その特徴と批判についてのメモランダム。
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デザインを学ぶにおいて必読の書、っていうことになってるらしい
http://kiwamono.blog.so-net.ne.jp/2010-03-05
とか、
本書はこれ以降のデザイン史のバイブルになっていると言ってもよい。
http://www.artgene.net/dictionary/cat48/17501980.html
という評価のある『欲望のオブジェ』ですが、もちろんハーバート・リードの『インダストリアル・デザイン』だって、ペヴスナーの『モダン・デザインの展開』『モダン・デザインの源泉』だって、ジョン・ヘスケットの『インダストリアル・デザインの歴史』だって必読です。
べつに『欲望のオブジェ』以降、それまでのデザイン史の本が不要になったわけではありません。もともとそれぞれの本が内包している問題が違うのです。見ている方向が違うので、それが優れているかどうかは、読者が何を問題にしてるかによって異なります。
以前にも書きましたが、基本的に、リードやペヴスナーの「デザイン史」は、じっさいには「デザイン思想史」です。リードはものづくりのビジョンのために、デザインの歴史を辿りました。ペヴスナーはものづくりのためのヴィジョンの成立と発展を歴史的にたどりました。それに対して、ヘスケットの『インダストリアル・デザインの歴史』や、フォーティの『欲望のオブジェ』は、身の回りのモノのデザインがどのように生まれてきたのか、その過程を考察した歴史書です。
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デザイナーにとって、よりよいデザインの在りかた、よりよいデザインの方法、よりよい表現を追求することは必須です。そのために、過去から現在までの偉大なデザイナーの思想、優れたデザインの方法を学ぶことは必要です。
しかし他方で私たちは理想的な方法だけでデザインが成立していないことを知っています。クライアントの理不尽な要求。技術的、コスト的な困難。マーケットが求める仕様。販売方法にまつわる問題。さまざまな条件、制約というフィルターを抜けて、ようやく最終的な製品が市場に出ます。名もないデザイナーさんたちはこのような苦労、理不尽を嫌というほど経験しているはずです。
たしかにペヴスナー流のデザイン史は、デザイナーに対してデザインするための方法、拠りどころを示してくれます。しかし、プロダクトが市場に出るまでに直面したであろう(あるいは市場に出てから直面したであろう)、さまざまな問題については何も語りません。デザイナーはデザインをした。で、終わりです。売れたのか売れなかったのか。人びとは受け入れたのか受け入れなかったのか。そういう評価軸はありません。
対して、『欲望のオブジェ』が対象とするのは市場に出るデザインです。売れたデザインはなぜ売れたのか。売れなかったデザインはなぜ受け入れられなかったのか。ある時代に支配的なデザインは、どのような要求から生まれてきたのか。フォーティが問題としているのは社会との関係において変容するモノの姿であり、それゆえにその叙述にはデザイナーが登場する必然はないのです。
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デザイナーの脳内におけるデザインの形成ではなく、現実社会に送り出されたデザインの姿とそれが生まれる過程を、フォーティは二つの方法で例示しています。
ひとつはイメージ。人びとの持つ様々な観念は、デザインによってもたらされるイメージによって影響を受けていると同時に、デザインは人びとの観念を取り込むことによって成立しているという点。たとえば「清潔さ」という観念がデザインとの相互関係によって発達する事例が取りあげられています(第7章)。
もうひとつは経営上の必要によって規定されるデザイン。技術やコスト、販売方法など、デザインされたモノをつくり、売る立場からみたデザインの意思決定の姿です。ミクロ的な事例としてはウェッジウッド製品のデザイン(第2章)やロンドン市交通局におけるCI(第10章)、マクロ的にはオフィス機器(第6章)や電気機器(第8章)などが取り上げられています。
フォーティ以後のデザイン史を見てみると、どちらかといえば前者の方法が社会学との関連においてより発達し、後者すなわち経営あるいは経済とデザインとの関連は限定的にしか論じられていないように思われます。
社会的な規程は私たち皆が無意識のうちに受けているものだと思いますが、デザイナーが事実上の障壁として日常的に直面しているのは、クライアントを通じた経営上あるいは経済上の問題ではないでしょうか。ですので、この側面はもっともっと取り上げられてしかるべきであると考えるのですがいかがでしょうか。
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フォーティの『欲望のオブジェ』が刊行された直後は、かなり批判的な批評がなされたようです。その最大の理由は、このデザイン史の本がデザイナーやデザイン運動を取り上げていないこと、すなわちペヴスナー的な方法論によっていないためでした(J. M. ウッダム「回顧と展望」『デザイン史学』第1号、88頁)。しかし、上に述べたとおり、これは対象としている問題の側面が異なるための齟齬であり、両者はけっして互いに否定しあう関係にあるとは思いません。どちらも必要な研究だと思います。
私自身はフォーティのデザイン史観、方法論に共感しているのですが、ちょっと別の視点から批判してみます。
『欲望のオブジェ』は一般的な意味とは多少異なりますが、いわゆる「通史」に相当するデザイン史の本です。「デザインと社会 1750年以後」という副題がそれを示しています。じっさいにはフォーティは歴史を時系列で扱うのではなく、分野、テーマ、問題別に、デザインと社会とがどのようにかかわってきたのかを例示するという方法をとっています。
通史なのですから当然なのですが、本書で取り上げられている事例はさまざまな分野での先行研究に依るところが大きく、著者による実証は(ほとんど)ありません。フォーティはそれまでのデザイン史にない方法論で論理を展開しているわけですが、そのためにこれまた当然のことながらその方法論で行われた実証研究はその時点では(ほとんど)得ることができないわけです。結果的に、本書に取り上げられた事例は、既存研究の中から著者の論理に従う、ある意味都合の良い事例のみをとりあげてちりばめた、と感ずる部分が多々あります。そういうわけで、本書で展開されるデザインの変容が、ほんとうに筆者の主張する論理で生じていたのかどうかについては、十分に疑ってかかる必要があります。
すなわち、本書をデザイン史の方法に関するテキストとして読むにはすばらしいが、これをデザインの歴史の本として読む上ではかなり注意が必要だということです。
逆にいえば、フォーティが示したデザイン決定の論理(イメージの利用と操作、経済的・経営的要求)といったものが、個々のプロダクトにデザインという側面からどのように反映されてきたのかについては、これからなんらかの方法で実証していく必要がある、ということを指摘しておきます。
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