2013年3月16日土曜日

記憶写真:東横線渋谷駅

3月15日で廃止された東急東横線の渋谷ターミナル。


| shibuya stn. | dec. 2012 |

この数日、渋谷駅はカメラを片手に電車や建物を撮影する人たちでとても賑わっていました。


| shibuya stn. | mar. 2013 |

このようなお祭りに参加するのは、500系新幹線の時以来か知らん。


東急沿線の住民としては、あの巨大ターミナルにはいろいろと思い出があるのです。


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | feb. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |

* * *

3月15日。


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |


| shibuya stn. | mar. 2013 |

* * *

そして、3月16日。二度と電車が来ないホーム。


| shibuya stn. | mar. 2013 |

2013年3月15日金曜日

日進堂のパンのTSマーク

鎌倉・大町のパン屋さん、日進堂。
昔ながらのパン屋さんで、菓子パン、総菜パンがおいしい。


| mar. 2013 |

オリジナルの包装袋には、丸に「TS」のマーク。お店の名前は「NISSHIN」ですし、「TS」は何を意味しているのでしょうか。
というのが、昨年5月からの疑問でした。


| mar. 2013 |

解決しました。

Tamura Soichiro。

田村総一郎さん。

創業者のお名前のイニシャルだそうです。お店の方に伺いました。
80代で、お元気だそうです。


| may 2012 |

私の想像は的中(笑)。

看板の文字については……またの機会に。


ローマ字の配列が……



鎌倉・日進堂


2013年3月14日木曜日

階段のある場所


| tama centre | oct. 2009 |

以前から街歩きのときに階段の写真を撮っていたのですが、少し数が溜まってきたので別館で公開してみることにしました。

s t a i r s

どうせアクセスの少ないウェブログですのでここでもいいのですが、同じジャンルのものを集めることで何かひとつの世界観が見えるかな、という自己満足です。

とりあえず、100枚。場所は簡単に。日付は入れません。コメント欄もありません。

ときどき、どさっと更新しようかと思っております。
よろしくお願いします。

2013年3月9日土曜日

川村清雄ノオト 08

川村清雄の長男

すでに記した通り、洋画家・川村清雄の生涯にはさまざまなラブ・アフェアがあったようですが(☞ 川村清雄ノオト 07)、4度目の結婚で初めて子供――清衛さん――を授かりました。大正元年(1912年)12月、川村清雄60歳のときです。

このときの妻ふくは病のため、大正8年(1919年)3月21日に37歳で亡くなっています。清雄が68歳、長男清衛が8歳のときです。

母親を亡くした清衛さんは、はやくから父・清雄の身の回りの世話や画の手伝いをされていたようで、その献身は木村駿吉の『稿本』にも、はたまた『読売新聞』紙上にも取り上げられています。とくに川村清雄の大作《振天府》(昭和6年、聖徳記念絵画館)の制作に当たっては、清衛さんは高齢の清雄の眼となり手となり、その手助けをしたようです。

清衛さんに関する新聞記事がいくつかありましたので、クリップしておきます。

長男誕生

長男清衛が生まれたのは、大正元年(1912年)12月。川村清雄60歳のときです。『読売新聞』には、かなり長い記事が出ています。

それにしても画家のお目出度が新聞に載るなんて……。



●川村(かはむら)畵伯のお目出度(めでた)
△本卦返りに男の児

▲畵壇の奇才 川村淸雄氏は今年六十一だ。普通ならば孫の三五人も有つて嬉々として餘生を楽しんで居るのが日本人並みだ。所が畵伯は中々の元氣で子供に返った積りで懸命に畵筆に親しんで居る 細君も未だ女盛りの三十で、倫落の間に内助の功はすばらしい、今年の春兩親[ふたおや]を一度に喪われてから間も無く、細君が妊娠したらしい様子で、親戚でも川村家の相續人がやつと出來た、大方故の
▲壹岐守の生れ替り だらうと、まだ生まれもしない中から、宗家中大喜びであつた、月滿ちてやつと今月が臨月といふ先、一昨日の午前二時頃から産氣づいたが、何分にも三十で初産といふので非常な難産で、掛り付の醫師宮田、天野の両醫學士産婆の天野一子が二日二夜詰切ての手當、清雄畵伯も初ての子といふに、難産の産婦が苦悶の狀[さま]を見ては
▲氣もわくわく 畵筆も手に執れず母を喪ふか、子を喪ふか、二つに一つ荒療治を施さねば六かしいとの醫師の宣告を聞いて、覺悟を定め、産婦にも觀念させ、さて愈機械の力で産ませてみた、すると案ずるより産むが安く、昨日の午前十一時、玉の様な男の子が生まれた且、母子共に至極健全で
▲何等の異狀 もないので、淸雄畵伯も大喜び、喜びの余り
かなしさをもそふとのみ思ひしに
ヒヨコとはえたる冬の竹の子 と口吟んだ 世間は年の暮れで火の車が廻つて居る 此に淸雄畵伯の家ばかりは御祝ひの人の車で大混雜、目出度い本卦返りに男の子 目出たう年を送り年を迎へて、ますます畵筆にいそしまれる瑞兆と人の口車に乘つてかくの如し

『読売新聞』1912年(大正元年)12月24日、朝刊3頁。


※ 本卦返り/本卦還りとは、生まれた年の干支と同じ干支の年がくること。すなわち、数え年で61歳になること。還暦。

川村清雄の両親は同じ年、明治45年の初めに相次いで亡くなっています。また、川村家に清雄以外に男子はおらず、跡取りの誕生が喜ばれたことは想像できます。

新聞には、

かなしさをもそふとのみ思ひしに ヒヨコとはえたる冬の竹の子

という歌が載っていますが、清衛さんによれば次の歌も残されているようです。


新宿御苑に隣接する千駄ヶ谷の家で、清衛の誕生を喜び

たづのなく御園にとなる我宿に 初声あげし松のみどり子

川村清衛「父川村清雄の作品について」『川村清雄研究』122頁。


親一人子一人のさびしい生活

川村清雄の妻ふくは、病のため大正8年(1919年)3月21日に37歳で亡くなっています。清雄が68歳、長男清衛が8歳のときです。

その後清雄は大正11年の暮れにもう一度結婚をしたようなのですが、わずか10日間で別れたことは既に書きました。

妻のない不自由な生活は、いろいろな人々に助けてもらったばかりではなく、息子の清衛さんも小さいころから随分としっかりとしたお子さんで、清雄の手助けをしていたようです。

※次の記事では清衛が「巴」となっています。



日曜クラブ 子供のページ
上手なのは繪とお臺所
=川村淸雄畵伯の坊ちゃん
親一人子一人のさびしい生活


いまの洋畵家中で年齢が一番多く明治の中頃から奇人として評判の高い川村淸雄翁は、市外千駄ヶ谷のお住居に
奥様を亡く して以來一粒種の巴さんと親一人子一人の生活を續けてゐますので知り合いの奥様という奥様お嬢様というお嬢様が入り代わり立ち代わりお二人のお世話を數年間し續けてゐたのでしたが昨年の秋緣あつて迎えられた若い後妻とも間もなく離婚した後は女中のおとりさんと三人暮しで
浮き世の風を 他所に繪筆三昧の生活をしてお居でです。巴さんは淸雄翁の六十一歳の時のお子さんで今年十一、曉星小學校の三年生ですが矢張りお父様の血をうけて繪がうまく五歳の時以來描き初めた自由畵が頗る性質がいいといふので
描いた作品 を今に保存してお父さんの淸雄翁がその成長を楽しみにし 先年亡くなつた和田垣謙三博士などもひどく可愛がつて居られたとのことです、お母様はなくてもおとなしくてお行儀のばかにいゝ巴さんのお頭をお父様が撫でながら『お前お客様にホラあのはもの味噌吸い物でも
拵えて進ぜ なさい』と言われてはづかしさうにしてゐる巴さんが『それよか千駄ケ谷名物のあれがいいぢやありませんか』と急いで近所のお蕎麥屋へ飛び出して行きました『あの小僧は妙な奴で八歳の時からご飯を炊きまして一度もやり
損なつた事 がないばかりか實にうまいのです、お豆腐の料理から、おからいり、その他どんなお料理でも手際よくやつてのけるといふ料理の天才です、こんどお見江の時には巴の手料理一切で麥飯を御馳走しませう』と仰しやるくらゐ、小学校の而も男生徒で
甘へ盛り の坊ちゃんにしては珍しいお子さんです、巴さんが學校へ行く必要さへなければ奥さんも女中さんもいらないのにとはお父様のお話です

『読売新聞』1923年(大正12年)1月14日、朝刊4頁。


「八歳の時からご飯を炊きまして一度もやり損なつた事がない」というのはすごいですね。電気炊飯器ではないのですから。しかし、「巴さんが学校へ行く必要さへなければ奥さんも女中さんもいらないのに」とはちょっと……。

なお、この記事が出た前日には『読売新聞』に「花むこ十日間=七十一歳の川村清雄画伯=」という記事が掲載されおり、おそらく同時に取材されたものではないかと思われます。

* * *

この当時、川村父子が住んでいたのは「千駄ヶ谷千番地(現在、千駄ヶ谷五丁目三十二番十四号)」*。千駄ヶ谷といっても、新宿駅と代々木駅の間です。地図で見ると、新宿駅新南口と代々木駅の間、日本製粉と明治通りを挟んだ向かい側で、現在その一帯はSKビルになっているようです。

川村清衛「父川村清雄の作品について」『川村清雄研究』114頁。

この千駄ヶ谷の家について、木村駿吉『稿本』には次のようにあります。


元の代々木の家では令閨*の存命中、令閨でさえ画室えは入れなかつた。描きかけてゐる時に誰にでも見られると興味が薄らぐと言われる。

木村駿吉『稿本』131丁。


* 令閨:れいけい。妻。

また、清衛さんの元服に際しては初着の式を行うことを考えていたようですが、実際に行われたのでしょうか。


この幼児も今は中學通ひの成童となり、画伯は祖父對馬守贈位の報告祭を兼ねて、祖父の鎧兜を取出して令息の元服に初着の式を行い、鎧親にはこの道に通じた五姓田芳柳画伯*を煩はし、芳柳画伯は自身甲冑に身を固めて着附けの役を演ずる筈である。と云うて川村画伯はその日の来るのを樂しみにしてゐられるが、どこまでも藝術的で時代を超越してゐるのが面白い。

木村駿吉『稿本』111~112丁。


* 五姓田芳柳(二世):1864~1943。

清雄の手伝い

清衛さんは清雄の身の回りの世話ばかりでなく、頻繁に仕事の使いも行っていたようで、木村駿吉『稿本』にもそのエピソードが書かれています。


……大晦日の晩十時ごろ、画伯の令息が大きな画を車夫に持たせ、さも主人の不在を気遣う様に、お留守ですかと言ひながらやつて来られた。画は五尺に二尺の横物で、破れた竹籠の中の藁の上に、純白の雌雛が胸も首も肩も胴も羽もふつくらと膨らませて卵を温めてゐる処で、あたりに注意しながらおつとりとした母愛の眼付き、これは川村画伯得意の筆意。……大晦日の真夜中人通りはあろうとも、郊外の淋しい道を帰られる令息の身を気遣って、妻は令息の袴を脱がせ帯を解き、じゅばんの上から潤筆料を入れた風呂敷を胴に結い付けた。怜悧とは云へ幼時母親を失つた十三歳の令息、さぞや平生母親の愛に飢えて居ろう、母らしい温かい手で触られる懐かしみを感ぜずにはゐられまい。妻も暗涙を呑んでゐたらしかつた。室の中は暫くしいんとして、ユンケルストーブの内で時々コロコロと音がする計り。車夫が悪心を起こさない様にと玄関で妻は巧みに言いこしらえた。

木村駿吉『稿本』83~84丁。


和田垣博士に贈られた言葉

最初に挙げた『読売新聞』の記事には、「先年亡くなつた和田垣謙三博士などもひどく可愛がつて居られた」とありました。

和田垣博士の没後に刊行された『和田垣博士傑作集』。ここに寄せられた清雄の一文には、清衛さんの誕生日に和田垣博士が文章を書いてくれたと記されています。


又博士は友誼に厚く、所謂血あり涙ある氣質がありまして、私の宅に喜びがあるとか、不幸がある時は、如何に多忙の用事を差繰つても、必ず御出でになつて呉れましたので、私も博士の深切に對しては深く感謝を表して居る次第であります。又私の一子淸衛が誕生日に博士は態々[わざわざ]御出でになつて、英文にて將來のために國家有用の人となるべしといふやうな意味を含んだ訓戒的の文章を御書き下さつたのが、今も宅に殘つて居りますが、博士を追懐する無二の記念物となつて居るのであります。

大町桂月編『和田垣博士傑作集』(669~667頁)


どのような文だったのでしょうか。

ちなみに、和田垣謙三『吐雲録』には、次の言葉が収録されています。


To Kiyoye
On His Birthday.
Thy father is an artist of the first order. May Heaven guide and help thee -- one of his masterpieces thyself -- to excel in whatever line thou choosest of devote thyself to, as does thy father in his!

乃父[だいふ]は第一流の美術家なり。願くは皇天、汝――汝は實にその傑作の一なるよ――を誘ひ助け、汝が汝の一生を委ぬべく撰定する徑路に於て卓然超越すること、猶乃父が渠のそれに於けるが如くならんことを。

和田垣謙三『吐雲録』至誠堂、275-6頁。


はたしてこれが清雄の云う「英文にて將來のために國家有用の人となるべしといふやうな意味を含んだ訓戒的の文章」と同じものなのかどうか。

振天府


| gaien | dec. 2012 |

明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館には、川村清雄による大作《振天府》が納められています。清雄がこの画を完成させたのは昭和6年、80歳のとき。徳川家達公からの制作依頼を受けてから10年後のことです。

林えり子『川村清雄伝』2000年、v。

なにぶん老齢のこと、長男清衛さんは学校を止めて父親の大作完成に協力したそうです。



壁畵「振天府」を繞つて
川村畵伯親子が涙の精進
刻苦十年・遂に大作を完成

★…八十の老體に鞭打つて刻苦十年去る二十八日遂に一代の大作明治神宮繪畵館の壁畵「振天府」を完成して美術界を驚嘆させた川村淸雄畵伯父子にまつはる涙ぐましいエピソードがある
★…川村畵伯はすでに明治三年德川家から米佛に油畵研究の留學を命ぜられた程の先覺者で明治神宮繪畵館の創設と同時に德川家達公から奉納洋畵「振天府」を依嘱され爾來案を練ること實に九年、昨年末漸く下繪を完成し、一氣に仕上げにとりかゝり、
本年七、八月の眞夏には德川公邸に九月からは繪畵館内に籠り刻苦の精進をつゞけた
★…何分にも八十の老齢で視力も弱り史實、寫眞等も細部はすでに明撩をかく不自由さに妻を失つてからの翁には全くの一粒種の淸衛君(二〇)は日夜常に傍につき切り色の見分けを手傳ひ下繪の細部には淸衛君が筆をとつて更に翁が仕上げをするといふ涙ぐましい共力を續けた
★…この爲め淸衛君は一昨年から暁星中學も三年で中途學業を捨てて父の大作完成にともに精進するに至つた、この父子の文字通りの心血になる大作も十月に入つて遂に完成し廿八日奉納され親一人子一人の淋しい家庭にも喜びの春が訪れて來た
★…千駄ヶ谷の家に畵伯を訪ねると腰こそ旣に曲つてはゐるがつやのいゝ顔、長いまつげ、それに宗匠然たる十徳を着た畵伯はまるで南畵中の翁である
★…翁は傍の淸衛君と苦心の跡を交々語るのだ
「もう一年も手をかけたかつたのですが德川公等も大分急がれてゐられるので夜を日についで完成しました、仕上げにかゝつてからは一日も休まず毎日家から粥を運んでもらひ幾度も徹夜をして精進しました、淸衛が學校を止めて助けてくれましたが仕事も完成しましたから今度は本式に繪を習つてもらはうと思つてゐます

『読売新聞』1931年(昭和6年)11月2日、朝刊7頁。


清衛さんを画家にしたい、という清雄の希望は、木村駿吉の『稿本』にも記されています。


画伯が嘗めたい様に可愛がつてゐる令息を画家にすると言てゐられる。誰々に就て洋画を習わせ、誰々に就て日本画を習はせ、宅でも教えると言つて、令息の先生は人選済みになつてゐる。

木村駿吉『稿本』79~80丁。


朝日新聞にも同様の記事が出ています。



明治神宮繪畵館を飾る『振天府』成る
八十歳の川村淸雄老畵伯が
刻苦実に十年の力作

去る十月二十八日明治神宮繪畵館の壁畵『振天府』の大作を刻苦十年の後に完成した八十の老翁川村淸雄畵伯は美術界の驚異と賛歎の的となつて居るが、この大作完成の裏に潛む翁の辛苦には涙ぐましいさふ話がある

…(略)…

何分にも八十の事とて視力が次第に弱り宮内省御貸下げの小さな冩眞から細部の詳細を眞生する事も出來なくなつたが親一人子一人のさびしい暮らしとて手傳ふ人もない不自由さに令息淸衛君(二〇)は一昨年暁星中學三年限り休學して日夜翁の傍につき切りで冩眞その他の史料を大きく描き冩したり色の見分けを手伝つたり翁の力作感性に精進を続けたのだつた
まことに『振天府』は川村父子の文字通り心血を注いだ大作に外ならない、
腰こそ多少曲つては居るがかくしやくたる翁はこの大作完成後の休養もとらず直に德川家達公からの依嘱を受けた九尺に二尺五寸の黒板に『コンノート殿下德川邸御成の圖』の大作に着手すべく準備を進めて居る

淸衛君は今後學校生活へ戻るかあるひはこれを轉機として畵の道へ進むか前途の方針を考究中であると【冩眞は川村畵伯】

『朝日新聞』1931年(昭和6年)11月2日、朝刊11頁。


聖徳紀念絵画館前の川村父子。昭和初年頃。
『維新の洋画家 川村清雄展図録』江戸東京博物館、2012年、166頁。

《振天府》の制作について、清衛さん自身も書いています。ただし、ご自身の手伝いについては語っていません。


「振天府」[図版93] 明治神宮外苑の絵画館の壁画で、他の作家とは多分に異なった作品と感じられるだろう。描かれた内容については省略するが、この絵を完成させる頃は清雄も相当な年齢で、体力的に骨が折れたことと思う。例えば、画面下の螺鈿の模様あたりは、清雄の最後のお弟子さんに当る石野[いわの]静子さんが手伝った部分である。勿論、最後の仕上げは清雄がやったわけであるが。

川村清衛「父川村清雄の作品について」『川村清雄研究』110頁。


* * *

清衛さんはその後カメラマンとなり、また川村清雄の仕事の研究と紹介に尽力され、2002年4月に亡くなられました。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

2013年2月20日水曜日

川村清雄ノオト 07

川村清雄の結婚

洋画家川村清雄は、生涯に数度の結婚と離婚を繰り返しています。

林えり子『川村清雄伝』*には、清雄は4回の結婚をしたとあります。はじめの3回は清雄が30代のとき。いずれも清雄の貧乏が原因で別れたといってもよいでしょう。そして4回目は60歳のとき。この結婚で清雄は初めてお子さん(清衛さん)をもうけています。このときの妻ふくは病のため、大正8年、清雄が68歳のときに亡くなっています。

『川村清雄伝』には「清雄はその後妻を娶らず」と書かれていますが、じつは清雄は大正11年の暮、71歳(!)のときにもう一度結婚をしているのです。ただしその期間は僅か10日間。清雄曰く「不思議な話ですよ、怪談以上といふところですがね」。

さらに、『川村清雄伝』には3回目の結婚の期間について誤りと思しき記述もありました。

今回は、川村清雄の5回の結婚について、文献を比較してご紹介しましょう。

* 林えり子『福澤諭吉を描いた絵師 : 川村清雄伝』慶応義塾大学出版会、2000年。

最初の結婚

川村清雄の最初の結婚はイタリアから帰国して印刷局に勤め始めてすぐ、明治15年、清雄31歳のときのことと言われています。相手は印刷局勤めの女工で、清雄は最初自分の妾にならないかと持ちかけたのですが、「親許の返事は『妾にはやらぬが片付けるのなら考えよう、また遠からず印刷局を辞めさせるつもりだ』というものであった」(林125頁)ということで、この女工と結婚することになります。

この結婚については比較的良く知られているようです。なぜならば、清雄自身が作家伊原青々園に事の顛末を語っており、そのときの話を元に、広津柳浪が清雄をモデルとして『絵師の恋』とその後編である『自暴自棄』という小説を書いているからです*。

* 廣津柳浪『繪師の戀』『自暴自棄』春陽堂、明治39年。なお、小説の登場人物の名前や所属は変えてあり、川村清雄は潮田春雄として登場する。

もちろん、モデルがあるとはいえ小説は実際のできごとを脚色していますが、鉛筆生なる人物(伊原青々園といわれている)が雑誌『趣味』に発表した「悲惨なる画家の半生――柳浪が『絵師の恋』の実話」*という一文で、小説と実際の出来事との異同を指摘していますので、合わせて読むと30代までの清雄の姿が浮かび上がってくるようです。

* 鉛筆生「悲惨なる画家の半生――柳浪が『繪師の戀』の実話」『趣味』第1巻第5号、明治39年/1906年10月、75~97頁。

* * *

この最初の結婚を巡る話は川村清雄研究者には良く知られているのですが、すこし分からない部分があります。

「悲惨なる画家の半生」で、川村清雄自身「妻と足かけ二年居ましたが」と語っています(90頁)。おそらくこれを典拠にしてでしょう。「2年間」という結婚期間は他の文献にもたびたび引用されています。

現在江戸東京博物館が所蔵する川村家文書には、「明治17年1月 湯島4丁目武藤茂助長女みつと婚姻届」、「明治19年 妻みつと離縁」*とあり、ふたりが二年間連れ添ったことは間違いありません。

* 『維新の画家川村清雄展図録』208頁、年表。

問題は時系列です。

鉛筆生は「印刷局を逐はれると同時に女房持ちとなつた」と書いています(89頁)。しかし、川村清雄が印刷局を辞したのは明治15年なのです。

印刷局を辞した明治15年から婚姻届を出した明治17年までの2年間、二人はどのような関係にあったのでしょうか。籍は入れず、事実上、4年間の夫婦生活を送ったのでしょうか。ならば、「妻と足かけ二年居ましたが」という清雄の言葉はどのように理解すればよいのでしょう。

はなはだ謎です。これについては、私には今のところ結論がありません。

二回目の結婚

川村清雄の二回目の結婚については、時期・期間がよく分かりません。

最初の妻みつの離縁は、上に述べた通り明治19年。

鉛筆生によれば、「序でにいふが、春雄[=清雄]は最初の妻を離緣してから此の第二の妻を娶る間に、自分の繪を學んだ或る有名なる女敎育家と通じて居た」とのことですので、みつと離縁してすぐに結婚したいうことではなさそうです。

結婚のきっかけ、理由については、次のように書かれています。


更に第二の結婚についての物語がある、矢張彼れ自身の語つたままを次に記さう
△「ひとりで弱つて居る所へ、小金井の百姓が書生に来て居ました、其れが偶然に咄した縁談で、先方の親が其の為に遣つて来ましたが、元の庄屋か何か大身代の人で、縁談の当人は日本銀行の吉原さんへ行儀見習に勤めて居るから、当人を能く御覧なさいと呼んで来ました、
△「脇に居てボンヤリ見たばかしですが、よくも悪くもない、只財産的に承諾しました……

鉛筆生「悲惨なる画家の半生」91~92頁。


かなり長く経緯が記されていますが、林えり子氏のまとめによると、


にっちもさっちもゆかなくなった清雄は、貧すれば鈍すということか、財産家の娘を第二の妻として迎えることにするのだ。……女工との結婚の折りに見せた両親の仕打ちに懲りていた清雄は、今回は相談もせずに事を運んだ。それが父帰元の立腹を買い、祝言の式にも顔をださなかった。
この第二の妻ともつまるところ貧乏がもとで別れることになる……

林えり子『川村清雄伝』135~136頁。


なお、鉛筆生は最初の離婚後と2回目の結婚との間に関係のあった「女敎育家」の名を明らかにしていませんが、丹尾安典先生は華族女学校の図画教員であった塚原律子女史であったと推測*されています。

* 丹尾安典「川村清雄研究寄与」『川村清雄研究』67頁、註52。

この「女敎育家」との関係らしきことは木村『稿本』にも書かれています。


三十何歳かの頃女性の女子[※弟子の誤り?]の畫室え出𥡴古をされてゐたが、その弟子と云うのは大分画を良く描いたそうだ。或る日突然木の實を紙に包んで画伯に投げ付た、木の實を好みと解釈してそれ以来相思の仲となり、師弟の関係を遠慮して結婚をしなかつたが、画伯は十年間もこの女弟子の画室を日々訪問して、その十年間少しも初めと変わらなかつたそうである。結婚したらばそうは行きますまいと画伯は言われる。或る日生魚を買て夕食の菜にする筈の処が炭がない。二人して洋燈[ランプ]のほやの上にそれをかざして焼て食べたと話されるときには、画伯の眼は四十年以上前の昔に戻て異常な輝きを見せてゐた。

木村駿吉『稿本』126丁。


二回目の結婚の間にもこの関係が続いていたと、鉛筆生は語ります。「此の時まで未だ双方の関係が絶えなかつたので、斯かる貧苦のうち別に一層の風破が家庭に起つたものらしい」と(94頁)。

三回目の結婚

三回目の結婚も、時期・期間ははっきりしません。とりあえず、文献を引用しましょう。


[2回目の結婚が破綻した後、川村清雄は]友人の許に寄食して相變らず畵筆を執つて居たのであるが、何時しか昔ながらの恩人たる勝伯[=勝海舟]に救はれて再び其の保護を受ける事となつた。而[さう]して此の後に、彼は第三の結婚を行つたが、又も失敗に歸して今日も轗軻不遇[かんかふぐう]の間に放浪して居る。

鉛筆生「悲惨なる画家の半生」96~97頁。


この結婚については、木村駿吉がやや詳細に記しています。


画伯は勝[海舟]邸にゐられた時二度目[※実際には三度目]の結婚をした。媒酌人は波多野傳三郎氏で花嫁は越後の素封家の娘であつた。……夫婦で同じ様な衣服を着て、香水を浴びる様に振かけて冩真を取つたこともある。同棲一二年の間に画伯の自堕落な生活の為、嫁御の持参した財物は蕩盡され、生活は日々益[ますます]困難になり、その上画伯は嫉妬強く慘酷なことをして、嫁御の身体に生疵が絶えないようになつた、嫁御の兄は画伯に愛想を盡かし、行く末の見込みなしとて離婚を求め、その談判が勝伯邸で行われ、夫婦彌[いよいよ]離別となると、二人は抱擁して泣き叫んだそうで、その様子を見た勝家の人々は、あれこそ生木を割くと云うものかと言合つて、同情の涙をそそいだと云うことである。

木村駿吉『稿本』149丁。


林えり子氏の記述は木村『稿本』に依っていると思われます。


木村の稿本は、清雄の三度目(木村は二度目としている。ただし、いずれも正式に入籍した記録はない)の結婚にも触れる。波多野伝三郎という人を媒酌人に立てて越後の素封家の娘を貰ったのだ。
十二年間を連れ添うが、「画伯の自堕落な生活の為、嫁御の持参した財物は蕩尽され、生活は日々益困難」……またもや離別を余儀なくされた。……離婚の談判は勝海舟家でとり行われたそうなので、勝が逝去する明治三十二年に別れたのであろう。結婚したのは、明治二十年前後、清雄三十五、六のときと思われる。

林えり子『川村清雄伝』139~140頁。


林えり子氏はこの嫁を「十二年間を連れ添」ったとし、離婚の談判が勝邸で行われたことから逆算して、結婚は明治20年前後のこととしています。

しかし、です。

木村の記述は「同棲一二年の間」となっています。これは「1~2年の間」と読むべきではないでしょうか。といいますのも、他の箇所で木村は「十四年」、「十一日」、「十二日」という表記をしています。「12年」の意ならば「一二年」ではなく「十二年」と書いてしかるべきでしょう。

次に離縁の談判が行われた時期です。

清雄が世話になっていた勝海舟邸を出たのは、明治27年のことです。

鉛筆生こと伊原青々園が『唾玉集』の1章となる「画家の閲歴」のために清雄にインタビューを行ったのは、「明治31年五月末から七月中旬、小笠原長生宅で『御所車』の筆をふるっているころであった」*。『唾玉集』では省かれたエピソードを元に柳浪が書いた小説が『絵師の恋』と『自暴自棄』です。それを補足する「悲惨なる画家の半生」(明治39年)も、明治30年のインタビューが元になっていると考えられます。

* 丹尾安典「川村清雄研究寄与」『川村清雄研究』50頁。

そして、明治27年に勝海舟邸を出た川村清雄は明治30年には小笠原長生の庇護を受けており、明治31年の伊原青々園によるインタビューも小笠原邸で行われています。離婚が明治30年以降だとすると、その談判が勝邸で行われるとは考えにくいのです。

このように考えますと、川村清雄の三回目の結婚と離婚は、清雄がまだ勝海舟邸にいたころ、すなわち明治27年以前の出来事と考えるのが自然ではないでしょうか。

そして離婚を明治27年以前と考えますと、林えり子氏の「12年間連れ添った」説で逆算すると、三回目の結婚は明治15年以前のことになってしまいます。これは清雄がまだ印刷局に勤め、最初の結婚をするかどうかの時期になります。

やはり、清雄の3回目の結婚は明治20年以降、2回目の結婚が破綻した後の出来事で、明治27年以前に、その期間1~2年のうちに破綻してしまったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

四回目の結婚

川村清雄の4回目の結婚は、60歳の頃。29歳(!)の花嫁を迎えています。林えり子氏の文章から引用しましょう。


清雄が最後によき伴侶を得るのは、六十歳近くになってからである。
荻原源之助の長女でふくといい、三十歳下の明治十六年生まれの二十九歳になった花嫁を迎えた。ふくは陸軍大将乃木希典の縁戚である長谷川勝太郎・いね夫妻の養女となって川村家に嫁いできた。翌大正元年(一九一二)、清雄の還暦を祝う年の暮れ、十二月二十三日に長男(清衛)を出産して清雄に最高の贈物を授けた。……
そうして八年が経ったとき、まさかの災難に一家は見舞われた。ふくが病に倒れたのだ。清雄は懸命の看護をつくしたが、大正八年三月二十一日、薬効むなしく世を去った。清雄はその後妻を娶らず、男手一つで清衛を育てた。

林えり子『川村清雄伝』140~141頁。


木村『稿本』には、若干異なる事情が書かれています。


兎に角春陽堂の依頼で画伯は復活した。その後往來で逢つた知人達は画伯の服装を見て驚いた。画伯が衣食足りて禮節を知ると言われたと云つて評判をした。同棲の婦人はまめやかに家政を調え、追々と画の出來ばえを批評する様にもなつた。丁度レムブラントの窮迫時に於けるヘンドリケ*の様であつた。画伯の両親が相踵で亡くなられた時には貯金千圓を画伯に差し出し。画伯は昔の武家行列に擬えて、祖父の鍬形の兜を持たせたり、定紋付の被いをした曳き馬までさせ、行列には直衣を着せ四半の旗を持たせた。……画伯は家政を司つた同棲婦人の義に感じて正妻に直されたが、十三四年前幼児を遺して病歿された後は眞面目な獨身生活を續けてゐる。

* ヘンドリッキェ・ストッフェルス。レンブラントの後妻。

木村『稿本』111丁。


木村は、正妻となる前からふくが清雄の身の回りの世話をしていたと述べています。それはいつからのことなのか。

「春陽堂の依頼で画伯は復活した」と木村は書いています。清雄が春陽堂から『新小説』の挿画や表紙を頼まれるようになったのは、明治30年。46歳のとき。

清雄の母親は明治45年1月、父親は同2月に亡くなっています。木村に依れば、ふくはこの葬儀に千円を出しています。そして、長男の誕生は同年(大正元年)12月。

3回目の結婚が破綻したのは上に述べた通り、明治27年以前と思われます。

これらから考えると、清雄とふくは、明治30年代から明治40年代はじめまでのいずれかの時期から同棲していたと考えられましょう。具体的には今のところ分かりません。

ふくは大正8年(1919年)3月21日、37歳で亡くなっています。清雄が68歳、長男清衛が8歳のときです。

なお、ふくの出自については、林えり子さんの記述の出典が分かりません。

五回目の結婚

さて、4回の結婚をした、と言われている川村清雄が、じつはもう一度結婚していた、というのが今回の目玉です(笑)。

川村清雄の5回目の結婚については、これまで他の文献で見たことはありません。『読売新聞』に載っていたもののみです。

出来事は大正11年の暮れ。川村清雄が71歳の時のことです。それも相手は「孫娘のやうな若い美しい奥様」。

しかし二人は「僅か十日で離婚した」というのです。いったいどういうことでしょうか。全文を引用しましょう。




花むこ十日間
=七十一歳の川村清雄画伯=

(あれは怪談以上です)といふ

◇チャキ チャキの江戸ッ子で、洋画壇切つて変人扱いされてきた川村清雄さんが、無論後妻ではあるが昨年末七十一歳で孫娘のやうな若い美しい奥様を迎へ花婿になりすましたとあつて大した評判だつたが、僅か十日で離婚したとの報に接して千駄ヶ谷の草庵に翁を訪へば
◇黒龍会 の老壮士某君に居催促を喰つて、春早々から木偏に柿と青林檎と勝栗をとりまぜた静物を、チビリチビリと盃を挙げたりパレットを握ったり、見るからに童顔の老禅僧といつた扮装で皮肉を頻発しつつ元気に描きかけてゐるところ、忽ち出来上がるのを待つて離婚の感想を叩く『イヤなにあれは全くどうも
◇不思議 な話ですよ、怪談以上といふところですがね鳥渡(ちょっと)まだ真相はお話しかねますナ
、懇意な緒方さん*といふのが仲人で迎へては見たものの緒方さん自身が離別を強行した訳でして私としても誤解は受けたくなく、先方の娘さんにも傷をつけたくないといふのが私の偽らぬ告白です
◇兎に角 東城鉦太郞君**もよく解解して居てくれますが、一場の怪談でした』と多く語らうとしない……かと思へば『わが庵は竹のはしらに萱の屋根、まこもさげたる籠居にして――をご参考までにごらんに供しませうかな、これこの通り暮から十五日間敷づめの夜具が客間を占領してるといふ大醜態です
◇何しろ 飲みますからなこの年で日に六七合から一升もやらかす事もあつて……あなたは御酒を召し上がらない?、それは淋しい』と独りで飲み且語りつづける『明治神宮の壁画も手前如き老ぼれに大命が下りまして恐懼至極の次第、でも下絵を三枚程拵へましたから何れお目にかけます、画題ですか?、「振天府」ですよ』……
『けふは頭の
◇具合が 悪くてネ、でも海軍少将***のお世話でヤツと茨城生れの女中おとりさんが来てくれてほツとしてゐるところです、ごらんの通りの無礼講の職人生活でハアハアハア』といい御機嫌

* 清雄の支援者の一人、尾形正弥(1889~1967)のことと思われる。
** 東城鉦太郞は清雄の一番の弟子。
*** 小笠原長生のことと思われる。

『読売新聞』1923年(大正12年)1月13日、朝刊5頁。


結局のところ、なにがあったのかは謎のままです。
大正11年12月から大正12年1月の『都新聞』をあたってみた限りでは、この出来事についてはなにも見つけることができませんでした。

なお、記事中「懇意な緒方さん」とは、おそらく清雄の支援者であった尾形正弥(1889~1967)。

江戸博展図録にはつぎのように書かれています。


尾形正弥
明治22年~昭和42年(1889~1967)
官僚をへて出版業を営む。雅号は藤園、清雄が千駄ヶ谷に居住していた頃、近所のよしみで川村家と親交があり、大正期に清雄の負債整理に協力した。正弥の次女綾子が生まれた時に清雄が名付け親となった。清雄の長男清衛は、清雄の没後、綾子と結婚した。(172頁)


川村清雄の艶聞

最後に、清雄のその他のラブアフェアについてメモしておきます。

木村駿吉の『川村清雄 稿本』には「性生活」という節があります。なんとも露骨なタイトルですが、木村は「第三十三節性生活の記事はなくもがなとも思つたが、画伯の憂かりし旅路を慰めた花として、風景画中の朱の一筆として、楊栁江頭浅妻船に緋の袴と觀じて記して置いた」としています(5丁)。

そもそも、最初の結婚の顛末が世に知られているのは、清雄が伊原青々園に語ったからであり、青々園はそれを自分で小説にせず、材料を廣津柳浪に渡して、柳浪が『繪師の戀』『自暴自棄』という小説に仕立てたためです。

鉛筆生こと伊原青々園が「城西に尙ほ健在なる彼れは此の記事を讀んで、辛かりし己が半生の經歷を想起しつゝ大かた破顔一笑するであらう」と書いたとおり、清雄がこのできごとが――匿名ではあるけれども――公にされることをいやがっていなかったことは、「『絵師の恋』『自暴自棄』のそれぞれ前後編四冊すべての装幀をひきうけ、口絵も最初の一冊のみ清方にまかせあとはみずから描いているところにうかがわれ」*ます。

* 丹尾安典「川村清雄研究寄与」『川村清雄研究』50頁。

川村清雄は伊原青々園にも、木村駿吉にも、虚実ない交ぜて自身の遍歴を語ったようです。「悲惨なる画家の半生」には、妾を置いていたとの言葉もありますし、木村『稿本』には、「ヴェニスのアカデミーにゐられた頃、同輩の不良生に誘われて青樓に行つた処が、忽ち樓主の娘から戀をされて、その場から娘は画伯の下宿に推しかけ、暫く同棲をしたと云う話」も、女弟子との関係も書かれています(126丁)。

さらには、木村は画伯の話を次のように書いています。


画伯は若い時に精力絶倫であつたらしい。どう云う意味で誰が付けたのか、画伯は五時間という綽名を持てゐた。体力が非凡に強かつたのだろう、昔の冩山樓文晁の様に、栁澤淇園の様に、尾形光琳の様に、ラフハエルの様に。画伯はまた笑いながら話された。ボツカチオの様な文豪が見えたら、隨分澤山材料をやりますよ、私のはデカメロンの様な噂話やまた聞きの生温るい生活ではない、このおやぢが永年かゝつて体驗した、煙の出るように生々しい事實談です、その中お話いたしますから書いて下さい。……こんな事實談を澤山集めて一々それに画伯の挿画でも加えたら、とてもデカメロンの及ばない讀物になろう。

『川村清雄 稿本』127丁。


いやはや……。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

2013年2月12日火曜日

川村清雄ノオト 06

川村清雄の遅筆


洋画壇切つて変人扱いされてきた川村清雄さん

明治の中頃から奇人として評判の高い川村清雄翁

いずれも『読売新聞』1923年(大正12年)


川村清雄を「奇人・変人」たらしめていた理由のひとつに、彼の遅筆が挙げられます。画の註文をうけてから描き始めるまでに時間がかかることはもちろん、描きかけたまま5年、10年とおかれているものもあったとか。

頼んだ画ができあがらないということは、註文主の怒りを買うことになります。

画が仕上がらないということは、潤筆料を受けとることができません。しかもすでに画題の取材にお金も掛けているので、彼はさらなる貧窮へと追いやられるのです。

こうしたエピソード、その結果が、川村清雄に対する世間の「奇人・変人」という評価だったのでしょう。

ただし、木村駿吉は、川村清雄の遅筆は決して怠惰や怠け癖のためではなかったと述べています。

そうではなくて、描くための事前準備、取材があまりにも入念にすぎる。その上、構想が完結するまで描き出すことができず、あるいは描き始めた後も不足が感じられて手を入れ続ける。結果的にいつまでも完成しないのだと。

そのあたりの事情について『川村清雄 : 稿本作品と其人物』(1926年/大正15年)にはたくさんのエピソードが挙げられています。

今回はその中からの抜き書きです。

川村清雄の時間の観念

まずは、川村清雄の時間の観念。

清雄は画を描く時間の見積に、取材や調整などにかかる時間を計らず、純粋に筆を入れる時間のみで述べていたとか。


川村画伯の時間の觀念は我々凡俗と全く違つてゐる。自分の大作を指してあれは五時間で描上げましたとか、この画はあと三時間で落成しますなどと言われるが、その五時間三時間なる時間は、油繪具を塗る時だけの正味の時間のことで、構圖を頭の中で作り上げたり故實を調べたり、モデルを用意したり生活に附きまとう時は一切計算に入れないのだ。であるから画伯の三時間は我々の時計で二週間に相當することもあれば、五時間と云うのが我々の暦で十年に當たることもある。いつ幾日に出來すると云われるのも繪具を塗る正味の時間から概算したもので、一筆每に考える時間は加えていない。それを他の几帳面な仕事と同じ意味に取て、ペンキ屋の様に画伯が朝から夕まで根氣よく繪具を塗ると早がてんする、如何にも約束の日には充分出來上がりそうに見える。……画伯からいつ幾日に出來ると云われて凡俗の暦でその日を待ち、再三失望させられた人は感情を害する。

『川村清雄 稿本』58丁。


また、日常生活においては、さまざまな出来事の時間的な記憶が曖昧であることも記されています。


川村画伯は画に関係した事柄では非凡の記臆力を持ち、用意周到で頗る精密であるが、時日や時間のことになるといつも實に漠然としてゐる。自分が米國に渡航した時日も、伊太利から歸朝した時日も、正確に覺えてゐないようである。巴里で學んだ時も伊太利に滞在した年月も判然しない。永い年月となると十年の二字で片付てしまう。十年間関係を續けたとか、十年目に約束が成立つたとか、十年間品物を預かつてゐるとか、十年になるが完成しないとか言われる。年月の單位が十年なのだ。であるからこの稿に記入した時日と年月とは画伯から聞いた儘では安心が出來ぬ。小笠原子爵や副島八十六君や天野亀太郎君に質して訂正したが、それでもまた判然としないのがある。

『川村清雄 稿本』62丁。


ただ、木村駿吉の『稿本』が書かれたとき川村清雄は76歳でしたから、時間的な記憶が曖昧なことも致し方ないのでは、と思われます。


いつまでも着手されない画

遅筆の理由のひとつは、その取材があまりにも入念で徹底していたこと。

川村清雄はどんな画であっても全くの空想で描くことはなく、画題となるモチーフを集めたり、生き物であればそれを飼ったり、剥製を求めたそうです。空想上の動物——たとえば龍——であっても、馬の頭骨などを手掛かりに作品を描いたというエピソードは有名です。


明治二十六年の巳年十二月半ば龍を描く気になって、血だらけな馬の頭の皮を剥いでモデルにし、角は鹿、爪は鷲、背首のあたりのとげとげした部分は栄螺、胴体は蛇を参考に、十二月二十五日より描きはじめ、大晦日の夜の八時頃に描きあげ、勝[海舟]から百円を受け取り、暮の払いをすませたという話である。関如来の伝えるところによれば、馬をモデルに使ったのは、「馬琴の八犬伝に龍首馬首相似たりと、かいてあつたのを、古い記憶から喚起して活用した」のだという。

丹尾安典「川村清雄研究寄与」高階秀爾、三輪英夫編『川村清雄研究』中央公論美術出版、1994年、59頁。



鳩や鴨などになると、飼養して研究した上句描きたい姿勢をしたものを標本師に作らせる。歴史画風俗画有職画であると文書を調べる。山伏を尋ね出して正装をさせる。猿を描くときには猿廻はしを常雇にする。静物画であると、実物でなければ模型を作らせる。貧乏はしてゐても畫の為には費用を惜しまない、借金か入質で辨じていく。構想の容易くまとまるのもあろうし、數年かゝつて苦心してまとめるのもあろう、それを少しも面倒がらずに心行くまで練りに練つてから描き始める。

『川村清雄 稿本』48~49丁。

……画伯の家には今生きた鸚鵡と野鴨がゐる。いづれ画の為に良い姿勢をした剝製となつて、多年養育の恩に報ゆることであろう。

『川村清雄 稿本』54丁。


モチーフとなるオブジェが手に入らず、何年も探し廻っているうちに仕事が立ち消えとなり、悪評だけが残ったという話。


幸田延子女史*に川村画伯の画を贈りたいと云う人があつて畫伯に相談すると、ハープを持つた天人の圖を描こうと言われ、其の圖の有様を眼に見る様に説明された。延子女史もそれを聞て樂しみにしてゐられたが、いつまで経つても描き始めない。川村画伯と云う人は口先きだけで畫を描くのだと評判したものもあつた。三四年の後関係者の一人が別用で画伯を訪問すると、畫伯は壺形パープ[※ハープの誤りか]の石膏模型を示されて、それを手に入る迠[まで]のいきさつを話された。その三四年間は折にふれて東京中の樂器店を尋ねて、普通の形でない壺形パープを探してゐた。新しく輸入され様かとそれも待てゐた。どこにも両側の丸くふくらんだハープがない。神田の店のはこんな形、京橋の店のはこんな形と東京中のハープの形を盡く説明され、偶然中上川家**を訪れると望み通りの形をしたハープがあつた。畫伯の喜びに同情して中上川氏がそれを石膏で作らせたのであつた、天人のモデルはどうする積りか聞かなかつたが、この画は催促する人もなく中途立消えになつてしまつた。

『川村清雄 稿本』51丁。


* 幸田延子(1870/明治3年〜1946/昭和21年):ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育家、作曲家。幸田露伴の妹。
** 実業家、三井財閥の中上川彦次郎のことか。

いつまでも完成しない画

いったん描き始めてからも、画が完成するまでにはかなりの時間を要したようです。


福井菊三郎氏の宅には九尺の鳥の子張りの襖二枚の大作がある。黒塗蒔繪の唐櫃と、能装束と、香袋と、鶴亀の冠と、高砂の面と、伊勢物語のかるたと、小猫とを描いたもので、十年来未了の處も残つてゐる。画伯は良く覺えてゐて、その中に完成すると言てゐられるが、福井家ではまだそれを他人に見せず秘藏してゐると云うことである。この画も完成しないでこの儘の方が最高点にあるのかも知れぬ。福井家の板戸二枚は十年間画伯の宅え預けられてゐて、画伯はその中に描きますと言つてゐられるが、これに描く為の印度産の珍鳥珍獸の剝製は、十年間画伯の家にあつて、羽翼はゆるみ体に虫がついて、見るも哀れな体裁で緣側に整列し、成佛の日を待わびてゐる。 或る人から頼まれた六枚折金屏風は、紫陽花と水の流れが下繪に描かれただけで、十五年間画室に立つてゐる。

『川村清雄 稿本』143丁。


他人から見たら画が完成したといっても差し支えないのに、本人がなかなか筆を置くことができず、また画を納めてからも書き足したくなることも。


畫伯が畫を完成しないと云う風説は事實である。例を擧げてみると某家の大作もお禮を取つた儘十年間一小部分が完成しない。植村家のもそうである。小笠原子爵家のもそうである。併しそれには種々の理由があるらしい。畫伯が豫定の通り下繪に依て描上げると、下絵の紙と本物との相異から、或は又額縁に収めて實際の場所に画を置いて見た後の心持ちから、或はまた画の出来上がつた時にモデルの不足であつた関係から、後になつて少し計り描加えたい氣にもなり、それをまた自分から言い出すので、先方では画がまだ完成しないものと思てしまう。その場合冩生の材料が容易に手に入らなかつたりするとつい延々になる。描き足しに出掛けるのもおつくうである。画伯はこのことを「言い出し屁」と名を付けて時々困つてゐられるが、藝術心の發露であつて何事にも徹底したい性質であるから、この癖は直らぬであろう、自分で言い出さなければ先方では完成したものと思つてしまうのだ。

『川村清雄 稿本』70~71丁。


本人が「完成した」といえば、それで終わりになるのに、そうしないために、結果的に完成していないことになってしまうわけです。

遅筆ゆえの悪評

絵が完成しないことは、直接間接に川村清雄画伯の評判を落とすことになりました。


画伯の画がいつまでも出来上がらないのを怒つて、画伯が伊太利以来使い慣れてゐるパレツトを捕虜に取上げて返さない人もある。……画伯に依頼した者は三年五年と待つてゐるのが中々あるらしい。

川村清雄 稿本』88丁。


悪質なブローカーも。

畫伯の作品を安く描かせて富豪の家に持つて行き、それを大金で賣付るブローカーもあつた。併しこのブローカーの仕事も容易ではない。賣付る時に富豪を口説く勞を別としても、畫伯の所え度々來て催促し、拜み倒して見たり怒て見せたり、大概のものは根氣負けをして止めてしまうのを我慢する。一年で描てくれるか五年の後か分らない。折角出來たものを他のブローカーにせしめられる心配もある。なみ大ていな苦心ではあるまい。商売としてはとても引合わない仕事だから、時たま手に入つたものでしこたま儲けることになるのだろう、今はブローカーの方から手を引てしまつたらしい。併しブローカーの出鱈目の口上の為にどの位畫伯の悪評を招いたか分かるまい。中には畫伯に頼んでやると稱して金子を受取り、畫伯には何も知らせずに自分の懐にねじ込んだ自稱仲介者と云うものもあつたそうだ。この男は無論畫伯に罪を被せる、金を拂つた人も画伯を悪く言振らす。

『川村清雄 稿本』77丁。


こうして世間は川村清雄のことを「のらくら者」と断じることになるのですが、木村駿吉は繰り返し反論しています。


世間は川村画伯はらんだ[懶惰=めんどうくさがり]のらくら者と信じ切てゐる様であるが、實際は全く正反對で、画伯のすることなすことが極めて念入りであつて、一般の畫家と余りに懸離れて丹青を凝らす為に誤解を受けるのであらう。
……參考のために書物を讀むとか、構圖を練るとか、古器物やモデルの品物を集めるとか、見學に行くとかして、それから後に細密な下画にかゝる。海舟伯のお世話になつてゐる間も、冩生に出掛けたり材料を探しに行くと、周圍の心ない人々からまた川村が遊びに行くと噂され、それを少なからず氣に病んだそうである。……世間の人はブラシを手に持て油絵具を塗てゐなければ遊んでゐる様に思うのだが、それは詩人に向て何時でも揮毫してゐろと云う様なものである。

『川村清雄 稿本』56~57丁。


もっともなことです。

※この稿、随時加筆修正の予定あり。

2013年2月11日月曜日

トマソン

木造モルタル住宅2階の壁に残る、扉の痕跡と庇。
トマソンの「ヌリカベ」と「ヒサシ」に相当するものでしょうか。


| shoto | feb. 2012 |

かつて扉であったものの脇にはインターフォンが残されています。
まだ機能しているのでしょうか。


| shoto | feb. 2012 |

ピンポンダッシュしてみたい。
でも、どうやって?