2010年5月8日土曜日

森村泰昌展・なにものかへのレクイエム展


東京都写真美術館で開催されている「森村泰昌展・なにものかへのレクイエム展」を観た。以下メモランダム。

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世の中に私の知らないもの、分からないことは無数にあるわけですが、じっさいには日常的にそういったものが意識に上っているわけじゃありません。で、どこかに出かけていって、ものを観たり、体験したりすることは、自分が知らないと云うことを知る、分からないと云うことを分かる作業だなぁ、と思うのです(分からなかったことが分かるようになった、という意味ではなくて、自分の無知を知るということです)。写真美術館での展覧会なのですが、いろいろ分からない。いろいろと疑問が浮かぶ。これは「写真」なのか。そもそも「写真」作品って何なのか、&c &c。

今回の展覧会は、20世紀の著名な政治家や芸術家に扮している森村泰昌氏のセルフポートレート。
誰かが誰かに扮することは、役者が芝居や映画、ドラマでふつうに行っていることだとおもうが、それとは何がちがうのか。
深川江戸資料館の前の佃煮屋さんには、ちょんまげのカツラを被ったおじさんがいて、彼はおそらく自分ではない誰かになっていると思うのだが、それとは何がちがうのか、それとも同じなのか。

森村の以前の作品——名画の中の人物に扮するとか、映画の中の女優に扮する作品——は、フィクションの再現。今回の作品は、歴史的なノンフィクション、そして男性がモチーフ。では、実在の人物に扮する行為と、虚構の人物に扮する行為とは同じことなのか、違うことなのか。

今回の作品にはスチルばかりではなく、動画もある。となれば、ますます役者との違いが分からない。映画やドラマと違うとすれば、彼は描かれたあるいは撮られた人物の人生を再現しているのではなく、描かれたあるいは撮られたその一瞬、もしくは撮られるという行為を再現しているという点だろうか。

彼はなんのためにそのようなことをするのか。扮装し、再現することで過去を追体験するのか。われわれはなんのためにそれを観るのか。オリジナルを観ることができるのに、「ニセモノ」を観ることから何を得るのか。これは「ものまね芸」として笑ってよいのか。いやいやじっさい、2階展示室の作品のひとつは、ヒトラーに扮するチャップリンに扮する森村泰昌。鉤十字の代わりに、「笑」という文字をアレンジしたシンボルをまとっている。パロディのパロディなのだから、笑ってもいいのだろう(考えてみれば、この作品のみは、フィクションの再現だ)。私は笑いながら観たが、みんなまじめな顔して観賞していたなぁ。ひょっとして笑ってはいけなかったのだろうか。

そしてつぎの作品で森村は何に扮することになるのだろう。非・人間、非・生物へとその肉体を変形させていくと面白いなぁ。たとえば20世紀の著名な建築とか、著名なプロダクト。エンパイアステートビルなんだけど、じつは森村、T型フォードなんだけど、じつは森村……。
題して物質文化へのレクイエムだめかしらん。

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表現の形式として、浅田政志の「家族写真」と類似を感じた。表現の意図はまったく異なるが。森村の作品を笑っていいなら、自分でない何者かに扮するふたりの作品は、笑いという点で共通しているとも思う。ただ、観る者が対象を知っているということがパロディの前提で、森村泰昌のばあいもそのセオリーに従っているのだが、浅田家のばあいは、どこにもいない、誰も知らない誰かに扮しているのだから、それはそれは高度な笑いだ。



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追記:パロディのもたらす笑いは、オリジナルとの微妙なズレによって生じる。パロディによるそのズレはわれわれにオリジナルの姿を再確認させる。コロッケのものまねによって再び脚光を浴びるようになった美川憲一のように。森村による「ものまね」も、そのズレによってオリジナルの姿や意味に対する我々の意識を顕在化させ、ふたたびその意味を問うものと考えればよいか。まずは笑い、そしてなぜ笑えるのかを考えてみよう。

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追記:宮沢章夫氏が第21回伊藤整文学賞を受賞しましたね。宮沢氏のエッセイの楽しさも、あり得べき現実とのズレにあると思います。そういう視点で再び森村泰昌の作品を見てみたいと思います。とはいえ、東京展は終わってしまったので、また次の機会を楽しみに。

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