メモランダム。
今回の展覧会でいちばん印象的だったのは、《床に置く絵》(2000年)。額に入った西洋歴史画風の絵が床に置かれている。キャプションを見ると、上を歩いてもよいとある。でも、本当に? 念のため、看視さんに聞いてみると、どうぞどうぞ、と。で、恐る恐る絵の上を歩く。
「恐る恐る」。
この感覚はいったい何だろう。美術館のふつうの床をあるくのに、「恐る恐る」という感覚はない。しかし、床の上の絵を踏むという行為の最初の一歩に妙な勇気が必要。一歩を踏み出した後も、なにかふつうに床を歩くのとは異なる感覚。絵のテクスチャーのせいではない。そんな違和感ではない。足の裏で感じる違和感ではなく、脳で認識する違和感。
見ていると、みんな絵を迂回している。いや、自分もそう。意識しないと、その上を歩くことができない。頭の中のなにかが邪魔をする。踏んではいけないと命令する。「踏み絵を踏む」というのはこういう感覚だったか、と思う。
しかし。この感覚をもたらすのは、絵なのか、それとも額縁なのか。
たとえばですよ。しばしば、駅コンコースの床にマンションの広告が貼られていることがありますよね。みんなあの上を、何もない床のように歩いていますよね。私はあれを思い出したわけです。
たぶん、マンションの広告の代わりに名画のプリントが貼られていても、同じなのではないか。みんな何事もないかのように上を通過していくのではないか。と思ったわけです。
となると、私の感じた心理的抵抗感は、絵ではなく、絵の周囲を囲む額縁に由来しているのではないか。額縁というある種の「結界」を越えることに対する抵抗感ではないのか。
となると、絵画というものは、額縁という結界の中にあることによって、なにか特殊な価値のあるものに転換するのではないか。さらに言えば、美術館という結界の中にあることによって、絵画は価値のあるものになるのではないか。
《床に置く絵》をみて、「絵を踏むという行為」を体験して、そういうことを考えました。
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展覧会は結構楽しみにして出かけたのですが、あまり気分が高揚しませんでした。それはたぶん作家や作品のせいではなくて、「90年代以降の代表的な作品……あわせて約70点を展示」という企画のためではないかと思います。もっとまとまったシリーズ単位で作品を見たかった。名作絵画を描かれた人の視点で見るシリーズなど、同様の作品がいくつもあるから面白いのだと思います。
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作品の持つ批評性について。
今回、作品をみて、福田美蘭は社会的な問題を扱っていても、外に向けられた批評というよりも、内に向かっているように思いました。問題を提起する側ではなくて、ニュース番組などのコメンテーター的立ち位置。だからなんだ、なのですが、そのあたりに福田繁雄との違いを感じました。
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追記
《床に置く絵》の上を歩くことは出来ましたが、額縁を踏むことは出来なかったことを思い出しました。絵は踏めるのに、額縁は踏めない。絵よりも額縁に価値を置いているのか。いや、敷居は跨ぐものであって踏むものではない、ということでしょうか。面白いですね。
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