2010年2月8日月曜日

ヘンリー・ペトロスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』:形態は失敗にしたがうのか?

私が最初に『フォークの歯はなぜ四本になったか』を読んだのは、おそらく1996年。邦訳の刊行が1995年11月なので、まだ出たばかりの頃です。ながらく欠本になっていたようですが、今年1月に平凡社ライブラリー版で再刊されました。新たに追加された棚橋弘季氏による解説を読みたかったこともあり、早速購入。


人間が加工してつくる道具やモノ、その形は、どうやって進化してきたのか―この問いに、要求される機能に沿って、と答えるのでは不十分。実用品の変化は、それが出来ることではなく、出来なかったこと、不具合や失敗の線を軸に歴史を刻んできた―デザインと技術の歴史に豊富な事例をもって新しい視点を据えつけ、“失敗”からのモノづくりを教える著者の代表作。

今日の平凡社/ 『フォークの歯はなぜ四本になったか』


ペトロスキーの歴史の見方——形態は失敗にしたがう——に私自身は同意しませんが、それでも本書は読む価値のある素晴らしい研究書です。

* * *

本書の価値の第一は、取り上げられている事例の豊富さとその深さとにあります。邦訳タイトルにある「フォーク」なぞ、どちらかといえばホンのさわりです。例えば「ピン」。

アダム・スミスが『国富論』において分業のもたらす経済的利益の説明として挙げたピン製造の事例は有名でしょう。しかし、そのピンとは何なのか、どのような用途に用いられていたのかについて知っている人はどれほどいるでしょうか。「第四章 ピンからペーパークリップへ」ではその用途から製造法の変化にいたるまで詳細に描かれています。クリップやステープラーが発明される以前、ピンは主に紙を綴じるために用いられていたのです。

私は以前イギリスの文書館でピンで綴じられた資料に遭遇したことがあります。


| liverpool record office | jun. 2002 |

ああ、これがスミスが『国富論』で論じ、ペトロスキーが『フォークの歯は……』で述べていたピンなのか、と感動しましたよ。本書を読んでなければ目に留まることもなかったでしょうね。

そのときに私が利用した一連の文書(1920年代のもの)には、ピンの他にゼムクリップ、


| liverpool record office | jun. 2002 |

割ピン、


| liverpool record office | jun. 2002 |

綴紐が用いられていました。


| liverpool record office | jun. 2002 |

(もしかすると後の時代に付けられたものかも知れませんが……)

文書を綴じるという目的にとって、ピンには欠点があったとペトロスキーは述べます。

事務用書類をピンで留めるうえでの欠点がひとつあった。見苦しい――しばしば錆で縁どりされた――穴が残ってしまうのである。これがとくに悩みの種になったのは、紙を綴じ、はずし、また綴じるという行為が何年ものあいだに繰りかえされる場合だった。ピンで留められた書類の角は、かなり傷みが激しくなる。(109頁)

こんな↓感じですかね。


| liverpool record office | jun. 2002 |

ピンで留めた書類は、それを扱う人の指に刺し傷を生じさせるという欠点もありました。それらの欠点を解決する代替物として現れたのがペーパークリップ。そのひとつが現在でも一般的に用いられているゼムクリップだったというわけです。

フォークの歯を別とすると、ペトロスキーが取り上げているのはゼムクリップ、ポスト・イット、ステープラー、ファスナー、ノコギリやハンマー、カトラリー、缶詰と缶切り、マクドナルドのパッケージ、等々19世紀半ばから20世紀の事例です。これら多様なモノのカタチの歴史的変遷の過程がユーモアのある文体で語られ、飽きることなく読むことができる本です。

* * *

多様な事例によってペトロスキーが論じるのは、「形態は失敗にしたがう(Form Follows Failure)」という考えです。

人工物を次から次へ調べていけばはっきりとわかるように、どの時代のどんなモノにも見つかる欠点を継続的に識別し排除することによって、そのモノの形は決まったり修正されたりするのである。(97頁)

「形態は失敗にしたがう」は「形態は機能にしたがう」を踏まえた表現でしょう。ペトロスキーは本書を機能主義的デザイン史観への疑問とその論証としています。

かならずしも形が機能にしたがうとはかぎらないのならば、いったいどんなメカニズムで、われわれの人工的な世界の形は決まるのか?
……
この広範な論考は、デザインに関する定説「形は機能に従う(Form Follows Function)」への論駁として読まれるかもしれないが、モノ自体の研究にとどまらず、発明およびデザインという、しばしば言語に絶する創造的な過程の根源にまで考察を進めることになっている。(6頁)

ペトロスキーの論拠は、主に特許資料です。モノの変遷の理由をそのような資料の中に見ることで、彼は新しいモノの出現が以前のモノの欠点の改善として現れてきていることを示します。しかし、それだけでは現実に存在するモノの多様性は上手く説明できません。そこで彼が援用するのはデーヴィッド・パイの考え――欠点のないモノはない――です(D・パイ『デザインとはどういうものか』美術出版社、1967年)。先行するモノの欠点に対する改善策は一様ではない。またある種の改善はしばしば新たに別の問題を引き起こす。多様な問題と多様な改善策がモノのカタチの多様性を生み出しているとするのです。

* * *

棚橋弘季氏は、本書の解説でペトロスキーが見逃した点を指摘しています。それは「『失敗こそがモノの形を生み出す』発明やデザインという活動それ自体が、人類の歴史においてはじめから存在していたのではなく、ある時期に発明されたものである」という点です。イギリスにおけるフォークの導入がだいたい17世紀。その時期はヨーロッパの地域によって異なりますが、「実はそれぞれの国でのフォークの登場の年代は、それぞれの国でルネサンスの思想や文化が花開いた時代に対応している」のであり、「発明やデザインの方法そのものがその時、発明されたのだと考えてよい」(441-444頁)のです。

参考
フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー:DESIGN IT! w/LOVE
http://gitanez.seesaa.net/article/137535522.html

同様の指摘は、イギリス産業革命の要因を探るR・C・アレンの近著でも読みました。つまり実験精神とか、試行錯誤という行為は、決して古いものではなく、普遍的な文化でもないのです(Robert C. Allen, The British Industrial Revolution in Global Perspective, Cambridge, 2009)

ペトロスキーは、

ナイフ、フォーク、スプーンのようなおなじみのモノを形づくったのとまったく同じ意図的な営みが『石器からマクロチップにいたる』あらゆるテクノロジーの産物を形づくった(64頁)

と書いていることからも、「失敗にしたがう」デザインの展開はいつの時代にも適用できると考えているようです。しかし、棚橋氏の指摘をふまえるとこれはどの時代にもあてはまるものではありません。形態の決定を司る普遍的な理論ではありえないのです。

* * *

冒頭にも書きましたとおり、私自身はデザインの歴史的展開についてのペトロスキーの考えには同意しません。その最大の理由は、彼が対象としているデザインの範囲にあります。

外見や形状は本書の基本的なテーマであるが、モノの美的な特質はそこに含まれない。……宝石や芸術品などのはっきりした例外は別として、美的な問題がモノの形を決める第一の要因になることはめったにない。……チェスの駒も、必要条件が確立されて久しいセットのもう一つの例である。……チェスのセットをデザインあるいは「デザイン変更[リデザイン]」することは、駒の重さやバランスといった副次的な事柄の考慮を伴うかもしれないが、たいていの場合、美的な問題と見なされる。そして美的価値という名目で、多くのチェス・セットは、単に風変わりなだけだとは言わないまでも、見た目がよりモダンに、あるいはより抽象的になってきており、プレイヤーがクイーンとキング、ナイトとビショップを見分けるのに難儀することなどお構いなしである。そんなデザインの遊びは、本書ではほとんどとりあげない。(65-66頁)

ペトロスキーの議論は対象を限定することによって、世界中のモノのデザインの由来の99%(俺推定)を無視しているのです。いったいどのようにしてモノのカタチから美的特質と機能的特徴を切り分けるのでしょうか。「そんなデザインの遊びは、本書ではほとんどとりあげない」というバイアスによって選択された事例は、それゆえにペトロスキーが「進化」と呼ぶところの変化に限定されています。「形態は失敗にしたがう」という結論は、そうなるように限定された範囲の事例から導かれた必然なのではないでしょうか。

もうひとつ。原著のタイトルは「実用品の進化論 The Evolution of Useful Things」です(邦訳では副題になっています)。発明なりデザインなりは先行する技術・形態のもつ不完全さへの対応として現れるという展開を、彼は進化のアナロジーとして考えているようです。すなわち、デザイナーは自由な意思によってある日突然なにかを生み出すのではなく、彼らが作るモノには過去のモノとの連続性があるということ。そしてその連続性のありようが、進化論でいうところの適者生存の原理に類似しているという考えが背景にあります。これに対しては、A・フォーティの見解を示しておきましょう。

デザイン史家はしばしば、さまざまな変化をまるで製造物が植物や動物であるかのように、なにか進化のプロセスのようなもののせいにすることによってこの問題[=デザインの多様性の理由]を回避しようとしてきた。デザインの変化が、あたかもそれらが製造物の発達における突然変異、申し分のない形態へ向かう漸進的進化の段階であるかのように記述されるというわけだ。だが、人工物は生命をもっているわけではないし、それらを進歩の方向へ進ませる自然的もしくは機械的淘汰の法則があるという証拠もない。製造物のデザインは、内的な遺伝学的構造といったものによってではなく、それらをつくるひとびとおよび産業によって、そしてこうしたひとびとおよび産業と、製品が売られる社会との関係によって、決まってくるのである。(A. フォーティ『欲望のオブジェ』鹿島出版会、1992年、10頁)

「申し分のない形態へ向かう漸進的進化の段階」という表現は、まさしくペトロスキーがいうところの「形態は失敗にしたがう」プロセスですね。ペトロスキーは機能主義批判においてフォーティの言葉を引用していますが(50-53頁)、「進化」論に対するフォーティの批判をどのように考えているのか示していないところが残念ですし、本書における「進化」の概念はいまひとつ明瞭ではありません。

また、本書においてペトロスキーは機能主義的デザイン史観に反証しているように思われます。じっさい、ペトロスキーが挙げた諸事例は「この議論の行き着くところは、用途が同じならすべて同じものであるべきだ、ということになってしまう」(フォーティ、17頁)という批判に応えています。しかし、彼の主張は機能を実現させる完璧な形は存在しないという点にあり、他方で多様な製品はそれぞれ機能を指向して「進化」しているのです。それゆえ、彼のデザイン史観は機能主義の修正版と捉えるべきではないでしょうか。

本書に対しては他にも多くの疑問点がありますが、個々の事例には興味が尽きませんし、またデザインの方法論のひとつとして読む分には大いに参考になります。

* * *

背表紙の著者名はふつうに縦組みにならなかったのでしょうか。



え?ペトロスキー?

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