2016年1月15日金曜日

うらわ美術館:縫い―その造形の魅力:よく分からない



縫い―その造形の魅力
うらわ美術館
2015年11月14日〜2016年1月17日

メモランダム。

第1章で刺繍、刺し子等々の縫いものと、第2章で縫うことをテーマとした現代作家の作品を取り上げている。とても難しい。これについて書けと言われたらかなり困る。つまらなかった訳ではない。会場に2時間も滞在したのだから。

展覧会の構成としては、みんぱく「イメージの力」を思い出せる。すなわち、民俗的な資料を提示しつつ、その後にインスタレーションを見せる。全体としてはモノ自体、あるいはモノの歴史や技術を見せるのではなく、キュレーターによる「創作」。

だから本展を評するとしたら、その対象は展示されたモノではなくて、モノによって何が提示されようとしていたのか、という点になる。で、その「キュレーション」、「創作」はどうだったのか。

結局のところ、なかなか難しい。

なぜか。

「イメージの力」展でもそうだったのだが、第1章の民俗資料の放つ力の強さに対して、第2章の作品の力が勝っているとは、残念ながら私には思えないのだ。

その他の「良く分からない」。

・イントロでジャポニスム絵画に描かれたキモノが言及されているが、あれは「縫い」ではなくて「織り」ではないか。
・大量に展示されている岡重の羽裏の見本。これも「縫い」ではなくて「染め」ではないか。
・火消しの半纏も、刺し子と、染めによる絵と、どちらに比重があるのか。
・つくり手と使い手の、どちらに焦点を当てているのか。
・つくり手と使い手の「距離」をどう考えるか。すなわち、家族のために作られたのか、商品として市販されたものなのか。

どうも、「縫い」の定義が曖昧であるし、縫いの行為に焦点を当てているのか、それとも縫われたモノに焦点を当てているのか、それも曖昧。それが曖昧だから、第1章から第2章にどのようにして続くのかが良く分からない。

❖ ❖ ❖

「織り」や「染め」に比して、「縫い」は自由である。

おそらく、いや間違いなく、裁縫ができる人の数は、織りや染めができる人よりも多い。なぜならば、裁縫は大がかりな道具を必要としないから。針と糸と鋏があれば済む。そのキャンバスとなる「布」は買えばよい。

「自由」ということは、パーソナルな領域でその行為が可能であるということなのである。「自由」ということは、その表現もまた自由である。

パーソナルな領域で自由に表現ができる。「縫い」という行為をそのように考えると、本展はどう理解できるだろうか。

もしも、「縫い」「パーソナルな領域」「女性」がそれぞれ結びつけられるのだとしたら、第1章と第2章との繋がりは、なるほどそうかもしれない、と思う。そしてそういうことなら、第1章はもっと「縫い」の「つくり手」、「女性性」を強調した方が良いように思う。そうであれば、オノ・ヨーコ、桂ユキの作品ともつながるように思う。

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