客層がいつになくおしゃれ。道端ジェシカのポートレートを使ったポスター、フライヤーの勝利です。
最近、写真展ではカメラ男子、カメラ女子といった感じの人びとを多く見かけるのですが、それとはまた違う雰囲気。女子も一眼レフをハスに掛けていたりはしない(笑)。
展覧会サイトの告知の一部を引用すると……
1978年、初めての被写体にストリッパーを選んで以来、女性をモデルとした作品を数多く発表してきた彼女は一貫して、女性たちが生まれながらにしてまとう華やかさと儚さ、内面から湧き出る美や苦悩、憂いを写し出してきました。その被写体にはマドンナ、シャロン・ストーン、ケイト・モス、ソフィー・マルソー、シンディ・クロフォードなど、映画や音楽、ファッション界で一時代を築いた魅惑的な女性たちが名前を連ね、レンズの前で飾り気のない心情や濃厚な人間性を惜しげもなくさらしています。
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とても良かった。が、どのように良かったのか、なぜ良かったのか。
以下メモランダム。
写真が真を写すものであるとして、それではここに写されている「真」とはいったい何なのか。誰から見た真なのか。誰にとっての真なのか。と、そういう視点で作品を見てみる。
写されている女優たち、モデルたちは、入念にメイクを施されている。スタイリストも、ヘアメイクも付いている。スタジオとは限らないかもしれないが、背景や小道具もきちんんとセッティングされている。光線ももちろん計算されたもの。さりげない会話の合間に現れた女優の素顔、という類の写真ではない。とらえられているのはそう言う意味での「真」の姿ではない。スナップではない。徹底的に演出されている。会場で流されていたビデオで、その演出の一端を垣間見ることができる。
ではその演出はどこを向いているのか。
写っているのは、そのモデル、その女優がありたいと思っている姿。写真を見る者たちが、彼女たちはかくあるであろうと考える姿。あるいはその方向でありながらも、それを超える姿。ベッティナ・ランスは、その姿を、衣装、メイク、小物、セット等々を用いながら、モデルとともにつくり出す。演出家と女優。女優は与えられた役柄を演じる。演出家はその意図——背後には、その写真を見る者たちの視線がある——を最高に表現すべく、手を尽くす。
ここに写された「真」とは、モデルたちがイメージする自分自身であり、演出家が意図した彼女たちの姿であり、鑑賞者たちが期待する彼女たちであり、それらすべてが一致したところに「真」があり、写されたものが「写真」。
とはいえ、これでは一般論に過ぎないかもしれない。どのような写真なのか、を説明しただけ。なぜ、すばらしいのか。なにがベッティナ・ランスの写真を他の誰の写真でもないものにしているのか。色彩、コントラストといったフィルム上の技術的なものなのか。メイク、スタイリング、セット、ライティング、スタジオなのか。あるいは、モデルがありたいと考える姿になることを可能にする演出の力なのか。
いつものように、私には分からない、ということが分かった。
あれ、いつのまにかタイトルのピクトさんが
返信削除ぬりかべさんになってる(笑)。
excite記事サムネールのモニカ・ベルッチが
妙に気になっていたのに、昨日までだったんですか。
サムネール程度の写真で何かを訴えてくるのは
すごいことですよね。
やっとかめさん、こんばんは。
返信削除すみません、ぬりかべさんが遊びに来たいというものですから。
すぐ帰ると思います。
良い展覧会はすでに終わっているの法則(笑)。
とても強く、印象的でしたよ。
そのいっぽうで、生々しさはあまり感じない。
生身の女性ではなく、女優の写真なのだと思います。