「異郷の人」「ハダシの学者」「日本が生んだ最も独創的で個性的な研究者」「日本のインディ・ジョーンズ」(椎名誠)「超俗の人」(椎名誠)「心優しき意味の破壊者」(辺見庸)「辺境の旅人」……。人となりを形容することばもさまざま。
「文化人類学者」「言語学者」「エッセイスト」「アジア・アフリカ図書館館長」「日本サウンドスケープ協会会長」そして「写真家」……。肩書きも、活動領域も多様。
「顔を洗わず、歯を磨かず、ふろは年に数回しか入らない……汗をかかない、清潔な特異体質」『朝日新聞』1984年11月3日、朝刊3頁、「布団を使わず床に寝る」『朝日新聞』2008年10月2日、夕刊10頁、「エアコンも炊飯器もない」『読売新聞』2010年9月6日、朝刊15頁、「毒がなければなんでも食べられる」同、「まるで忍者みたいに速く歩く」『朝日新聞』2008年10月2日、夕刊10頁、「クリームあんみつ好き」『読売新聞』2010年9月6日、朝刊15頁、「『五十カ国語の読み書きができる』『百二十四カ国語が話せる』」『アエラ』1998年9月28日……。伝説の数々。
異色の人物は型どおりのことばでは形容しきれません。
「異郷 西江雅之写真展」は、20代のはじめにアフリカを縦断して以来半世紀に渡って世界中を旅してきた文化人類学者・西江雅之氏(1937〜)が撮りためた数万点の写真のなかから約200点の写真を展示する展覧会です。被写体となっているのは、アフリカ、アラビア、インド洋海域、カリブ海域、パプアニューギニアなどの人びと。フィルムに記録されたそれらの人びとの姿の大部分は、すでに失われてしまった世界のものです。
西江氏の写真には、独特な視線が貫かれているように思います。それは旅行者によるスナップでもなく、写真家の作品でもなく、かといって研究者による記録写真ともまた違うものです。
いったい、なにが独特なのでしょうか。
展示された多くの写真をみてちょっと不思議に感じたのは、カメラと被写体の間の微妙な距離感です。これは私の先入観なのですが、もっともっと被写体に近づいているのではないか、と思っていました。そういう思い込みがあるから、実際の写真における被写体との距離感が意識に登ったのです。たとえば、西江氏の友人でもあった作家の阿刀田高氏は「『西江はカメレオンのように置かれた環境に染まる。ふつうの物差しで測れない個性で、帰った時にアフリカ人になったように顔つきまでも変わっていて、しばらくしたらまた日本人の顔に戻りました』」と語っています★1。西江氏の写真はそうした言葉から受ける印象とはずいぶんと異なります。たとえていうなら、ハービー山口の撮る写真ではないのです。つまり、こと写真に関していうと、撮影者と被写体の間にはコミュニケーションが感じられないのです。
このような印象を受けたのは私だけではないでしょう。ウェブで見つけたレビューには、次のように書かれていました。
「あれほど人々の懐に入り込んでいるにもかかわらず、また収録写真は人間の姿がほとんどであるにもかかわらず、接写した数が少ない。どこか距離を置き、まるで現地の生活を侵さないように周遊している。その場にいることは被写体に認知されながら、シャッターを切る瞬間は悟られていないような。」★2
これをどのように考えたらよいのでしょうか。
考えてみたのは、西江氏は現地での生活に入り込みつつも、常に外部からの観察者という立場を崩さない、という解釈。もうひとつは、写真家ではない西江氏がカメラを構えるのは、彼が人びとと真剣に相対している場ではない、という解釈です。
展覧会と同時に出版された写真集に、西江氏はつぎのように書いています。
「わたしは路上に立ち、求める対象が気に入った場面の中に姿を現すと、シャッターを切る。」「この本に残されている写真は、ある時、ある場所で、わたしの眼前に現れた事物から掬い採った影なのである」★3。
すなわち、こちらから採りに行くのではない。視界に入ってくるのを待つ。それが西江氏の撮影のスタイル。旅人でありつつも冷静な観察者であるという複雑な視線が、その写真の中に刻まれている、ということになりましょうか。
❖ ❖ ❖
展覧会として興味深かったのは、さまざまな地域の人びとの写真、いろいろな時代の写真が入り交じって展示されている点です。見ている方とすれば、これはどの地方の人びとなのか、いつごろの光景なのか、気になってしかたがありません。しかし、これもまた意図された構成なのです。西江氏によればこの展覧会は作品展であり、文化人類学のお勉強の場にしたくなかったというのです。そして、さまざまな地域、さまざまな時期の写真が並列しているのは、どの地域においても同様に人びと生活は急速に変化しているからであるということです★4。
もうひとつ興味深かったのは、被写体のほとんどがすでに失われた世界なのですが、西江氏は感傷的にそれを惜しんでいるわけではないという点です。「消え去らないでほしいなどとは、わたしは考えない。しかし、永遠に消え去ってしまう前にもう一度、この目にその姿を映してみたい」★5。人びとの生活が変わることは当然である、と西江氏はいいます。ただし、この10年間の変化の速度は、それ以前と比べてはるかに速くなっています。インターネットの普及に代表されるIT化によって、さまざまな情報がかつては秘境と呼ばれた地域にまで、一瞬のうちに伝わるようになりました。かつては物理的な接触によって徐々に生じた変化が、有無を言わせぬ速度で進んでいるのです。写真や映像ではまだまだ伝統文化が残っているように見えても、裸の人びとが踊る周囲で祭りを見物している人びとの姿は、私たちとほとんど変わりません。伝統的行事は観光のための催しとなり、西欧企業がスポンサーになっているのです。
彼らに「これまでと同じように裸で暮らしてくれ」と要求する権利は誰にもありません。「テレビはダメだ」、「携帯電話を持つな」などということはできません。そもそも「変わらない」とはいつを基準するのでしょうか。50年前の生活なのか、100年前なのか、500年前なのか。かつて、人びとの生活が変わらないでいたことなどあるのでしょうか。
ただし、急速な変化が往々にして特定の人びとにのみ利益をもたらしている点は指摘しておかなければならないでしょう。地域の一部の有力者たちが外国企業と組んで、開発を行う。それによって有力者たちは大きな利益を受けますが、それ以外の多くの人びとは生活が変わることによって不利益を被ります。森林が開発され、環境が汚染され、従来と同等の生活を維持できなくなります。ですから、もしも私たちが何かを望むことができるとするならば、できるかぎり多くの人びとの生活が改善するよう見守ることだと思うのです。
写真に記録することには、これまで社会がどのように変化してきたのかを捉え、これからどのような方向に向かっていくのかを考える意味があると思います。
★1—『アエラ』1998年9月28日。
★2—『異郷 西江雅之の世界』——「ハダシの学者」の旅の道程を追体験できる入門書(『異郷 西江雅之の世界』 | STUDIOVOICE | 文=門田 眠)。
★3—『異郷 西江雅之の世界』(美術出版社、2012年)160頁。
★4—とはいえ、地域が気になる人は多いようで、撮影地を記したシートが用意されていました。
★5—『異郷 西江雅之の世界』——「ハダシの学者」の旅の道程を追体験できる入門書(『異郷 西江雅之の世界』 | STUDIOVOICE | 文=門田 眠)。
0 件のコメント:
コメントを投稿