2009年11月11日水曜日

デザイン史におけるカーデザイン(2)

カー・デザインの歴史の語りかたには、ほかにどのような方法があるのだろう。どうも、総合的なデザイン史の文献で車のデザインの歴史について読んだ記憶がない。改めて手元にあるいくつかのテキストを開いてみた。
デザイン史におけるカーデザイン(1)

のつづき。

『日本デザイン史』。





『世界デザイン史』から9年。「カラー版シリーズ『世界デザイン史』の隣に『日本デザイン史』が並ぶのが願いだった」(「おわりに」)とある。本書において「カーデザイン」はどのように取りあげられているのだろうか。

世界デザイン史』では、その名の通り世界各国のデザインを取りあげるという構成上、個々の事例について多くを語ることができなかったとしても、やむを得ないだろう。一国のデザイン史に限定する本書は、前掲書と比較してカーデザインについて多くの紙幅を割いている。

またもや写真図版を手掛かりに自動車デザインへの言及をピックアップしてみた。全部で6箇所と、言及数としては『世界デザイン史』と変わらないが、その密度と視角は全く異なっている。

(引用1)流線型と満州文化
……豊田自動織機製作所が自動車部を設け、1936年に流線型乗用車トヨダAA型を発表する。……
『日本デザイン史』、59-60頁

(引用2)インダストリアルデザイン誕生
図版「マツダ360」キャプション
小杉[二郎]は1948年から12年間東洋工業の小型三輪トラックのデザインを担当した
『日本デザイン史』、76-77頁

(引用3)カーデザインの黎明
家電と並び、1950年代から製造が本格化したものに自動車がある。GHQによって禁じられていた自動車生産が許可された1947年から、多くのメーカーが海外のクルマのノックダウン生産によって技術的な遅れを取り戻そうとした。「自動車元年」の1955年。二台目カーから戦後初の本格モデルが登場した。トヨタ自動車工業の「トヨペット・クラウンRS」と日産自動車の「ダットサン110」である。
同年、通産省は「軽自動車育成政策概要」を発表。この思案は各社が開発したクルマから一車種を選んで共同生産しようという<国民車構想>だった。……だが自動車工業会はこの思案を退け、各社独自開発に乗り出した。その成果が<てんとう虫>と愛称される富士重工業の「スバル360」である。
……乗用車を初めてデザインする佐々木達三は、スケッチは描かず、粘土モデルを削りながら仕上げた。……
1950年代後半発表のダイハツ「ミゼット」、トヨタの大衆車「コロナ」、日産の「ダットサン310」は、いずれも社内デザイナーにより機能的なデザインにまとめられている。ブルーバードをデザインした佐藤章蔵は、強い外国車の新傾向が現れても蒙る影響が少ない「自立的なデザイン」を指向し、「だから、ブルーバードには、誇張、テライ、追随、奇矯などによるアトラクションは存しない」と述べている。一方、トヨタの事実上の初代デザイン部長となる森本眞佐男はロサンゼルスアートセンターに留学し、米国流のカーデザイン手法を日本にもたらした。
本田技研の……「スーパーカブC100」は1959年に発売され、まずアメリカに輸出された。……チーフデザイナーは本田宗一郎、デザイン開発を行なった造形室は新卒で入社したばかりの木村譲三郎と森泰助にモデラーが一人だけ。……
ヤマハはGKインダストリアル研究所のデザインによる「YD型250cc」を発表。50年代は企業のトップとデザイナーが密接な関係をもち、思い切ったデザインができる時代だった。……
自動車やバイクのデザインは、この時期に日本初、世界商品となるデザイン手法が芽生え、その後過当競争によるスタイリングとマイナーチェンジの時代に突入するのである。
『日本デザイン史』、88-89頁

(引用4)マイホームとマイカー
「マイカー元年」と言われるようになったのは1966年。この年、自動車生産台数が220万台を超え、アメリカ、西ドイツに次ぐ世界第3位に躍り出た。前年には自動車の輸入自由化が実施されていたが、自動車会社各社は量産体制も販売網もすでに外国車に十分対抗しうる状態だった。レジャーブームを背景にマイカーの需要が大きく伸びたのだ。
同年、日産自動車から「サニー」が、トヨタ自動車から「カローラ」が相次いで発売された。……双方とも低価格の乗用車として売り出され、激しい販売合戦が繰り広げられた。……トヨタは1968年に初めてCADシステムをデザインに導入している。
広告でも、トヨタの広告を手がける日本デザインセンターと日産を手がけるライトパブリシティが競った。1967年の3代目クラウンでは法人向けカラーであった黒とは正反対の色である白をプロモーションカラーとして設定し、個人需要開拓に成功した。……
『日本デザイン史』、99-100頁

(引用5)日本車神話と貿易摩擦
西ドイツを抜いて日本が世界最大の自動車輸出国になったのは1974(昭和49)年だ。……日本の自動車産業を国際舞台へと大きく飛躍させる引き金となったのは、排ガス規制と2度の石油ショックだった。
口火を切ったのは、1972年発売の本田技研工業の「シビック」である。……本格的な大衆車としての経済性を実現するための徹底した小型・軽量化と十分な居住空間の確保を両立することが目標に掲げられた。この条件を満たすために生まれたのが、居住空間とトランクが一体となった2ボックス、FF(前輪駆動方式)横置きエンジンという、当時の日本車にはなかった仕様だった。
導き出されたサイズは5立方メートル。デザインを担当した同社の岩倉信弥は、全長を短く抑えるためにトランクのスペースを削り、「どこから見ても台形」と言われた、独特の3ドアハッチバックのスタイルをデザインした。流れるようなラインが美しいとされた当時のスタイリングの常識に反するデザインだったが、発売1年後には8万台を販売する大ヒットとなった。
……[日本車への追い風となったマスキー法について記述]……
世界中の自動車メーカーを巻き込んでの小型車競争が米国市場を舞台に繰り広げられた1980年代、日本の自動車メーカーは、米国市場、さらに世界市場に向けて、次々と小型モデルを発表し、その経済性と性能、多様なデザイン性で圧倒的な強さを見せる。
こうした背景には、合理的な生産方式と品質管理システムの支えがあった。特にトヨタが1950年頃から約20年かけて開発した「かんばん方式」には多くの自動車メーカーが関心を持った。これは、……多様な車種を同じラインで組み立てられるメリットもあった。また各社とも、欧米に開発(R&D)およびデザイン拠点を設けて国際化を図っていた。
『日本デザイン史』、131-132頁

(引用6)エコパッケージとエコプロダクツ
エコプロダクト初期の代表は1973年、アメリカでの激しい排ガス規制マスキー法を世界で初めてクリアした低公害エンジン「CVCC」を搭載したホンダ「シビック」に間違いない。そして90年代を代表するのはトヨタ「プリウス」(1997年)。電気モーターとガソリン・エンジンを組み合わせた5人乗り量産のハイブリッド乗用車だった。……特別な操作や充電の必要がなく、全長を短くしながら背を高くしてパッケージ効率を高め、それまでの「低く長く」というセダンと異なる骨格を提示し、「誰もが普通に運転できる」デザインだ。エコデザインとは新技術が技術の負の部分に挑戦する作業であり、エコデザインであることをことさら表現する必要がないことも確かだ。
『日本デザイン史』、145頁

いずれも自動車のデザインについて取りあげているのだが、それぞれの引用箇所でその文脈がまったく異なっていることが分かるだろうか。(1)は流線型の流行という文脈、(2)はインダストリアル・デザイン/デザイナー誕生の事例として、(3)はカーデザインにおける人と技術、(4)は国内需要の文脈、(5)は海外需要、(6)はエコロジーである。

別にクルマのデザインに限らないのだが、このように通史を扱った文献のなかでは、ある産業、企業、製品群における通時的な変化をたどることは難しい。これら通史は主にデザイナーやデザイン運動、様式に焦点を当てているので、連続性よりも時代区分による差異が強調されがちなのである。それゆえ変化を連続的に見ようと思っても、時代における文脈が異なるので相互に比較し辛いのである。

編集方針としては、デザイン運動史にとどまらない、産業社会史、生活文化史的側面からの記述を加え、プロダクトを主軸に据えつつも現在成立しているデザインの各ジャンルをカバーすることとした。
『日本デザイン史』、131-132頁

その意味で、平塚市美術館の「カーデザインの歴史」展が、デザインそのものではなく「スタイリング技法の変遷」に焦点を絞ったのは、「統一された視点から変化を見る」ひとつの方法として評価されると思う。

もっとも、たとえば、「椅子のデザインの歴史」というテーマで何が描けるか、ということを考えてみると、ある特定のジャンルの製品の歴史を描くことの難しさが想像できる。同時代性という文脈での、他のデザイン、デザイナーとの比較を除くと、個々の椅子の詳細、使用されている技術と素材、デザイナーの経歴を記す以外に、これまでなにが描かれてきたであろう。

たぶん、もう少し続きます。

平塚市美術館:「カー・デザインの歴史」展:美術館でデザインを見るということ
http://tokyopasserby.blogspot.com/2009/10/blog-post_14.html

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