『BRUTUS』とか、『PEN』とかの雑誌に特集されやすいデザイナーっていますね。どのような傾向があるのでしょう。私の印象としては、建築系と椅子系。ル・コルビュジエと働き、建築のみならず多数の家具デザインも手掛けたペリアン最強、ということでしょうか。
来年4月には目黒区美術館に巡回するそうなので(2012/04/14〜06/10)、急いで見に行く必要はなかったかも。
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シャルロット・ペリアン(1903-1999)は商工省の招聘により1940年8月に初来日しています。目的は、外貨獲得のための輸出品開発。1941年12月に離日するまで1年以上日本に滞在し、各所で見学、調査、講演等を行なっています。
今回の展覧会は、ペリアンが日本で何を見て、何を学んで、それが彼女の作品にどのような影響を与えたのか、という視点から構成されています。逆に言うと、ペリアンが日本に与えた影響という点はあまりありません。これは今回の展覧会を企画・監修の中心がフランス人研究者——ボルドー第三大学のアンヌ・ゴッソ女史——であったためもあるでしょう。その代わり(?)、シャルロット・ペリアン・アーカイヴからの豊富な資料を見ることができます。図録は市販されていますので、予習してから訪ねたほうがよいかもしれません。
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以下、メモランダム。
ペリアンは、日本滞在の成果を「選擇・傳統・創造」という展覧会に結実させます。しかし、坂倉準三や、柳宗理、民藝関係の人びとなどの彼女の周囲、招聘に尽力した人びとは除き、日本のデザイン工芸関係者の印象はあまり肯定的なものではなかったようです。
「選擇 傳統 創造」展直後に開かれた座談会では、山脇[山脇巌(1898-1987)]は日本のモダニズムが達成したものをペリアンが十分認識できていないことに不満を示し、勝見[勝見勝(1909-1983)]は自然物をそのまま室内に持ち込むことには抵抗感があると強く表明している。また、剣持勇(1912-1971)は展示作品が量産家具としては実験段階であることを確認している。
『シャルロット・ペリアンと日本』鹿島出版会、2011年11月、128頁。
私はこの話を以前東京国立近代美術館の学芸員の方からうかがっていたのですが、今回の展覧会ではややオブラードに包んだ表現をしています。
このあたりの批判は、「輸出工芸」という視点から外国人の見た日本の工芸と、諸外国に学びそれを目指した日本のデザイン運動との温度差を感じます。つまり、日本の工芸関係者が目指していたものと、諸外国—ここでは欧米—の市場が求めていたであろう日本のイメージとの間には大きな落差があったのではないか。ペリアンはフランス人として、アジアからの輸入品に求められるものを指摘したが、日本の関係者は欧米への接近を求めていた。欧米は自分たちにないものを求めているのに、日本は欧米的なものづくりを目指している。そんなギャップがあったのではないかと思うのですが、これは要検証です。
また実際的な批判の他に、彼女が女性であったことに対する偏見のようなものもあったのではないか、という印象もあります。
……ペリアン女史はまだ若い。いたづらっぽい目と、ピチピチした肢体とを持つ少女のような感じの人である。……
水澤澄夫「ペリアン女史作品展の示唆するもの 日本の傳統について」『造形藝術』第3巻第5号、1941年5月、32頁。
このとき、彼女は30代後半だったのですけれどもね。
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