翼を張つて洋上を飛び、紅嘴を上下して巖頭に憩ふ、雄大孅姸相諧和せるもの、施工以來約三箇年を費やしたる近來の大作なり。

『高島屋百年史』1941年、447〜449頁。


「藤原日本遣獨使節」とは、製紙王・藤原銀次郎氏(☞ kotobank)。

この「土産」はかなり話題になったようで、新聞にも記事が出ました。




盟邦ドイツへ豪華なお土産!
ヒトラー総統へ
綴れ錦大壁掛
博物館へ 巨匠の力作六十點
遣獨使節 藤原さんの會心


わが産業界を代表して今秋九月南ドイツ・ニユルンベルグで開かれる第十一回ナチ党大會に招かれて出席する藤原銀次郎翁の盟邦へ贈る豪華なお土産がきまつた。ヒトラー總統へ贈られ總統の間の壁を飾る藝術日本の精粋、川端龍子作『潮騒』を六尺に十二尺の綴れ織二張の壁掛に仕立てたものを筆頭にこれに盟邦國立博物館を飾る大観、栖鳳、玉堂ほか現代日本畫壇を代表する六十一畫伯の名作が藤原翁自身の宰領でドイツに運ばれる計畫で見積り價格は總額數十萬圓に達してゐる、この盟邦への贈りものは出發に先だち八月一日芝の美術倶樂部でドイツ大使館、日獨文化協會、美術関係者等に展観、お土産の壮行會を開いていよいよ五日横濱出帆の日枝丸でアメリカ經由で出發する翁とともにドイツへ渡ることになる
……
藤原翁からヒトラー總統に贈られる綴錦織一対の壁掛は川端龍子畫伯が四曲一双に描きあげた「潮騒」で各六尺に十二尺の大きさで製作にあたつた京都高島屋では制作日數三ヶ年、延人員四千六十人、絹糸五貫目と金糸二千四百五十束、染糸は浪色を現す藍だけでも八十五色、靑磁色八十五色といふデリケートなもので四曲一双に描き上げられた原畫の豪宏繊細な色調が遺憾なく再現し 太平洋の巨濤に屹立する嚴頭に鴎群れ遊ぶ雄大な畫柄は新興ドイツと海國日本の有効を表徴する絶好の記念品として永く總統の間を飾ることにならう

『読売新聞』1939年(昭和14年)7月27日、夕刊2頁。


この綴錦は1939年10月に総統の手に渡ったようです。



大壁掛にヒ総統滿悦
藤原翁の土産贈呈


【ベルリン廿四日発同盟】 大島駐獨大使は近く歸朝することとなつたので廿四日午後四時總統官邸に赴きヒトラー總統と會見離任の挨拶を述べ、日獨関係につき會談を遂げた、席上大使は井坂孝、藤原銀次郎両氏からヒトラー總統に贈られた金屏風二双と綴れ錦の壁掛けを贈呈したが日本美術に多大の興味を有するヒ總統はこの見事な贈物に非常な感銘を受けた模様であつたといはれる

『読売新聞』1939年(昭和14年)10月25日、朝刊7頁。


この逸話は1941年に刊行された『百年史』には掲載されていますが、戦後1968年(昭和43年)に刊行された『135年史』には掲載されていません。時代背景、国際関係が変化しましたので、当然ですね。しかし、当時の日本とドイツとの関係を考えれば、これは相当な名誉であり、製品の質の高さを示す絶好の機会であったことは間違いないでしょう。

これらの話が今回の展覧会にどのようにつながってくるのかといえば、すなわち、百貨店というのはセレクトショップではなく、モノをつくり、価値をつくり、文化をつくりあげていく存在であったということになりましょうか。安く仕入れて高く売る、ということは商売の基本かも知れませんがそれだけではない。呉服をつくるには、絵を描く画家がいなければならない。糸をつくり、染める職人がいなければならない。織を行う職人がいなければならない。出来上がった商品を売る場がなければならない。そうした場を訪れる消費者がいなければならない。購入した着物を着てゆく場がなければならない……。つくる、売る、見る、買う、消費する。そうした生活と文化のエコシステムが回っていなければならない。もちろん、これは高島屋だけの話ではないと思いますが、高島屋がその初期から関わってきた呉服と美術の関係を軸にして考えると、「文化装置としての百貨店」の意味、そしてこれからを考えてゆく手掛かりが得られるのではないかと思うのです。

展示は「百貨」の通り非常に多岐にわたっており、やや文脈が分かりにくいところもありましたが、「企業」「美術」「工芸」が織りなす「歴史」を展観する、ハイブリッドで、大変意欲的な企画です。

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チラシの意匠は百貨店の象徴でもあるエレベーター。
会場入口で流れているエレベーター・ガールのアナウンスも、本職の方にお願いして録音したものだそうですよ。

そしてその展覧会チラシにはちょっとした仕掛けがあるそうです。
お手元のチラシをよく見てみてください。


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展覧会の特別前売り券は、関連する4つの展覧会のチケットと、こちらのローズちゃん、



そしてローズちゃんブックが付いてくるという、たいへんお得なものでした(笑)。



おまけに、5月26日に開催された展覧会関連座談会では、お土産に美術家ミヤケマイさん意匠の風呂敷もいただいてしまいましたよ。

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